第28話 思い出
その白い手帳の表紙に手をかける。表紙は少しざらついていていかにも高価な雰囲気を醸し出していて。少しずつ剥がれている表紙をめくると古い紙の匂いがかすかに鼻孔をかすめた。
表紙をめくると大きくタイトルが付けられたページが現れた。そこにはこう書いてあった。
『Te amo』
意味の分からないそのアルファベットの羅列から、僕は何故か尊大な感情を感じた。しかし僕はその言葉の意味をスマートフォンで調べることはしなかった。それは「無粋」だと感じたからだ。
僕は恐る恐る次のページをめくる。そこには綺麗な字でこう書かれてあった。
「今日この日が、私の人生で最も幸せな日になることを願ってこの日記を書き始めようと思います。といっても、あとで読み返すつもりもないのでただの落書きみたいになっちゃうかも。私みたいなつまらない人間のつまらない日記が、もし誰かが読んだ時に心を揺さぶるようなことがあればいいな。まず初めに、私に恋人ができました。名前は浜松裕斗くん。優しくて、すこしおっちょこちょいで、それでいてたまーにだけかっこいいような、そんな人です。なんだか自分で書いてて恥ずかしくなっちゃったな」
本当だ。僕も読んでいてむず痒くなってくる。こんな盛大なのろけ話を世奈さんがするなんて、今更イメージをひっくり返されたようなそんな気分だ。やばい、今の僕はもしかするとにやけているのかもしれない。だとしたら相当に気持ち悪いな。
僕は自分の頬の筋肉を指で抑える。それでも口角は上がってくるので、しかたなく少し笑いながら続きを読む。
「裕くんは私に言ってくれました。『幸せになってもいい』って。私は今までそんなことを誰かに言われたことがありませんでした。病気の私をみんな心配してくれたり、時には泣いてくれたりしたけれど、みんなは口をそろえて言いました。『かわいそう』だと。私は久しく忘れていました。幸せ、って何なのか。それを裕くんは教えてくれました」
今でも覚えているあの泣き声。あの意味を僕は今初めて知った。世奈さんにとって僕のあの言葉がどれほどの意味を持っていたかなんて、僕には想像もつかなかった。
世奈さんが僕を助けてくれたように、僕も世奈さんを助けていたのか。
「○月×日 今日は裕くんと公園に行きました。天気もすごくよくって最高のピクニック日和、だったけど肝心の弁当を忘れてしまいました。急遽、公園にある売店でホットドッグを買ったのですがとてもおいしかったです。もしかしてホットドッグを今日初めて食べたかも。だからあんなにおいしかったのか。今納得しました。裕くんとホットドッグ記念日を迎えることができてよかったです」
覚えている。あの日の前日、世奈さんが張り切って弁当を作ると豪語したことも。弁当が無い事を知って二人で笑い合ったことも。ホットドッグを頬張った世奈さんの横顔も。
全部、覚えている。
「△月□日 今日は裕くんとカフェで、昨日読んだ本について話しました。裕くんが昨日読んだ本は推理小説。私はあまり読んだことがないけれど、裕くんが楽しそうに読んだ本について話しているのを見ると、今度私も読んでみようかなと思います。ちなみに私が昨日読んだのはファンタジーで、裕くんは興味津々で私の話を聞いていました」
これも覚えている。世奈さんが読んだ本が吸血鬼と人間の話であったことも、その日僕と世奈さんが頼んだドリンクも。全部、覚えている。
次々にページをめくる。全部、全部全部全部覚えている。どれも世奈さんとのかけがえのない思い出だ。忘れるはずがない。ページをめくるたびにその思い出がよみがえっては僕を優しく包み込んでくれた。
遊園地の話も書かれている。
「今日は裕くんと初めて遊園地に行きました。人混みが凄くて大変で、絶叫マシンに乗り過ぎたせいか裕くんもへばってしまったけど一緒にイルミネーションを見ることができて本当に良かったです。そして、イルミネーションのドームの下で、その・・・やっぱりこの話は無しで!とても楽しかったです、おやすみなさい!」
あ、逃げた。僕は思わずぷっと吹き出してしまう。この手帳の中での世奈さんはまるで『彼女』のように感情が豊かなように思えた。『彼女』のように、よく笑ってよく泣いてよく怒ってよく楽しんで。
僕は早く続きが読みたいと、ペラペラとページをめくる。次々に溢れてくる思い出、その時の感情、そして彼女の体温。
全てが愛おしく、そして全てが切ない。遠い昔のようで、たった1年前ほどにあった現実で。小説のようにドラマチックでロマンチックではないけれど、僕からすれば小説よりも「綺麗」な物語で。
僕は、めくる。彼女と僕の物語を。かけがえのない物語を。
そのめくる手は決して止まらないように思えた。しかし、僕の手は突如止まった。
『五月十八日』
僕の手が、急に震えだしたのを感じた。そうだ。彼女が僕の元を離れ無機質な部屋に閉じこもった、あの日だ。
僕は、生唾を飲み込んだ。ダメだ。動悸がとまらない。口が渇いて仕方ない。これ以上は見てはいけないと体中が叫んでいる。
しかし、止まるわけにはいかない。彼女の、いや彼女たちのためにも僕はこの手を止める訳にはいかないのだ。
震える手をそっと、ページの端に添える。
『大丈夫、君はもう強いんだから』
誰かが耳元で、そう囁いたような気がした。
僕は、その幻聴に身を任せページをめくった。
『この日記もいつまで書けるか分かりません。だから、この際思ったことを全てこの場を借りて言っちゃおうと思います。まず最初に、今日から裕くんと少しだけ離れることになりました。本当に少しの間だけだからきっと大丈夫だけど、裕くんは寂しがりやだからすぐに帰らないとなぁ。そしてここで裕くんに謝っておきます。まず、こんな日記の中で謝るような卑怯な私を許してください。そして病気のことを黙っていてごめんなさい。でも、決して悪意があったわけじゃないんだ。きっと、私裕くんの前で泣き崩れたと思う。病気の事を言ったらね。だからそのね、怖かったの。死ぬことなんて怖くないと思ってた。もう私はそういう運命なんだって、そう思ってた。けどね、裕くんと過ごしてもう少しだけ生きたいなと思っちゃった。思っちゃたんだ。』
僕の手がまた震えだした。胸が締め付けられるような、そんな痛みのような痒みのようなそんな感覚が、体の奥底から湧き出してくる。
『だから私、頑張るよ。絶対に裕くんにもう一度逢ってみせる。その時にはきっと私の病気も治って、裕くんと行きたい場所に行って、見たい映画を見て、やりたいことたくさんやって、泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って、そんな人生をもう一度歩んでみたい。もう一度生きたい』
彼女の心の叫びは止まらなかった。ただひたすらに、自分の中にある感情を全てその日記にさらけ出しているような、乱暴で粗末で人間らしい感情。
彼女の叫びは止まらないと思っていた。しかし、彼女の五月十八日の記録はそこで止まっていた。
「なんだよ・・・」
僕は一度、その日記から目線を天井に向けた。天井はただ静かに、僕を見つめ返すかのように、そこにあった。
「世奈さんだって・・・僕と同じだったんじゃないか・・・!」
僕は、怒りとも悲しみともとることのできない感情をその声に乗せた。
その感情は決して喜びなどではなかった。ただ、彼女と自分の感情がその時一致したかのような感覚。その感覚に対する違和感と快感が、僕にその感情を抱かせたのだ。
僕は、彼女の日記に目をもう一度向けた。おそらく何も書いていない次のページを、スッとめくった。
そこにはポツリと書いてあった。
『生きたい』
と。そこで日記は終わっていた。本当にそれで最後だった。
僕は、そのページをただ茫然と眺めていた。
「世奈さん・・・」
僕は、その日記を額に押し当てた。涙が、体の奥からあふれてくる。
その日記からは、彼女の温かさが感じられたような気がした。彼女の、春のような温かさ。
「・・・頑張るよ、世奈さん」
僕は涙をぬぐい、あるものを探し出す。そうだ、思い出した。あれは棚の中にしまったのだった。
僕は棚を開け、中を見る。そこにはあった。変わらずに、そこに眠ってくれていた。
世奈さんにあげるはずだった、誕生日プレゼント。
僕はそれを手に取り、立ち上がった。行くしかない。場所はもうわかっている。きっとあそこに行けば、『彼女』に逢えるはずだ。
僕は、エアコンの電源を切るのも忘れて、何かに背中を押されるように玄関に向かう。
『ここから先は、きみ次第だよ』
誰かが後ろで、そういったような気がした。
僕はもう一度深呼吸をする。やるんだ。やるしかない。もう僕一人の問題ではないのだから。
僕は意を決してドアを開けた。夏の夜の独特の空気が、部屋に舞い込んでくる。
僕は、思わず目を細める。そしてその足は前に踏み出そうとして
「どうしたの?ゆったん」
そこには香音が立っていたのだった。
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