第18話 再度の別れ

胸から下が海水で冷やされ、体温がそれにつれてどんどんと下がっていくのが分かる。明日はきっと風邪をひくだろう。僕はまるで他人事のような感想を思い浮かべた。


海から上がり、僕と『彼女』は砂浜に打ち上げられた流木に腰を下ろしていた。流木は波の力で半分に折られたようで、向こうにその片割れが横たわっている。無造作に折られたその流木の半身がまるで自分のように感じられ、冷えた身体がその憂鬱をまた掻き立てる。

夜のさざ波だけが響く夏の砂浜。本来ならロマンチックな場面なのだろうが、しかし今はとてもじゃないがそんな気分にはなれなかった。

少し距離を空けて、隣に世奈さんが静かに座っている。その瞳からは普段の明るさは感じられなかった。目の前に広がっている暗黒の海と同じような「黒」。それが今の彼女だった。


僕は耳に心地よく響く波の音に、少しだけ身を任せた。心が安らいでいくのが分かる。海は正しく人類の母だ。その母の子守唄を聞いているようで何だか安心する。

その子守唄をファンファーレに代えたつもりで、僕は『彼女』に思い切って尋ねる。


「・・・さっきの意味って?」


波の音だけが、その問いに答えた。彼女は俯いて何も答えない。


「世奈さ・・・」

「やめて」


僕が『彼女』の名前を呼ぼうとした瞬間、彼女はその潤んだ瞳を見開いて、そう僕に訴えかけた。その瞳には底なしの恐怖が映っている。


「私を・・・もうその名前で呼ばないで・・・」


よく見ると彼女の肩は小刻みに震えていた。その震えが寒さからじゃないことなど、僕にも分かった。

違和感はずっとあった。その違和感から飛躍して思い描いていたことが事実として突き付けられるだけで、ここまで人はおびえ戸惑うのか。彼女だけじゃない。僕だっておびえている。目の前の、愛おしいと思えたその『事実』に。


しかし、だからと言って僕も止まるわけにはいかなかった。『彼女』が言った言葉の意味を理解するまでは退くにも退けないところまで、僕は来てしまっている。


「君は・・・春野世奈じゃないなら誰なんだ?」


だから、あと一握りの勇気を振り絞る。


「・・・っ」


『彼女』は、僕のその問いにおびえたように反応すると、膝を抱えて息を大きく吐いた。

そしてまた大きく吸って、吐いて。それを5回繰り返して、彼女は、毅然としてこちらを向いた。その瞳からまだ恐怖は消えないが、それでも『彼女』はその震える体をどうにか押しとどめて僕に向き合った。


「私はね」


そして『彼女』は静かに口を開く。


「春野世奈の抜け殻なんだ」


そして、そう告げたのだった。



「抜け殻?」


僕は、その答えの引っかかった部分をまた『彼女』に尋ねる。残酷だ。僕は今、彼女にこれまでにないほどの残酷な仕打ちを与えている。それを知ってなお、僕はまだ突き進んだ。彼女が傷ついて、僕も傷つく。その傷を僕は、一人で舐めるのだ。


「そう、抜け殻。私は君の・・・裕くんの『思い』から生まれた、春野世奈の残りカスなんだよ」


彼女は自嘲めいた笑みと共に言葉を続ける。見ていられなかった。しかし見なければならなかった。『彼女』のその姿を、その叫びを魂に刻まなければならなかった。


「裕くん・・・鈴木さんに聞いたって言ってたよね、大事にしたものには魂が宿るって」


確かにそう聞いた。そして僕がその話を『彼女』にしたとき、『彼女』は苦虫を嚙み潰したような顔をしていたのを思い出す。


「私もそれなんだ」

「え・・・それって」

「私も、その魂なんだ」


『彼女』は、流木のそばに落ちていた枝を拾って砂浜に絵を描き始めた。きっと、話す辛さを誤魔化すためだろう。僕は、そんな世奈さんを見ながら話しの続きを聞いた。


「私はね、裕くん。君に生み出されたんだ。君の、春野世奈に会いたいって気持ちが、何かを依り代にして私を生み出した」


『彼女』は砂浜に、横線と縦線を2本ずつ引いた。鳥居、だろうか。


「でも、その時に君の思いも混ざったんだ。春野世奈と遠くに行ってみたい。ずっと笑う春野世奈と過ごしたい。自分のことを一番に考えてくれる春野世奈に甘やかされたいってね。いろんな願いと、私への思いが混ざった」


その鳥居の下に、棒人間を一人描いた。


「そして生まれたのが私。春野世奈の形をした歪な存在、それが私」


そして、その棒人間に『彼女』は大きくバツを付けた。


「だから私は春野世奈じゃない。君が好きな、愛した彼女じゃない」


砂浜に描いた絵が、押し寄せる波に消された。後には何も残らない。『彼女』は持っていた枝を、まるで力がスッと抜けたかのように砂浜に落とした。


「だから私は、もう消えることにしようかなって」


そして彼女が、寂しげにそう呟いた。砂に描いた絵を消して、どこかに向かう波の音だけが後に響いた。

消える、と彼女は言った。しかし、今の僕にはその現実をなぜか受け止められる余裕があった。彼女が『消える』と言っているのに、それを僕は止めようともしない。愛おしかった『彼女』を引き留めようとしない。


「大丈夫、私がいなくても君は大丈夫」


以前の僕なら、目の前の『彼女』に泣いて縋り付いてでも止めたはずだ。たとえそれが彼女ではない何かだとしても、その形が春野世奈であるのなら僕はそれ無しには生きられないと思っていた。

しかし、現実は違った。『彼女』は教えてくれた。僕を取り囲む人や物が、春野世奈以外にもたくさんいるということを。自分一人で何かを成し遂げた時の達成感を。そして、愛する人にもう一度逢えた時の感動を。

だから今、僕はここにいる。そして彼女なしでも生きられる強さを得ることができた。目の前の『彼女』が、僕をここまで導いてくれた。


『彼女』は僕が座る隣に、もう一度腰を下ろした。次は先程よりも遠くに。


「だから、もう、行くね。またいつか会えた時は、笑って私に手を振って、『春野世奈』の手を握ってあげて」


『彼女』の言葉がかすかに震え始めたのが分かって、それでも僕は何も言うことができない。


「でも、もし最後のわがままを言えるのなら。それが許されるのなら」


『彼女』の言葉がそこで止まる。僕は次の言葉を、自分の足元の砂浜を見つめながら待った。

その時、彼女がかすかに嗚咽を漏らしているのに僕は気づく。

僕はゆっくりと彼女の方を見た。彼女は僕に気づかれまいと、声を押し殺してそれでも抑えきれない声を僕と海だけに聞かせて、涙を流していた。

そんな彼女に、僕は何と声をかければいいのだろうか。何を言えば正解になるのだろうか。きっと今の僕に導き出される答えでは彼女を幸せにはできないことを知っている。

だから何も言えなかった。


「もう一度・・・『愛してる』って言ってほしかった」


そして『彼女』は、絞り出すようにそう言った。まるで許されざる禁忌の言葉を口にするかの如く震えながら、それでも溢れくる感情の波をコントロールできずに出てしまった様子で、『彼女』は震えながら言った。


僕はそれを聞いた瞬間、なぜか自分の図星を突かれたような気持ちになり苦い表情が表に出てくる。

そうだ、『彼女』と出会ってから一度も僕は『愛している』と口にしていない。聞こえの良い美辞麗句ばかりを並べ、いざとなれば泣いている『彼女』に声をかけることさえもできない。

本当は、『彼女』も気づいていたのだ。僕自身が、春野世奈を言い訳にして自分の殻に閉じこもっていることに。本当は自分が弱いだけなのに、それを春野世奈がいなくなったことと結び付けて、怠惰をむさぼっていただけだということに。


僕は・・・


「僕は・・・」

「うん・・・」


『彼女』が続きを求めるように返事をする。そうだ、僕の心の内を言えばいいだけだ。この十数日の間だったが、その間『彼女』と過ごした日々は決して悪いものではなかった。永遠に続けば良いとさえ思っていた。そんな彼女に感謝を込めて、愛を伝えればいいだけだ。それだけのことだ、何を詰まる必要がある。


「僕は・・・」


言え、『愛している』と『ありがとう』と。ただそう言葉にするだけで、『彼女』は救われるのだ。彼女の存在理由がそれだけで生まれるのだ、言え。


「僕は・・・!」


僕は思い切って彼女の方を向いた。その言葉を伝えるために。

そして瞑っていた目を大きく見開く。

覚悟は決めた。『彼女』の気持ちも汲み取ることができたはずだ。

あとは言葉にするだけ。


「君を・・・・・・え?」



しかし、そこに『彼女』はいなかった。

暗闇と波音と、そして割れた流木。最後に僕だけがそこに取り残されていた。

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