第17話 列車に揺られて

海岸沿いをゆっくりと走る電車に揺られながら、僕はスマートフォンを見ていた。隣では世奈さんが窓の外に広がるキラキラと光る海、そしてその海と空を分ける水平線を夢中で見ているようだった。


ここに至るまでの説明をまずはしなければなるまい。

世奈さんの思い付きで海に急遽向かうことが決定した僕は、まず今日行くはずだったバイト先の店主、鈴木さんに電話をかけた。電話を掛けるときは、正直死ぬほどビビっていたのだが実際鈴木さんと話すと、電話の向こうの鈴木さんはそこまで怒っている様子ではなかった。


「本当に、すみません!」


何度も何度も電話の向こうの鈴木さんにお辞儀しながら謝罪を繰り返した。それに対する鈴木さんの受け答えはとても穏やかで


「まあまあ、大学生の夏休みなんてそれくらい行き当たりばったりなくらいが丁度いいじゃろう。儂が若いころなんて、ブイブイ言わせてたもんよ。何をしてくるまでは聞かないが、まあ楽しんできなさいな」


と、僕に背中を教えてくれた。そんな鈴木さんに十二分に感謝を伝え、僕は電話を切った。その様子を世奈さんはとても心配そうに見ていた。

僕が電話を切ったのを確認すると、世奈さんは申し訳なさそうに口を開いた。


「そ・・・その、ごめんね。いや、だよねやっぱり。思い付きで言ったけどなしに・・・」

「いいよ、行こう海」


世奈さんが言い終える前に、僕がそう答える。


「自分のわがままの一つや二つ、通したって罰は当たらないよ多分」

「・・・ありがとう、ごめんね」


世奈さんはそれでも申し訳なさそうにうなだれた。しかしそんな世奈さんに声をかけられない自分がいるのも事実だった。

目の前の世奈さんがどうしても『違う』ように感じる。その思考が、僕の行動のすべてを鈍らせた。


「じゃあ、用意しようか」


僕は、海に行くのに必要なものをいくつかスマホにリストアップする。家にあるものはそれを持っていき、無いものは道中で買えばいい。

水着は必要だろうか、しかし僕は泳げないしなぁ。でも泳ぐ以外に海ですることってあるのかなぁとぼんやり考えている、と

ふと世奈さんの視線に気づく。考え込んでいる僕を、じっと見つめていた。


「どうしたの?」

「ううん・・・なんでもない。私も手伝うよ」


世奈さんは、僕のその質問には答えなかった。



家から一番近い駅からまずは、多くの路線が行き交う大きい駅にまずは向かった。ちょうど昨日の夢でも出てきた駅だったが、実際に来たのはずいぶん久しぶりで何だか懐かしい気持ちになった。

まずはそこで、海へ行くのに必要最低限なものを買いそろえる。水着は二人の相談の結果買わない方向に決まった。どうやら世奈さんも、海を泳ぎたいというよりは見たいらしかった。僕も泳げないので無駄な出費が減って助かると思った。


駅から一番近いデパートで日焼け止めやサンダルなどを買いそろえた僕たちは、電車を乗り換え、海がある街の方に向かうことにした。

電車の本数が少なかったため、駅のホームで次の電車が来るまで三十分ほど待つこととなった。


「のど渇かない?」

「・・・大丈夫」


気遣うようにそう訊ねてきた世奈さんに、僕はそう答えた。

そこから電車が来るまで、僕と世奈さんは一切話さなかった。

30分と5分ほど待ってようやく到着した、緑色に塗装された電車に乗り込み、街を出る。都会の喧騒から逃げるように離れていく電車は、何本ものトンネルを潜り抜けたのちに僕たちを海沿いまで連れてきてくれたのだった。


そしていまに至る。電車内の人はまばらで、電車が揺れる音と線路がきしむ音だけが車内に響き渡っていた。


「ねえ、裕くん」

「・・・どうしたの?」

「海、綺麗だよ」


世奈さんがそう言って、夏の太陽を反射して光り輝く海を指差した。確かに綺麗だ。だからこそ、この海に素直に感動できない自分が恨めしかった。


「そうだね」


僕は世奈さんにそう答えて再びスマホに目を落とした。スマホの画面は依然、暗い。


「うん、そうだよ・・・」


寂しそうに答え、世奈さんはそれっきり何も言わなくなった。僕はそんな寂しそうな世奈さんに何も声をかけられなかった。


何分ほど電車に乗ったのだろうか、時計を見ていなかった僕は分からなかった。携帯電話を持っていない世奈さんも同じ状況だろう。

外を見ると、いつしか海はコバルトブルーからオレンジ色に切り替わっていた。電車を利用していた客も、いつしか僕たち以外誰もいなくなっていた。


「・・・どこで降りるの?」


僕は、目的地を曖昧にしたまま突き進む世奈さんに尋ねた。世奈さんは「うーん」と考え込む仕草をした後


「考えてないかな」


と、真夏の夕日に照らされながら言ったのだった。

僕はそれ以降何も聞かなかった。なんだか、なにもかもがどうでもいいような気がしてならなかった。昨日までは分かっていたことが分からなくなっていたような感覚に沈んでいく。


そんな僕と世奈さんを乗せて、何も知らない鉄の塊は海沿いを縫っていく。今自分がどこにいるのかも分からない。分かるのは、次第に暮れていく太陽。トンネルに入ると大きくなる、電車と線路がきしむ音。そして、横にいる世奈さんのかすかなぬくもり。


その情報を頭の中で整理しては散らかし、また整理する。暇つぶしにすらならなかったが、自分を慰めることはできた。

そんなことを4回繰り返した時だった。

自分の体が、何らかの力に逆らえず傾いていくのが分かる。


「・・・?」


僕は伏せていた顔を上げた。電車は止まり、終点を告げるアナウンスが車内に響いている。僕はすぐには動かずに、しばらくそのアナウンスを静かに聞いていた。


「降りよう、裕くん」


世奈さんが僕に手を差し伸べる。僕はその手を取るかどうか、迷った。

迷った、という時点で僕は昨日よりも世奈さんを信じていないということなのだろう。本当に嫌だった。何も分からせてくれない世奈さんも、何も信じられない僕も。


「・・・うん」


僕はその手を取らずに、自分で立ち上がり電車を降りた。世奈さんの顔はとてもじゃないが見られなかった。どんな顔をしているのかが怖くて見られなかった。


それでも世奈さんは、僕に続いて電車を降りた。僕はそれを耳で確認すると、先に改札に向かった。改札は駅員が一人いるだけの質素な造りになっていて、僕はその駅員に切符を渡して改札を出た。

夏特有の、海から吹く冷たい潮風が僕を戒めるように吹く。僕は肌寒さを感じ、少し震えた。


「ほんとに遠くまで来ちゃったね」


後ろから世奈さんが、穏やかな声でそう言って伸びをするのが聞こえた。


「ずっと電車に乗ってたから疲れちゃった」


世奈さんは、駅のベンチに座り鼻歌を歌っている。これからどうするつもりだろうか。スマホの時計を見ると時刻は9時過ぎ。おそらく電車は今乗ってきたのが最終だろう。帰る手段は今のところない。どうにかして夜を明かすか、運が良ければタクシーで帰ることができるが。


「海、いこう」


世奈さんは急に立ち上がると、潮風が吹いてくる方に走っていった。僕はそれをまるで他人事のように見ていた。すると世奈さんは、海に向かって急ぐ足を止めこちらに振り向いた。


「どうしたの裕くん、行こ?」


少し不気味なまでに感じる明るさで、笑顔で世奈さんは僕を誘う。なぜか口が乾いていく。姿のない恐怖が、僕の頭を支配しようとしていた。


「・・・うん」


その得体のしれない恐怖を取り除き、僕は世奈さんの後を追う。世奈さんは追いかけてくる僕を確認すると、また海に向かって走っていった。

石の堤防を、階段で登っていく世奈さんを追いかける。僕は運動不足でもつれる足をどうにか回して、彼女を追う。


階段を転びそうになりながら登り、堤防の頂上までくる。息が絶え絶えになるのをどうにか押しとどめ、僕は前を向いた。


「・・・ぅあ」


そこに広がっていたのは、海だった。これでもかと眼前に「海」が広がっている。さざ波の音が聞こえ、海と夜空を分ける水平線はほとんど分からずにほぼ一面の暗夜を完成させていた。遠くには都会の夜景がかすかに見え、それがまた、この神秘的な光景を加速させている。


「裕くん!」


世奈さんは眼下の砂浜で手を振りながら、僕の名前を大声で呼んでいた。僕は階段を降り、世奈さんがいる砂浜に向かった。


「おわっ」


砂浜は思っていたよりも歩きづらく、靴の中にも砂が入り続けた。かつて来た時にはこんな歩きづらさを感じた記憶はなかったはずだが。世奈さんはそんなことを気にする素振りも見せず、海の方へ向かっていく。


「くそっ」


僕はすこし苛立ちを覚え、砂に囚われる足を力任せに進める。

世奈さんは、海と砂浜の境界線を越えどんどん海に入っていった。夏とはいえ、夜の海は相当冷たいはずなのに、世奈さんは気にせずどんどん進んでいく。


「まってよ・・・待てよ!」


僕は何度も転びそうになりながら、それでも歩みを進め叫ぶ。それでも世奈さんは止まらない。もう、膝辺りまで海水に浸かっている。


「待てっていってんだろ!」


僕も海に入る。予想どおり海は冷たく、僕は思わず顔をしかめた。しかし歩みは止めない。海水に押し戻される足をどうにか前へ踏み出し、そしてついに世奈さんの手をつかんだ。


「・・はぁッ・・はぁッ」

「・・・」


世奈さんの手はひどく冷たく、そして震えていた。僕はその手を確かにつかんで離さない。


「なにしてるんだよ・・・!」


僕は息を荒げながら言った。世奈さんから返事はない。


「このままじゃ、死ぬかもしれない・・・」

「もう、死んでるもの」


僕が次の言葉を言おうとした瞬間、世奈さんが僕の言葉を遮った。

その目からはいつもの明るさは消え、海と同じ黒を宿している。


「私はもう、死んでるから。大丈夫でしょ」


しかしすぐにその闇は瞳から消え、また世奈さんは笑う。その顔を見た瞬間、僕の中の何かが壊れたような気がした。


「なんなんだよ!!」


僕は力任せにそう叫んだ。世奈さんの体がびくついたのが、繋いだ手を通して伝わる。


「なんなんだ、急に海に行きたいって言いだして、こんなことして!今朝の僕の質問にも答えないし!もう・・・わかんないんだよ・・・教えてくれよ世奈さん!君は何者なんだ!何がしたいんだ!何でそんなにも・・・僕に優しくするんだよ・・・!」


世奈さんは、ただ静かに僕の心の吐露を聞いている。


「はじめは楽しかったさ、前みたいに楽しい生活がまた送れるんだって・・・けど違うんだ・・・何かが違うんだ、僕の心のどこかがそう叫んでるんだよ!」


腰まで浸かった海水が、僕を冷やしていく。それでも上がっていく体温が、僕の頭を痛めた。


「僕は弱いんだ・・・自分ひとりじゃ何もできない・・・今もそうだ、君がいないと何もできないんだ・・・知ってるんだ、そんなことは・・・けど、やっぱり違うんだ!違うんだよ!」


何度も自分に言い聞かせた。何度もそう騙し続けた。しかしそれは無理だった。愛するがゆえにそれは到底無理なことだった。


「・・・君は・・・誰だ・・・」


僕は、つぶれた喉でそう尋ねた。


「・・・私は・・・私はね・・・」


海の風が冷たく僕たちを包む。まるで、世奈さんの言葉を遮るように強く、激しく。しかし世奈さんの・・・彼女の言葉はしっかりと僕の耳に届いた。その耐えがたい事実は、僕を容赦なく絶望の淵に叩き落とした。


「春野世奈じゃないんだ」

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