第16話 猜疑心

「・・・っあ」


朦朧とした頭、乾いた喉、見慣れた天井。先程まで目の前に広がっていた光の楽園も、満ち溢れていた幸福感も今はない。

僕は覚醒しようとする頭とうっすらと開いた目で、天井に向かって伸ばした右手をぼんやりと認識するだけだった。


「夢・・・」


あれは忘れることのない思い出。世奈さんと過ごした幸せな時間。そして過去。

その簡単には従いたくない現実を頭の中で何度も何度も噛みしめて、僕は覚悟を決めて体を起こした。

ふと、頬を流れる生暖かい水の感触。僕はまた泣いていた。


「なんなんだ、くそっ」


何度も自分に言い聞かせた。幸せなのだと。満ち足りているのだと。後悔はないのだと。しかしなんだこの胸に残る不快感は。


「なんで・・・消えない・・・」


世奈さんとの思い出は今も続いているはずだ。僕が望んだ『よく笑う』世奈さんと共に。『僕の事を一番に考えてくれる』『僕をずっと甘やかしてくれる』世奈さんと共に。

・・・あの日いなくなった世奈さんとは違う『世奈さん』と共に。


「違う」


なぜそう考えなかった。死んだ人間が性格を変えて生き返るなど普通は考えられない。確かに姿かたちは同じだとしても性格が変わればそれは別人だ。


「違う」


自分が愛した春野世奈は、『たまに見せる笑顔が綺麗で』『僕を自分と同じくらい大事に考えてくれていて』『時には甘えを許さない』、そんな人物だった。

自分のなにもかもを許してくれる人物ではなかった。


「違う」


自分を緩やかに腐らせていく、そんな彼女を僕は『望んだ』が『愛して』は・・・


「・・・違う」


理解しようとしない頭と、それでも迫りくる現実が、僕を押しつぶしていく

だめだ、これ以上考えてはいけない。これ以上理解することはつまり、『彼女』の定義を揺るがせることになってしまう。


「それは・・・」

「裕くん?」


愛しいと、そう思えた声。小さな鈴がなるような優しい声。その声に呼ばれ僕は顔を上げる。


「おはよう、朝ごはんつくるね」


また会って話したいと、そう思わせてくれたその表情、その笑顔。その全てが、僕を弛緩させ緩やかに腐らせる。


だからその言葉は、ふと口から出てしまったのだ。


「君は・・・誰だ」


::::::::::::::::


僕と世奈さんの間を沈黙が流れた。僕は、ただまっすぐに世奈さんを見つめる。世奈さんは何かを考えるような表情のまま、床に腰を下ろした。

沈黙はまだ続く。僕から世奈さんに追及するべきなのだろうか。しかし考えがまとまらない。先程の言葉の後に何と続ければいいのか、僕は知らなかった。


「・・・あの」

「その・・・」


沈黙に耐え兼ね、僕の方から話しかけようとした矢先、世奈さんが先に切り出した。


「その言葉って・・・どうゆう意味かな?」


決してその声は怒っているわけではなかった。しかし確実に悲しみを含んだ声だった。僕はその声を聞いて、なぜか泣きそうになる。


「どうゆう意味って?」


質問の意味は分かっているはずなのに、意味もなく僕は聞き返す。僕はなんて臆病な男なのだろう。自分でも思う、この聞き返しは卑怯だ。


「私が・・・誰かって・・・聞いたでしょ・・・?」


今度の声は、確実にその主の感情が分かる色をしていた。いまにも泣き出してしまいそうな「青色」。

僕は最低だ。今、女の子を泣かせたのだ。


「うん」

「うん・・・じゃなくてさ。どういう意味なのかなぁって」


世奈さんは決して顔から笑みを消さない。けれど声からも悲しみは消えない。僕は身を切る覚悟で、話を切り出す。


「世奈さんがさ・・・いま僕の目の前にいる世奈さんが・・・違う気がして」

「違うって・・・何が?」

「それはよく分からないけど・・・その、ごめん」


うまく言葉に表すことのできないこの気持ちを、どう彼女に伝えようか頭をフル回転させるが、方法は一向に分からない。

また、沈黙が部屋を支配する。僕も世奈さんも、次に口に出す言葉を迷っている様子だった。まるで自分の部屋が、まったく知らない場所に切り替わったかのような感覚に襲われる。

吐き気を催しそうなくらいの居心地の悪さだった。


「び・・・」


世奈さんがまたもやその静寂を切り裂く。急に発生した音に、僕は思わず体を強張らせた。


「びっくりしたよー。急に変なこと言い出すんだからー、裕くん。それより早く朝ごはん食べよ?」


世奈さんはいつもと変わらない様子で、台所で向かった。どうやら、このままにらみ合っても埒が明かないと思ったのだろう。僕もそれが賢明だと思った。しかしそれを自分から口にできない辺り、僕は性根まで腐っているということだろう。


「裕くん、手伝ってー」


彼女の声が僕を呼ぶ。僕は一瞬だけその言葉に答えるか迷って


「・・・分かった」


そう答えて重い腰を上げた。


:::::::::::::


世奈さんが作る朝食も、ずいぶん食べなれた気がする。そう思いながらハムエッグに噛り付く。

テレビに映る朝のニュース番組では海特集と題し、観光地の海開きを楽しむ人々をインタビューする女子アナが夏の日差しを受けながら笑顔で受け答えしている。

それをぼうっと眺めながら、ふと「そういえば海に行ったのっていつだっけ」と思った。

小学生の時に海水浴で行ったきりだと記憶しているが、別段海が好きなわけでもなかったので恐らくそれ以降に海に行ったことはないだろう。


僕はそーっと世奈さんの方を覗いてみる。世奈さんもその海特集に興味津々の様子で、トーストを齧りながらテレビの方をまじまじと見ている。先程の言葉を気にしている様子はほとんど見受けられなかった。


「今日の朝ごはん、うまくできてる?」


と、急に世奈さんがこちらを向いて尋ねてきた。


「え、あ、うん」


僕はそれになんとなく答える。


「良かった」

「・・・」

「・・・」


会話がどうにも続かない。何を話していいのか、普段何を話していたのか、何もわからなくなっていた。

世奈さんは気にしない様子でテレビを見ている。そんな世奈さんに今日の予定を聞こうと口を開いたその時だった。


「裕くん」


世奈さんが思いついたような顔でこちらを見て、こう言った。


「どこか遠くの・・・海へ行こうか」

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