第11話 涙の訳は
「おめでとう、裕くん!」
世奈さんが満面の笑みで両手を上げた。まるで自分の事のように喜んでくれている。受験に合格した息子を祝うお母さんのように、いやもうほぼほぼお母さんだろこれ。
今は自分の家。おじいちゃん・・・鈴木さんに採用を言い渡され、すぐさま世奈さんに報告しようと帰りを急いだ僕は玄関のドアを開けるのと同時に「採用でした!」と言い放った。その後世奈さんの渾身のフライングボディプレス(善意)を受けるとは思わなかったが。次はパロ・スペシャルとかをかけられるのだろうか。
「まあ・・ひとまずは安心かな。あー緊張した」
「すごいよ裕くん!成長したんだね!」
「成長って・・・そんな大げさな」
「そんなことないよ、すごいことだよ!」
世奈さんは僕の両手をぎゅっとつかんで、見つめてくる。ほんとにこの人は・・・
「とりあえず初出勤は明日らしいから、明日はちょっと家を空けるけど・・・いいかな?」
「急だね。けど、いいも何もバイトなんだから仕方ないでしょ。そりゃあ、裕くんと一緒に居たいって気持ちもあるけど」
「それは僕も一緒だし・・・」
そこまで言って僕は顔を思いきり赤らめる。世奈さんを見ると、世奈さんもリンゴみたいに真っ赤に染まっていた。なんだこのバカップル爆発しろよ、いや僕らだった!
「と、とりあえず晩御飯にしようか・・・」
「う、うん。今日は私が作るね」
そういうとそそくさと台所に行ってしまう世奈さんを目で追いながら、幸せのため息を一つつく。しかしなぜだろう、なにか違和感が消えない。世奈さんに会ってからもそうだ。確かに今の世奈さんは以前と違って明るい性格が強く出ている。しかしこの違和感はそれに対するものでは無いような気がする。
『根本的な何か』が違っているような気がしてならないのだ。
「裕くん、砂糖ってどこにあるのかな?」
僕のぐるぐる回る思考が一旦遮断される。そんなこと考える必要ないじゃないか。世奈さんが今目の前にいる。それ以外何もいらないじゃないか。
僕はその違和感を、そっと心のゴミ箱に捨て入れた。
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泣いている声がする。ああ何度も聞いた声だ。愛しいと思える声だ。
この声が笑い声に変わるのなら、僕はなんだってする。なんだってできる気がする。
けれど世界は残酷で、そして僕は平凡で矮小な人間だからできることは限られていて。
あの時にこうすればよかったと、これからも後悔する日々が続く。
それに疲れて、呆れて、くたびれて。僕は逃げることを選んだ。
彼女がずっと笑ってくれている、僕の望む幻想に逃げた。
でも、それの何が悪いのか。逃げることは何も悪い事じゃない。
彼女を笑わせるより、彼女がずっと笑っている方がいい。間違いない。
だから僕は耳を塞ぐ。目を覆う。足を止める。
それでも彼女が笑ってくれているなら、それでいい。
ああ、泣いている声がする。
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「・・・」
見慣れすぎた天井が目の前に広がっている。広がっている、というには少し狭いが。
僕は体を起こし、思いきり伸びをした。いい朝だ、眠気の一切ない目覚め。
僕のすぐ隣に備わったベッドでは世奈さんが静かに寝息を立てていて、僕はそれを暖かな気持ちで見つめていた。
体を静かに揺らしながらベッドの上で小さく丸くなっている世奈さんは、なんだか人懐っこいトイプードルが遊び疲れて眠っているようで何だか微笑ましかった。
突然、視界が霞む。僕は目をこすった。けれど視界はまたすぐ霞む。
僕は、泣いていた。心は幸せでいっぱいなのに、泣いていた。
涙は止まらない。零れ落ちた涙は布団を点々と湿らせた。
「なん・・で」
分からない、いや分かろうとして・・・いやそんなはずはない。僕は悲しくなんてない。幸せだ、間違いない。
世奈さんがここにいるだけで幸せなんだ。
「・・・ん、おはよう裕くん・・・ってあれなんで泣いてるの?」
「ううん、なんでもないよ」
ほら、彼女と言葉を交わすだけでこんなにも充足感に包まれるのだから。
「よし、朝ごはんにしよう。世奈さんはコーヒーよろしく」
「はい、任されました!」
世奈さんがおどけて小さく敬礼する。僕がそれに小さく笑った。
今日も幸せな一日が始まる。
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「今日、バイト何時からなの?」
世奈さんがコーヒーを啜りながら訊ねてきた。
「11時から。鈴木さんはおじいちゃんだし、お孫さんは女の子だしね。それだとやっぱり力仕事がきついらしくて」
僕は着替えながら答える。ちなみに下の着替えは廊下で先に済ませている。さすがに女子の前でズボンを履き替える羞恥プレイは、まだ僕には早い。
「もう70歳なんだっけ、鈴木さん・・・あ、おじいちゃんの方ね」
「うん、今日は新しい古本の入荷があるらしくてさ。いつもは運送会社の人に手伝ってもらってるらしいんだけど、それも申し訳ないからって」
僕は最後に薄いジャケットを羽織ってから、荷物を持った。荷物と言っても必要なものは全て向こうに揃っているので、ほとんど手ぶらと変わらないのだが。
「だから今日いきなり出勤なんだ」
「うん、だから早いけどもう行くね」
時計を見る。時刻は9時半。出勤には最低でも一時間はかかるから早めに行動しておくに越したことはない。初出勤で遅刻はかなりまずいし。
「それで、そのお孫さんって歳はどれくらいなの?」
「え?うーん、高校二年生くらい?」
「ふーん・・・裕くん、警察のお世話になることだけはしないでね?」
「僕をなんだと思ってるの世奈さんは!?」
「ふふ、冗談だよ」
そう言って面白そうに体を揺らす世奈さん。
「はぁ・・・本当にびっくりするからやめてよ・・・それじゃそろそろ行こうかな」
「分かった、帰りは何時になるかな?」
「5時にバイトは終わるから、6時くらいかな。じゃあ行ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
僕は玄関のドアを開ける。夏特有の乾いたアスファルトの匂いに包まれた。僕は何となく、もう一度姿勢を正した。
後ろを振り返ると、世奈さんが僕をじっと見つめていた。まるで七五三でスーツを着た息子を見るような、慈愛に満ち溢れた顔で。
「世奈さん、なんだか大げさじゃない?卒業式行くの見送るお母さんじゃないんだから」
「・・・っえ!?そんなに大げさな顔してたかな?ごめんごめん、改めて行ってらっしゃい」
世奈さんが小さく手を振る。僕はそれに小さく頷いてからドアをゆっくりと閉めた。
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裕斗がいなくなった部屋に一人、世奈は膝を抱えて座っていた。先程までの賑わいと暖かさはどこへ行ったのか、冷房の冷たい空気が世奈の体をじんわりと冷やしていた。
世奈は小さく息を吐いてから、窓を開けてベランダに出た。
夏の熱気が一気に体を熱していくのが分かる。冷房が効いた部屋との寒暖差に頭の奥が痛くなる。世奈は思わず顔をしかめた。
「・・・騙してるってことになっちゃうのかな」
そのしかめ面を顔に張り付けたまま、世奈は吐き捨てるようにつぶやいた。
ベランダからは遠くの町まで見渡すことができ、空に広がる青空も相まってやけに壮大に見えた。
自分が生きていると、そう思える。それだけが世奈のすべてだった。
「本当のこと知ったら、裕くん怒るかなぁ・・・怒られるだろうなぁ」
世奈は目を伏せる。その美しい風景からか、もしくはその現実からかどちらかは分からない。
少なくとも、『今の』世奈にとってこの状況は望んだものではなかった。『望まれたもの』であった。
その『望んでくれた』人のために、世奈は
「私は、神様だって敵に回すよ」
炎天下に、空虚なつぶやきが舞った。
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