第8話 目覚めた朝は
世奈さんがいなくなってから、気持ちのいい眠りについたことなどほとんどなかった。眠ろうとすると世奈さんのあの笑顔が思い浮かび、悲しみで眠れない。そうやって三時間ほどしてから疲れ切って寝てしまうようなそんな毎日だった。
だから、気持ちの良い目覚めと共に迎えられた今朝は「いい朝」と言えた。僕は脳が完全に覚醒したのを確認してから、ゆっくりと目を開ける。
目の前には世奈さんの寝顔が息のかかる距離にいて、僕はそれを他人事のように眺めていた。綺麗なまつげ、透明感のある白い肌、流れるように美しい黒髪。すべてが芸術品のようで愛おしかった。
そんな目の前の愛しい存在を、どうにか目に焼き付けようと目覚めて早々脳をフル回転させる。
しかし、世奈さんの顔を見ている内にどんどんと恥ずかしさが勝っていく。昨日、みっともなく世奈さんにしがみついて泣いてしまったことが記憶の底から蘇ってくる。
僕がそうやって赤くなっていると、世奈さんがゆっくりと目を覚ました。
「ふぁ・・・あ、おはよう裕くん。いい朝だね」
朝日にも負けない眩しい笑顔だった。僕は幸せと恥ずかしさを噛みしめつつ体を起こす。
時計を見ると午前8時を指していた。こんな健康優良児的な時間に起きるのも、最近の僕にとっては珍しい事だった。
世奈さんも僕に続いて体を起こした。「うっん・・・」とすこし色っぽい吐息を漏らしながら体を伸ばしている。
初めての事だった。世奈さんと一緒に眠るのも起きるのも、これが初めてだった。
「ん?どうしたの裕くん、そんなにこっち見つめて。寝ぐせそんなに酷い?」
世奈さんは自分の髪を手ですいて寝ぐせを確かめた。正直、世奈さんの寝ぐせはひどく多方向に髪の毛がぴょんぴょんはねている。分かりやすく言うと、「実験に失敗したマッドサイエンティスト」。てかどんだけ寝相悪いんだ。
「うん、まあまあひどい」
それを何となくほのめかしつつ、僕は一度深呼吸をする。またこれから毎日に彩りが戻るとなると、興奮が止まなかった。
「よしじゃあ・・・何から始めようかな」
「まずは朝ごはん、それから掃除だね」
どうやら一日のプランニングは世奈さんに任せた方がよさそうだった。
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「それで、どこかに行くって話だったけど裕くんはどこに行きたいのかな?」
世奈さんが食パンをモチモチかじりながら僕の顔を覗き込んでくる。
「んー、そうだな。今まで行ったことのないところがいいかな」
「そんなの、ほとんどの場所がそうじゃないかな。ほらだって・・・」
そこまで言って世奈さんの声は止まった。僕はスマホのニュースアプリに向けていた視線を世奈さんの方に戻した。
世奈さんの顔が少し陰ったような、そんな気がした。
「世奈さん?」
「!?っ。ううん、何でもないよ!」
世奈さんは慌てたように残った食パンを口に詰め込んだ、リスみたいに頬を膨らませて。
それがあまりにも可愛らしいので、僕の心配はどこかに消え去ってしまった。
そんな、平和で楽しい世奈さんとの朝だった。
「・・・?」
ふと携帯のバイブレーションに気づき、携帯の場面を見る。そこには『河合』と表示されていた。何度も電話を寄こしてくれた僕の友人だった。
「世奈さんごめん、ちょっと電話」
世奈さんに断りを入れてから席を立ち、廊下に出る。
そして電話に出た。
「もしもし」
『お、生きてたか』
電話の向こうから、聞きなれた少し高めの男の声が聞こえた。
「おかげさまで生を謳歌しております、はい」
『そりゃよかった、死なれたら夢見が悪いからな』
一瞬不躾なように見えて、その間に優しさが見える。河合 修一とはそんな男だった。
「それで、生存確認のための電話か?」
『まあな、あとはまあ元気にしてるかなって。・・・たまには外の空気吸えよ、体に悪いからな』
「分かってる、ちょうど昨日も吸ったところだ。一度使うとやめられないな」
『やばいクスリみたいに聞こえるからその言い方やめろよ・・・まあ、やめられない分にはいいんだけどな、それは』
「・・・おう」
『今すぐに立ち直れなんて言わない、けどたまには大学にも顔出せよな』
そう、河合は世奈さんとも面識のある人物だった。世奈さんと僕が付き合うことになった際は自分の事のように喜んでくれた。世奈さんが亡くなった時も、僕と同じくらい悲しんでくれた。
本当に、僕にはもったいない友人だった。
「っ・・・おう」
僕はどうにか込み上げてくる感情を押しとどめる。昨日から泣きそうになってばかりだ。我ながらみっともない。
『ん、じゃあな。たまにはお前から電話寄こせよ』
プツッと音が鳴って、電話は切れた。僕は思わずその場にしゃがみ込む。喉から漏れる嗚咽をそれでもどうにか押しとどめるために気合いを入れるが、無理だった。
「どうしたの裕くん?」
世奈さんが慌てて廊下に出てきた。そんなに声が漏れていたことに自分でも驚く。
「いや・・・ほんと、何でもないんだ。ただうれしくて」
僕は泣き顔を見せまいと世奈さんから顔をそむけた。昨日十分なほどに見られたはずだが、僕の男としてのプライドがそれを許さなかった。
「・・・そっか」
世奈さんはそれだけ言うと僕の横にしゃがんだ。心地よい体温がわき腹からほんのりと感じられる。
「ごめん・・・昨日から泣いてばっかりだ」
本当にみっともない。穴があるなら埋まってしまいたい。
「うれし泣きなら、いいんだよ。いくらでもしてもいい」
そんな僕に、世奈さんは優しくそう告げた。
「・・・え?」
僕は、その言葉にかすれた声で答える。
「うれしくて泣けるなんて、素敵じゃないかな?・・・裕くんが私に好きって気持ちを伝えてくれた夜、裕くんは私に『うれし泣き』させてくれた。本当にうれしかったんだよ、本当に本当に、生きててよかったってそう思えた」
ああ、これだから世奈さんは。本当にずるい。
「ずるい、よ世奈さん。今そんなこと言われたら、また泣けてくる、じゃん、か」
「それって、悲しいから?」
「そんなわけない、うれしいからに決まってる」
「じゃあ、いっぱい泣いてよ。私も一緒の気持ちだから」
世奈さんは、その後何も言わなかった。ただ僕に寄り添って、体温をゆっくりと僕に伝えてくれた。僕の嗚咽を、ずっと聞いてくれた。
10分ほど泣いて、落ち着いたときに世奈さんが口を開いた。
「そうだ!行きたいところ、できたかも」
「・・・行きたいところ?」
「うんっ、用意しよっか!」
世奈さんは僕に手を差し伸べてきた。
「・・・うん」
僕はしっかりとその手をつかんだ。
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