第11話
紅露が気が付いた時、すっかりと日は地中に沈み、鋭い爪の形をした月が既に高い位置に浮かんでいた。
体を覆う様に男の外套がかけられ、顔だけが辛うじて出ている。外気に晒され冷たい風が嗅ぎ塩に一役買った。
どれだけの距離を進んだのかと辺りを見回すが月明かりに木々の黒い影ばかりで見当が付かなかった。
馬の背に乗せられた荷台に仰向けに寝かされ真上に煌めく星々をやけに落ち着いた心持ちで眺めた。
この闇夜の空に太一星は一際輝き紫微宮に守られているようにも見えた。
揺るぎない不動の太一に向かって進む。
商人は北位を目指しているようだった。
『………』
少しばかり体勢を変えようとしたが微動だにせず、腕は後ろ手に縛られて口元も手巾の轡をかまされ助けを呼ぶ事も不可能である。
両手が動かせない以上、茎の棘を自在に操る事も容易ではなかった。
だがその状況下でも紅露には全く絶望感はなく、むしろ村で待つ子供達に必ず再び会う希望すらあった。
ただ1つ悔やむ事。それは胸に燻る想いである。
紅露は夜空に白嵐を思い出していた。
これよりほんの2日前。物干しの竿に洗濯したばかりの衣が風に翻弄される。
動くものに反応する琥珀は幾度もその衣に飛びかかり、面白がった李順に扇動され突拍子に物干しの竿ごと引き倒した。
お陰で紅露はもう一度洗濯する羽目になった。
『良い加減にしなさい!胡蝶はそんな事しないのになんで2人はそんな悪戯ばかりなの?!』
2度目の洗濯でブツブツと悪態を吐く紅露の背後で申し訳ないという反省の様子で李順と琥珀が立ち尽くすのを横目で確かめ笑った。
『……』
あれが白嵐を見た最後だった。
せめて、言葉を交わしたかった。できれば白嵐の姿でもう一度…時折視線を感じて振り向く時に見せる柔らかな笑顔を…
ならばどうにかして脱出せねばならぬと脱出の思案に耽るのだった。
一方その頃、連日侵入しようとする妖魔との戦いに疲労した白嵐は天空を従え帰路についた。
『白嵐様、今日はいつもより深傷を負っております、村ではなく元の虎宮穴へ戻りましょう。あそこでなら直ぐに体力も回復するかと…』
『天空よ…もう2日村を留守にしておる。虎宮で回復も分かるがまず気掛かりを無くしてからだ。紅露達が無事であるのを確かめねば休めぬ。心配事が無ければ傷の治りもすぐであろう?』
『はぁ…言いたいことは分かりますが…しかし幾ら倒しても次々と侵入する妖魔に白嵐様も完全回復せぬまま戦場に向かうなど無謀すぎます。一度完全に回復してからにしませんか?』
『不服と申すならばお前だけ虎宮へ戻るが良い。私は紅露達の無事を確かめてから戻る』
『………』
『いえ、なりません…私が先に虎宮へ戻るなど出来るはずないではないですか…分かりましたよ。まず村へ寄ってから虎宮穴へ参りますよ?今日は言う事を聞いて下さいね』
『煩いのう天空は…お前は自然の力が生んだ眷属。発する言葉にもいちいち力が宿る…なかなかに刺激が残るぞ…言う事を聞かねばならない気になる』
天空と共に村を目指す。
村の周りの上空に雨雲が集まっている。
『白嵐様…あれは雷神の雨雲です…何かあったのでしょうか…』
白嵐は瞬時に良くない気を察知する
雨雲から現れる雷神は不機嫌に太鼓を打ち鳴らしている。風は上空で吹きすさび雷は雲の隙間からごろごろと唸っていた。
『おい、雨河飛!どうした?何を怒っておる…村周辺の見回りがそんなにいやだったか?』
宥める様に声をかける白嵐と、ピリピリと電流を纏いながらも憤怒する雷神。
2人の存在に僅かに砂嵐と落雷が巻き起こり周囲の動植物は震え慄いていた。
『ふん。お前の言う通りこの村周辺を見回っておったが…仙女が驚いた馬の為に瞬時に我の手を止めおった。たかだか仙女ごときが…我の力を止めるとは…』
『仙女?もしやそれは…月季の仙女ではなかったか?』
『ああ、そうだ。魔に魅せられた者を排除してやろうとしたのに、その私を制止するなど許せる事ではないぞ…馬なぞ捨て置けば良いものを…だがそのせいで拐われてしまったようだ。しかも自分が救った馬の背に乗せられてな…愉快な事だ』
『なっ…拐われた?拐われたとは…』
白嵐は雷神 雨河飛の話に言葉を失う。
『白嵐様…?』
余りの動揺を見せる白嵐に天空は驚く
『李順は…李順はどうした?小さな男の子供だ』
『さあ?しかし仙女は男が連れ出した小さな幼児を救い出し、身代わりの様に自らが捕まった…仙女が生意気にも馬を救おうなどしなければもう一度我が雷を落とせたのに…』
『紅が…拐われた?』
白嵐の目の前が途端に真っ白になっていく。
『雨河飛、仙女を連れ去った者は何処に、何処にいった?!』
思わず雷神の胸ぐらを掴む
全身を纏う電流などものともせずに白嵐は強く締め上げる。
『なっ…し、知らぬ…我はただ落雷を邪魔されて…』
言いようのない怒りが白嵐の体内で生まれた。
『白嵐…どうしたのだ…あの仙女は其方の何なのだ?』
雨河飛の言葉も耳に入らずただこの強大な力を持つ雷神ですら警戒する程の負の感情に支配されていく。
大地は奥底から振動し風は砂を引き連れ激しく取り巻いた。
『白嵐さまっ。落ち着いて下さいとにかく子供達の元に行かねば…』
雷神に掴みかかる白嵐を引き剥がす天空。
解放された雨河飛は襟を整える。
『天空…白はどうしたのだ…こんなに取り乱すのを見た事がない…怒りに震えておるではないか…』
白嵐の荒ぶりに雷神の怒りは鎮まり天空に問う
『……私も初めての事です…雨河飛様、連れ去った者は何方の方角へ向かったか分かりませんか?』
冷静な天空に雷神は安堵を覚えた
『彼奴らが去ったのは…北辰の方角だったかと…』
『分かりました…有難うございます…それから、白嵐様が非礼を申し訳ございません。見回って下さったお陰でいち早く行動できます。代わりにこの天空がお詫び致します…今は冷静ではないので…落ち着いたらまた…』
『ふん…気にせずとも良い。白嵐の取り乱す様を初めて見たが悪くはない…彼奴は人間に甘すぎるからなお前も苦労するな…』
『……有難うございます』
主の代わりに頭を下げ雷神を見送ると今度は呆然とする白嵐に向き直る
『白嵐様、先ずは李順と胡蝶の無事を確かめましょう』
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