第10話
『長い間孤独に過ごした私に幸せがようやく訪れました。先ず琥珀という兄弟ができ、村外れに住む紅露様の家に招かれやっと人らしい生活が始まり、やがて胡蝶という妹ができた。そんな感覚を覚えました』
『人らしい生活…それまで一体どれ程悲惨だったのだ…しかし白嵐が人の子1人に付ききりになるほどに酷い有様だったのだろうな』
『……はい…痩せこけた私の身体は村の子供たちと同じほどになりました…紅露様は歌や舞は素晴らしかったが家事は苦手で、特に料理になると壊滅的で川魚も毎回焦がしたものです。苦くて…胡蝶が笑って…私も思わず笑って…うぅっ』
『…紅だけではない姉上もそう得意ではないし…もしかした翠香様もでは…?』
『私達は水と日光さえあれば良いもの必要ないわ』
『食事は私か潦が係です』
『寿扇余計な事は言わなくていいの!』
『……白嵐は昔を思い出したのかも知れぬ。神は自由に下界に降りる事ができる。あやつは下界好きだからしょっちゅう下界旅をしていた。様々な経験をした筈だ。中には親に捨てられた子を経験したかも知れぬな太陰』
『はい…左様でございます。』
『…親との縁は薄くとも絶望する事はない、いつか家族を持ち妻や子を大事にし絆を深めれば良いと教えてくれました。ある事が起きてから紅様の従兄弟だと言う白嵐様が時々様子を見にくるようになり父のいない私に【父の背】を見せてくださいました。お陰で私は父親とは家族を守るものだと知ったのです』
『ある事…とは何です?事件ですか?』
『寿扇、あなたは李順の記憶が戻るのを待つことも出来ないの?』
姉に嗜められ黙る寿扇
李順は記憶の糸を手繰りながら告白をする。無邪気な頃を懐かしむ。
李順にしてみればそれまで記憶が抜け落ちていた事すら無かったように易々と思い出は浮かんでは再生していった。
それは即ち、白嵐の力の弱まりでもあった。
記憶を封じ続ける力は刻一刻と小さくなる。
反対に李順の記憶を語る言葉に、月季の茎で封鎖された向こうにいる白嵐らしき影はうごうごと動き始める。
『胡蝶は村の外で親とはぐれて泣いていたのを紅様が見つけ連れてきました。幼いながらも美しい瞳と艶やかな黒髪を持ち、村の子供達の中でも抜きん出た容姿と佇まいを持っておりましたのである時、南の大きな街の商人が村で休息を取ろうと立ち寄った際、家人への土産になると連れ去ろうともしました』
李順の眉間が険しく皺寄り口が重くなる。
苦々しい記憶に苦しむ表情を見せた。
『あの事件は恐ろしかった…今思えばあれが始まりだった様にも思えます』
その年1番の夏の暑い日である。
昼下がりに川で水浴びをする胡蝶と李順はいつの間にか林へと消えた琥珀に気付かず紅露の庭先から対岸へと泳ぎ、そしてまた此方へ戻るというのを繰り返していた。
『李順!胡蝶!対岸はもう村の外よ、何があるか分からないからそっちには行かないようにしてちょうだい』
紅露の声に2人は素直に応え紅露の元へ戻る。
『どうしたのですか?』
『李順…大声を出してごめんなさい。ちょっとこの所村の周りに変な空気が…』
『空気?』
『あ、いえ…何でもないわ…』
『でもこの所琥珀がよく留守にします。村の外に出ているやも知れない…』
『……』
琥珀は西を守る神として守護の為に留守にしている。などとは説明できる筈もなかった。
『てっきりいつもの様に雌猫追いかけて行ったかと思っていたけど傷が沢山ありました』
『……』
白嵐は魔を祓いに出かける事が頻発していた。
ここ数年、周辺の町や村では飢饉や疫病が流行る事もあった。平穏な中でそれは異様に思え紅露は不安を覚えていた。
『紅様?』
李順と、胡蝶が心配そうに紅を見上げる
『な、何でもないわ…とにかく2人は中に入って。これからは川遊びは控えて頂戴』
『…は、はい』
紅露の不安を感じ取り李順は胡蝶の手を握った。
『大丈夫よこの村は四神の白虎様が御守りして下さってるわ』
『…そうですよね…大丈夫だ胡蝶、心配するな私が守ってあげるからな』
胡蝶は李順の言葉に頷いた。
その日は日中の気温が異常に上がり夕方から激しい夕立が村を襲った。
『雷神様が…』
天井を激しく叩きつける雨の音が特別恐ろしく部屋の奥で紅露は胡蝶と李順に寄り添っていた。
『雷神様?』
怯える胡蝶を抱き、李順は気丈にしながら紅露に問う。
『雷神様の見回りかも知れないわね。あなた達、心配ないわ。こんな激しい雨は雷神様がおなりになっている証拠よ恵みの雨を下さるから』
紅露は2人を抱き締める。
白嵐が留守にする己の代わりに昔馴染みの雷神を呼んだのかと推測し些かの安堵感が生まれる。
『ん?…紅様…戸を叩く音が…』
かすかに戸を叩く音が聞こえる。
『…ええ…でも…』
『琥珀が戸に頭をぶつけて開けろと言ってるのかも』
『そんな…いくらなんでもそれは無いと思うけど…』
口にした途端に屋根を突き破る程の雷鳴が轟いた地響きに家が揺れ恐怖が襲う。
『わっ…紅様っ』
同時にドンドンと戸を叩く音が鳴り響く
『な、なんだ…やはり外に誰か…』
戸口に向かう李順
『だめっ李順行かないで!』
『声が聞こえて…』
紅露の制止も聞かずに戸を開ける李順。
目の前には土砂降りの雨に見舞われた商人の様な出立ちの男が立っていた
『すみません…行商の途中に豪雨に見舞われ…困っています。少し休ませて頂けませんか?』
商人は小さな箱を袖から取り出し、月餅を見せた
『今…お渡しできるものはこれしかありませんが…』
胡蝶が目を輝かせて商人の月餅に手を伸ばした。
『…胡蝶?どうした?これが食べたいのか?べ、紅露様…どうしましょう』
李順は困惑したが胡蝶が先に月餅を受け取ってしまい仕方なく紅露は商人を部屋に通した。
『…この月餅は此処より丑寅に栄えた街の月餅です…』
『ああ、もしかしたら胡蝶の故郷かも知れないな…だから珍しく頬張っているのかも…』
李順の言葉に胡蝶は笑った。
『あの…何も持てなしは出来ませんが…』
『いや、助かります。行商の途中でこの豪雨…馬が動かなくなり困っていました。村を見つけて命拾いした気持ちです』
茶を一服しながら時間だけが過ぎていく。
商人は旅の話をし李順と胡蝶に聞かせた。
外の世界を知らぬ李順は世界が広がる様な気がして男の話を聞き入っている。しかし紅露は男からは妙な気配を感じ取り警戒心を解かなかった。
『いやぁ、それにしてもこの雨は酷い…』
『雷神様の御成だから大丈夫!ですよね?紅様…』
『失礼ですが此処にはご姉弟で住われておるので?』
男は他に人気のない事に気付くと部屋を見回した。
『いえ!私達は姉弟では…』
李順の言葉に被せる紅露
『はい。今は出かけておりますが両親は夜には帰宅します。あ、そうだ…月餅を頂いたのに此方は何もできず…小腹を僅かに満たす程しかないのですが…』
そう言って紅露は焦がした木の実を和えたものを出した。
『…これは?』
『私料理が出来なくて…いつもは魚などを取るのですがこの雨にそれも出来ず…』
『紅姉様のこれは成功ですね。少し焦げていますが美味しいですよ』
李順も咄嗟に紅を姉と呼ぶ。
『……夕立かと思うたが…長くなりそうですな…あ、私の事はお気にせず…それよりも、胡蝶と言ったね、大層美しいが…言葉が?』
『この子は大人しい子なだけですよ…』
『ああ、そうですか…あ、あれは二胡ではないですか?大層立派だが…』
『あれは紅姉様の二胡です。紅様は二胡も上手だが舞はまた格別なのです』
得意満面に答える李順
『ほお、ではそちら二胡を少し見せて頂けませんか?』
『あ、あの二胡は大切なものです…弾いて聴かせるだけで許してください』
そう言うと紅露は二胡を奏でた。
雨音の隙間を縫う様に二胡の美しい音色が紅の指先から流れ始めた。
李順も胡蝶も目を閉じる。紅露の二胡の調べにいつの間にか夢の中へ吸い込まれていく。
『ああ、子供達は眠った様だ…』
『…本当ですね…』
『相談なのですが、これから向かう街では豪商の邸で働く娘を探しております…あの胡蝶という娘をどうかと思いまして…』
『胡蝶は大切な妹です。申し訳ありません…』
紅露は深く礼をし丁重に断った。
『そうですか…いや残念ですが仕方ありません。見たところあまり贅沢ができていないようなので妹ごの大店奉公で助かるのではと余計な世話を働きました。不躾にすみませんな。
それにしても二胡の良い調に癒されました。雨ももう落ち着きましたな…では私はこれで…』
男は立ち上がり出立の身支度を始めると紅露は妙に漂っていた緊張が解けた。
『あ、はい…では…お気をつけて…』
戸外へ出た男は戸口に立ち見送ろうとする紅露を急に押しのけた
『!!』
『この子は大層美しい、街の豪商の土産に頂く』
そう言うと胡蝶に羽織っていた外套を被せると瞬く間に連れ去った。
紅露はすぐ様男の後を追った。
庭向こうの川は急な豪雨で氾濫している。男はたじろいだが引き連れていた馬の背に眠った胡蝶を乗せた。
『待ちなさい!胡蝶を返して』
土中から月季の根が伸び男と馬の足に絡みつき足を止めた。
『な、なんだこれは…一体…お前…魔物か?』
『魔物は其方ではありませんか?私の大事な家族を返して下さい』
『ふん…こんなものは焼き払えば良い…』
男は火打ち石を取り出したがまだまだ余韻の雨が着火を防いだ
『……っ』
その隙に紅露は馬の背から胡蝶を奪い返した。
胡蝶はすっかり目を覚ましじっと見つめている。
『胡蝶、大丈夫だからね…怖くないから…紅が守ってあげるから…あなたはこのまま走って家に戻りなさい。そして内側から戸を閉めて…あなたは李順と待っていて』
怖がる胡蝶の額に張り付いた前髪を流し、優しく撫でた
胡蝶が見上げると紅露は微笑む
『な、なんだ…魔物めがっ』
『痛っ…』
商人の男は手当たり次第にその辺に落ちている小石を投げつける。
胡蝶に当たらぬよう立ちはだかると
『私には通用しません…』
どれだけの石を投げつけられようと傷を受けようと怯む事はなく佇む紅露に男は恐怖する。
『……』
暗雲が流れ頭上に停滞し始めた。
薄暗くなった空に稲光が雲中を交差する。
閃光が地上目掛け近くの大木に突き刺さった瞬間、馬が驚きの余り嘶き後ろ足で立ち上がる。
紅露が馬に気を取られた刹那、男は隙を突いて飛びかかり紅露の白く細い首を締め上げた。
『う……』
『幼娘がダメならお前でも良いわ…旦那様の好みではないが喜ぶ者もいよう…歳の頃は…芳しい香りを考えればまだ18、9か…それなら大旦那様が喜ぶやも知れぬな…』
首を絞め気絶する紅露を馬の背に乗せると男は足早に村を後にした。
周辺には紅露の月季の香りがいつまでも漂っていた。
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