第9話
『此処からは私が…』
李順は寿扇が受けた傷を目の当たりにし、その瞬間に舞った白金の砂に既視感を覚えると記憶を手繰り寄せた。
『だがまだ記憶が…抜けておりますが…』
『覚えている事だけで良い断片的でも話せば少しずつ記憶は蘇る事であろう…その記憶の喪失が例え白嵐によるものであってもな』
『?!まさか白嵐様が記憶を?だからスッポリと抜け落ちた様に…今は友となった村の者達と話す時なぜか私には肝心な記憶がないのです。だが最近…本当に僅かだが時々何かを思い出しかける。記憶もないあの頃を無性に恋しくなり、誰かが私を『李順』と名を呼び笑ってくれた…夢かも知れぬがいつも顔だけがわかりませんでした。どうしても見えないあの輪郭をはっきりと思い出したくて堪らなくなった…』
『察するに白嵐はお前が全てを知る事を阻止しようとしたのであろうな白嵐は。
全ての記憶が甦れば李順が深く傷付くかも知れぬそれを避けたかった…で、あろう?月季の姫よ』
紅は頷いた。
『あぁっ…白嵐様…』
『しかし力の弱まりと共に記憶も戻りつつある…という事か…人の子には少々辛い事になるかも知れぬが堪えられるかの』
『大丈夫です…如何なる記憶でもこれで心にいつもかかっていた靄が晴れるのなら…それで白嵐様と紅露様が救えるのなら…』
李順は記憶を辿る。
李順本人も不思議に思ったが記憶は次々と蘇り始めた。
『私の村にある時、紅様がやってまいりました。私はずっと…ずっと恋しかった母の温もりを与えてくれた紅様に会いたくて毎晩眠りにつく前に月に願っていましたので、それが叶ったと喜びました…驚きました。村長は隣町の薬問屋に奉公に出ていた孫娘が帰ってきたと言っていました。
村の外れに住む事になりましたがあまりに美しいので村の青年達は喜びました。しかし紅様は全く意に介さず、気にも止めずただただ怪我をしたり病に臥せった人々の家を回っておりました。
子供達には遊びを共にしながら読み書きを学ばせたり、数の知識を与えたり…いえ…今思えば子供達にと言うのは建前で、きっと私に…その知識を与え友人を作る機会を与えようとしたのだと思います。私の荒みきった生活が安定する様にと…そうであったのではないかと思えてなりません…』
太陰と天空は頷いた。
孤独に荒んだ少年の日々は美しく煌めき輝き始めた。
李順の蘇る記憶はそのまま皆の心に浮かび上がった。
ある時は高木に登り降りられなくなった子猫を救うべく木の周りで騒ぐ子らをかき分け現れた紅露は衣を捲り上げ裸足で木に登り警戒心の爪傷もものともせずに無事に救出した。
別の日は隣町に農作物を売りに行った大人達が長雨に足止めされ村外れの家に親の留守になった心細き子供らの面倒を見た。
玉寿と翠香は共に紅露らしい振る舞いだと懐かしさに胸が熱くなり、衣をたくし上げ白い脚線が露になるお転婆姿に寿扇は赤くなった。しかしてそうした時、寿扇の周りに些かの風が取り巻き呼吸を締め付けようとするので寿扇はなるべく下心を持たないよう密かに心掛けた。恐らくはこの窟の主の意思であることは鈍い寿扇でも理解できた。
父親との確執で帰る家を失くした李順はいつの間にか村外れの紅の家で暮らす様になった。
『隣町に農作物を売りに行った大人がようやく帰って来た時、流行病で親を亡くした胡蝶という子供が町から付いてきたと言って追い返そうとしました…その子も紅様は責任もって預かると村人に約束し、私と琥珀そしてその胡蝶を家に迎え入れてくれました。家は小さなものでしたが私にとり薄墨だけで描かれた水墨画の様な毎日が極彩色鮮やかに色が差していくようでした』
胡蝶は不思議な子供で言葉を話す事ができなかった。だが洞察に優れ周りをよく見、気配りが出来るので紅露をよく手伝った。
まるで1つの家族である。
夜になり子供達が寝静まると琥珀は白嵐の姿に戻った。
紅露が小さな庭に置いた桶を覗き思い悩んでいる
『どうした?紅』
『あ、白嵐様…いえ…』
『おお、桶に張った水に月を浮かばせたのか…風流ではあるが其方は月が嫌いではなかったか?』
『はい。嫌いです。ですが…李順と胡蝶はいつも何でも月に願うのです…』
『何でも?』
『ええ、あれは幼い子が父や母に何か願うのと同じだと気付き胸が痛むのです…こういう感覚には慣れていなくて…胸がこうちくちくと言いますか針の先で軽く突いたような痛みが…』
『何?胸が針で?それは大変ではないか!今すぐ見せてみよ』
『え?』
真顔で衣を剥ごうとする白嵐に気圧され呆然としながらあわや残りの襲ね衣1枚で白嵐を押し戻した。
『ちょっ!ちょっと白嵐様っ』
『なんだ?痛みはなくなったのか?針は何処かに…』
『いえ、針で突かれた様に痛みがあるだけで、何も本当にそうだとは…しかも衣を剥ぐなんて…乱暴過ぎます』
『すまぬ…何が悪いか分からぬが…気分を害したのなら申し訳ない…ただ痛むというので早くどうにかせぬと紅露はいつも我慢ばかりだから』
『………』
俯き押し黙る紅露に不安を覚える白嵐。
『どうした?何かまた余計な事を…あー。酷くもどかしい…朱雀の様に少しでも気の利く言葉が頭を振っても出ても来ぬし、行動が余りに短絡で粗野だと聞かされている。改めろと言われてもこれは私が砂粒だった頃からこうなのだから今更変われまい…どうすれば紅が困らずに済むのだ?』
『ふふ…』
『ん?』
『あはは』
『!?』
何故笑うのだと尋ねるのも忘れる程輝く笑顔を見せる紅露に言葉を失う白嵐。
腹を抱えて笑い声を立てる。その声はコロコロと鈴の音にも似ていて耳に心地よい。
『紅露?』
『すみません…だって白嵐様が面白くて…頭を振っても良い言葉が出てこないとか…ふふ』
『……』
『こんなに大きな身体なのに砂粒の時からって…あはは!想像したらおかしくて…いけない…私笑い出したら止まらなくなって…』
必死に堪える様子も愛らしい
『……紅。其方が笑っておるのを見るのは何故こんなに身体が熱くなるのだ?それに腕の中に隠してしまいたくなる。誰にも見えぬ場所に…』
『え?わ、わかりません。身体が熱く…?それはもしかして怒ってらっしゃるのでしょうか…私が白嵐様を笑ったから…申し訳ありません』
『違う、そうではない。そうではないが…紅露…1つ言いたい事があった』
『はい。なんでしょう?』
『もう木に登るな。子供達だけでなく村の男が見ておったぞ…余り見せるな』
『え?』
『いや、何故か分からぬが腹が立ったのでな』
『はぁ…ではもう辞めます…木登りは嫌いではありませんが村の殿方には余程見苦しかったのでしょう』
『それが良い。木登りが必要な時は私が登る。それより、子供達が親を恋しがっておると…そう言う事かの…』
『はい…やはりまだ私では役不足で…』
『役不足という訳ではあるまい…子が母親を恋しがるのはいつの時代も同じだ…だが必ずしもそうだと言う訳でもない…』
『……』
『しかし李順は其方を母にも姉にも見ておる』
『……李順も胡蝶も一人で生きていく力が備われば私は此処を去るつもりです。元の湖に戻り死にゆく者を送る役目に戻りたいと思います』
『………胡蝶は…』
『はい?』
『いや……何でもない…大人になればさぞ美しくなろうな…時折見せる仕草は子供のそれとは思えぬ』
『確かにお髪も艶やかで此処に来た時はよもや二親を亡くした子供と思えませんでした。着ているものは汚れてはいましたが…もしかしたら名のある家の娘かも知れませんね』
『………同じく親のない李順とは似ても似付かぬな』
『?』
『それと…』
『はい』
『この村を覆う光は其方であるな?』
『え?』
『隣町で流行病が起きたのにこの村には何もない。大雨で洪水が起きても土石はこの村を避けていく。』
『……も、申し訳ありません。白嵐様の座す一帯の中でもこの村を特別扱いをしている訳ではなく…力不足でまだこの村しか無理なだけで…』
『怒っておる訳ではない。ただ無理ばかりしておるのではないかと案じたのだ』
『無理ではありません…私には珠が御座います』
『それもこれまでの余剰の力、使ってしまえば枯渇するものであろう?いくら西王母の娘と言えど無理をするのは良くない。』
『はい…ですが李順や胡蝶との毎日で笑う事も増え…仙界に住んでおった頃の様に日々に沢山の感情を持てていて…嬉しくて……』
『だが…』
『…この村ではある年齢に達すると湖に身を横たえに村人が来ます。私があの対岸で舞うのを涙を流し、そして水に消えていく。その時村人は必ず口にします。私達の村を守ってくれと…皆それぞれ1人でやって来るのに願う事は同じで子々孫々を守りたい一心です…その気持ちを見てきただけに無碍には出来ません』
『情の深い事は良いのか悪いのか分からぬが…何しろ神は感情を持たぬ。そんな私でさえ四神の他の神達に人間に甘いと嘲笑されるが其方はそれを遥かに越えておる』
『白嵐様が…』
『私が何だ?』
『白嵐様が守るこの地の人間達です…私も少しは手助けしたい…』
『……』
『それに、近頃時折ですが良くない気が流れて来るように感じます。白嵐様が魔を祓う間、微力ながらせめて住まわせて頂いている村だけでもと…そうすれば心置きなく留守にできましょう?』
『紅露…』
『はい。任せて下さい…この土地に根を張り、茎を伸ばし、咲かせた花を見て人々が美しいと笑顔を見せてくれる。ただそれだけでも私には力となります…村外れのこの庭にまで花見に来る者達の存在に生かされている気すらします』
『………そうか…。やはり其方は言葉にまで力を持っておるようだ』
『言葉…ですか?』
『其方の言葉にこの辺りが酷く熱くなる…』
白嵐は胸を押さえている。
『熱い?先程も熱いと仰っていましたが…冷やした方が良いのでしょうか…人間もよく熱を出します…ですが神である白嵐様と人間は違いますから…あ、気分はどうですか?人間は発熱と共に不調を訴えます』
『気分?さぁ…気分と言うものも分からぬ。かと言って不快ではないむしろ快い』
『快い?熱いのに?何故ですか?』
『分からぬ…分からぬがどうも…ああ、そうだ力が漲る熱だ…我々神に必要なのは人々の信心。それ無くしてこの地を鎮守する力が起こせぬ。だが其方の言葉もまた人の信心の様に力を沸き起こし守らねばならぬという感覚が芽生える…』
『……わ、私は守られなくとも大丈夫です。それでは本末転倒です。私の事はお気になさらずどうぞ捨て置き下さい』
『本末転倒…確かに其方からすればそうかも知れぬが仕方ない。私に止められるものではないからな』
『?』
『弱く愚かな人の子を可愛い生き物だと思うのと同じに…いや、それ以上に紅を愛しいと思う…それは其方の信心によるものだろうか?』
『なっ…何を急に』
真っ直ぐな白嵐の視線に紅は思わず目を逸らし俯く。
覗いていた木桶の水に浮かぶ月は何処からともなく吹き始めた風にゆらゆらと揺れた。
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