第8話

『…確かに私は白嵐様を…慕うています』

紅露の言葉が洞窟に響いた。

その声は湿気の帯びた岩肌に滲み入り、空気が揺らめくと同時に微かに風が抜けた。


『…白嵐様を慕うているって…つまり…どちらかと言うと…嫌いではないと言う事か?』


紅露の告白に初めに声を出したのは寿扇であった。


『…寿扇…紅は白嵐様を好いている。そういう事です』


玉寿は溜息混じりに現実を逃避しがちな弟寿扇を嗜める。


『わかってますよ…ちょっと…正面から受け入れざる事実に思わず目を背けてしまっただけです…紅の言葉の意味くらい…わざわざ言わなくとも…』


『いいえ。貴方は少しばかり夢を見がちですから…はっきりと言わないと』


『しかしいくら何でも白嵐様とは…仙女と神は行き来は出来ても生きる世界が異なる。共に生きるとなると試練があると聞きます…』


寿扇の言葉に自身もその当事者でもある翠香の表情は曇る。


『場合によろう。人と神よりは遥かに相性は良いし無理はない。試練などものの例えだ…そんな呼び方を誰が名付けたか知らぬがただ互いに相入れぬ【一線】は存在する。それは存在の意義であったり意味であったり…役割であったり…しかしそんなものは何処の夫婦でもそうだ…』


炎夏は翠香を見つめた


『……はい』


翠香は思わず視線を外す。


『ですが炎夏様、神と私達仙界の者とは生命の根源が違うのです。

気力を失えば枯れ、その命諸共消えてなくなる私達と違い神というものはその存在自体があらゆる生命の根本を造る…私達は似ているようで全く違うのですから…それにそもそも神という存在に感情というものがあるのですか?』


『…小さな虫にも魂があるのと変わらぬよ…私達にも感情という名前であるかは分からぬが近いものはあるだろう…でなければ…其方の香りをずっと傍に置きたいと思うものかの?』


炎夏は翠香の傍に近付くと香りを確かめた。


『……』


『そんな風に思ったのは…茉莉花の其方だけだ…小さな白い花が青々とした夏草の上に散る。風に揺れる度に香る其方を見ておると永遠が一瞬、一瞬が永遠にも感じるのだ…』


『!!…紅??何故泣いているのだ?』


寿扇は涙を流している紅露に気付き驚くと駆け寄った

寿扇の問いかけにただただ首を振る紅露


『どうした?炎夏様の話が辛かったのか?』


『……』


心配する寿扇の言葉は半分は正解であった。

こぼれ落ちた涙の粒が地面に吸い込まれ滲むのを目にし降り続いた雨粒が湖面に吸い込まれた遠いあの夜の出来事を思い出す。


湖の周囲に生い茂る月季は時折吹く風に揺れている。


『今夜白嵐様は来ないのよ』

紅露は風に揺れる枝の先に付いた真紅の月季花に呟いた。

咲き乱れた月季は水の玉に生き生きとし瑞々しく花開いていた。

そんなに綺麗に咲いた所でいつの間にか待ち焦がれるようになった彼の人は来る事はないのだと紅露の心は沈む。


本当なら美しい満月の夜の筈が、長雨のせいで叶わぬ白嵐とのひと時を憂い気落ちした。

徐に胸元に隠していた朝露の珠を取り出し見つめる。

これまで、力の暴走を防ぐ為に引き金となる【感情】を珠に注ぎ溜めていた。


内側から一気に増幅し溢れ、湧き出る喜びや悲しみ。苦しみも全ての感情を解き放つ様に珠に込める。

母西王母の後継としては最高の能力であっても花仙女にすれば強大過ぎる力を平均値にする為のものである。

これまで蓄積された感情は珠の中で七色に揺らめきながら輝いていた。


朝露の珠を抱きしめ目を閉じる。

紅露の中を支配している感情は【寂しさ】であった。


白嵐に会えるのは月夜の夜と限られている。いつの間にか孤独から救い出してくれた白嵐に恩人への感謝だけでは説明のつかない感情が芽生えていた。

『せめて…一目だけでも』


会えない寂しさが体から外へ流れ出す。


霧状に降る雨が紅露の頭上にこの世で最も小さな水の粒を無数に作っていた。


『ほう…その珠はなんだ?確か二分にし李順に渡しておったな』


『え?』


振り向くと間近に白嵐が紅露の背後から覗き込むように立っていた。

驚く紅露は手に持っていた珠を落としそうなる。


白嵐は紅露の手を覆い珠が落下するのを阻止した。


『やはり美しい珠だな。だが悲しい光が其方から流れ込んでおるようだ』


『は…はい…あの…白嵐様?』


『?どうした…』


『いえ、今夜は雨で…月がでておりませぬゆえ』


『…来ぬ方が良かったのか』


『いえ、そうではなくて…何故…』


『何故…自分でも分からぬが…ただ何となく…此処に足が向いた…だが其方も人の姿をしておる…満月の夜しか戻れぬ筈だったが?』


『はい…私にもわかりませんが…李順や白嵐様がどうしているかと思うにつけ生きる気力が戻って参ったのかもしれません…』


『人の子に関わると心配したり気掛かりになったりと忙しい。もしかしたらそれもあるのかも知れぬな。だがそれならばなにも私が湖に来るのも月夜に限らなくとも良いのではないか?』


『……』


『で、この珠はなんだ?』


『これは、母です』


『母?』


『母から渡された珠です…私は幼少期より百花仙子様の元で修行をさせていただきました。別れの際に母から渡された珠なのです』



『ああ、そうであったか其方は西王母の娘であるのだな…しかし…それにしてもこの七色は不思議だの。様々に光る。其方の余剰の力を珠に貯めておると考えて良いのか?』


『はい…まだ幼少期は母恋しさに悲しみばかり…不安や寂しさ。それから仲間達と楽しい日々になると黄や橙に…こちらの赤色は怒りです…あの崑崙の宴で天蓬元帥と気持ちの悪い男達…踏み潰してやりたくなりました』


『踏み潰して!?』


『はい!この足で踏んで棘でお仕置きですよ。私の棘は痛いんですよ』


『ははは面白い。だが足で踏むのは辞めておけ』


『何故ですか?でも確かに足蹴にするのは面子を潰しますよね…』


『そうではない。あやつらが喜ぶだけであろう?』


『よ、喜ぶ?仙女に足蹴にされて?』


『其方の白く可愛らしい足に踏まれるのだぞ?天蓬元帥の様な変態は喜ぶだろう?』


『まぁ!』


『それに天蓬元帥の話を聞くに胸が悪い。何やら苛立つのだ。大した話も聞かぬのだが…

で?何故今はその様に悲しい色に光っておったのだ?』


『あ、いえ…白嵐様に会えぬと思って…あ…』


思わず本音を口にする紅は元より正直な性質である。


『そうかそんなに李順の話が聞きたかったのか』


『……いえ…そうではなくて…』


『……??』


『白嵐様に会えぬのが寂しくてですっっ』

勢いのまま口走る。


『ん?』


『え?』


白嵐は紅の肩を抱き寄せると頸に鼻先をつけ息を吸い込んだ


『ああ、良い香りがする…この甘い花の香り…私だけのものだという気持ちになる…』


『なっ…ちょ…っ白嵐様っ』

白嵐を押し除ける紅露に首筋にはまだ白嵐の呼吸の余韻があった。


『ああ、すまぬ。つい…。いつも考えもなく行動にするのを朱雀に嗜められるが…そんなに怖がらずとも噛みつきはせぬぞ』


『いえ、そうではなくて…』


『ん?なんだ?香りが更に強くなる…』


花の仙女らしく甘い香りが紅露を包んでいた。

白嵐は更に近付こうとする


『あの…ちょっと…それは余りにも…』


白嵐の鈍感さに困惑する紅露。


『そうか、そんなに李順が心配ならば村の外れに住めば良い』


『え?』


『そうすれば毎日会えるぞ』


『誰にですか!?』


『当然李順であろう?他に誰がおるのだ』


『はい……』


『相変わらず村人からは相手にされておらぬ。父からは捨てられ、育ての祖父母はもういない…私が戦いに留守にする時、其方が傍におるなら安心だ』


『……』


『其方が渡した珠を大事に胸に抱き、母の名を呼び眠る…私にはどうする事もできぬ』


『……』


かつて母と離れて枕を濡らし眠った日々を思い出した。


『………』


『それにしても其方の香りは…なんだ?今はもうあれ程強かったものが消えてしまった』


『……言うても分かりませぬ』


『?』


そう言って不思議そうに紅露を見つめた白嵐を思い出し更に体の奥から暗い感情に支配されそうになる。


『紅露!!どうしたのだ?炎夏様の話でなければ何が悲しいのだ?』


紅露は何を寿扇に聞かれても首を振るばかりだった。


『…あんなにいつも笑って、いたずらをしては仙子様に叱られて…私や姉上が泣いていれば慰めに舞を舞ってくれたり…そんな紅が泣いているのを見るのはこちらが辛い…こんなに心が痛むのですか…』


長い睫毛に縁取られた瞳から突如流れ出し、頬を濡らした涙を拭おうと寿扇は手を伸ばした。

指の腹が涙粒に到達しようとした瞬間に窟の奥から寿扇にめがけ風が襲い鋭い痛みが走る。


『痛っっ…』


周囲はほんの一瞬の出来事に何が起きたか理解できなかった。ただそこに腕を庇うように痛がる寿扇が立っているだけだった。


『どうしたの寿扇…』


手を開き見ると無数の切り傷が見える


『な、なんだ?この一瞬で…』


『………白嵐か』


炎夏の言葉に太陰は頷いた。


『はい…この傷痕は白嵐様の砂嵐によるものかと…』


『砂嵐?こんな窟の中で私だけを目掛けて襲う砂嵐?しかも…目には見えませんでした…』



『足元をご覧下され…』


太陰の言葉に皆は寿扇の足元に目を凝らす


『わ、、金の…金色の砂が…』


暗い洞窟の一面に金色の砂が煌めいた。


『金の砂…?』

李順は砂を手に取ると何やら考えている。


炎夏は辺りを見回して呟く

『白嵐の砂嵐だな…全く…そんなに大事なら何故…』


『??大事とはどう言う意味ですか?私は別に…』


『この窟自体があやつの身体みたいなものだ…その一番重要な核の前にあの月季の姫が盾を作っておるが…我々はあやつの中におるのだ。』


『…という事は…?』


『其方月季に触れようとしたであろう?』


『……はい…紅が涙に濡れているのを見たくなくて…』


『あやつは他の誰かが紅に触れる事を許さなんだ…』


『………』


『それは…どういう…』


『言わずもがなであろう』


『では何故白嵐様は此処で、自らの体内だというこの場所で紅露に守られておるのですか?…花の仙女と神ならばむしろ反対ではないですか…紅露が…何故この様な光も届かぬ様な場所で…花にとり良くない環境の中にいなければならないのか…あまりに酷いです…』


『……寿扇。違うのです…私が…白嵐様を…』


『一体どうなっているんだ?私が触れてはならぬなら…白嵐様ももしかしたら紅を…』


『恐らくは…。それにしてもおかしなものだな…あやつの核は此処にある。だが彼奴は何処におるのだ…』


『み…湖に…』


『湖に?』


『しかし…今は近付く事はできません…蟻の1匹すら無理でしょう…』


『何故だ?』


『それは……もしかして…』


『李順?どうした急に』


『今…金の砂を目にして思い出しました…いや、逆に何故忘れていたのか…こんな大事な事を…』


『……』


『………もしかしてあの時のまま…お2人は…』


『どうしたんだ李順?』


李順は立ち上がり拳を握りしめた。

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