第7話
紅露の声は洞窟で響きながらその共鳴は浄化の一端を担っていた。辺りの瘴気は明らかに弱まっていた。
『私は李順の傷付いた魂に幼い頃に母を思慕し枕を濡らした日々を思い出し、李順に自分を投影してしまいました。時折、村に様子を見に行く事もあり…でも彼には過酷な毎日なのは見てわかりました。目を背けたくなるほどに。
私には師である仙子様も、98人の仲間もいる…けれど李順は…あの子には誰も居ぬと胸が痛みました。どれ程寂しい思いをしているかと…』
『……紅様…』
『1人の人間に目をかける事は危険だとわかっています。情を移す等もってのほか。私の7人目の妹は下界で人間の男に情を移し衣を隠されて帰れなくなったそうですから…』
『ああ、七仙女の末妹の話は聞いておる…』
『七仙女の話?ですか?』
『寿扇は知らぬのか?天界にまで噂が流れておったぞ。西王母の7人目の娘が帰って来ぬと…しかし暫くして戻ってきた。話を聞くと下界での水浴びの際に羽衣を無くし困っておったのを通りがかった人間に救われた。
思いの外親切で情に絆されその人間と家庭を持ったが、実の所は他でもないその人間に天衣を隠されておったと… その謀りに仙女は悲しみ家族を置いて天に戻ったのだ。月季の姫にしか興味がない寿扇の耳には届かなかったのだな。』
『いや、そ、そういう訳では…ありますけど…しかしそれにしても人間の浅ましさたるや…仙女を騙すなど…ましてやその欲望で家庭まで持ったなどと…謀りや嘘を耳にするは花の枯れる原因です』
『その様な話は他にもあります…簡単に騙される私達も悪いのですよきっと…』
『騙される方がおかしいなどあるものですか姉上…』
玉寿の呟きに納得できない寿扇は憤る。
『そうだな、人間とは愚かで…弱い生き物だ。己の私欲に他を貶めるなど恥もないのだ…』
『はい…しかし白嵐様はそれすら愛おしいと…』
太陰の言葉に炎夏は眉を顰めた。
『あやつが一番の愚か者だ!あやつの情の深さは命取りとあれほど言うたのに』
その怒りを聞けば聞くほど李順の嘆きは大きくなる。
『炎夏様…白嵐様は愚かではなく繊細で愛情深い方です。あの様に猛々しいのに生き物が好きで…あの時の私の様な枯れかけた月季にまで思いやりを持って下さいました。それがどれほどの力になるか…』
『………我々に情などは不要だ』
『はい。ですが私に取りそれは…生死に関わる事でした。
私が李順を心配し時折村に様子を見に来ている事を勘付き、それが必ず月の満ちる時期だという事に気付いた白嵐様はある時1人で村まで来る私を気遣い、満月の夜には湖まで李順の事や村の事を話しに来てくれました。妖は月夜に活発に蠢くと危険だと心配してくれました。
何しろ私の力はかなり枯渇しておりましたので満月の夜だけが人間の姿に戻れる限られた時間でした…意思の疎通が自由にできるのもその時だけでした』
『あなた…そんなにも衰弱していたの…』
『そんなになるまで…』
玉寿と翠香は生命力に溢れた以前の紅露を思い信じられない事だと嘆いた。
弱き人間とは違い遥かに力ある仙界の者であれ生きる気力を失う事の重大さを感じた。
『それからというもの私が人の姿でない時でもふらりとやってきて、物言わぬ私の傍でただ体を横たえるだけの日もありました。そうこうする内にいつしかこの姿に戻れる日が1日、2日と増えて行き、李順が荒れた日々に耐えている事に何か出来ぬかと思うようになりました…』
紅露が口にした中には白嵐に対する思いの変化までは及ばないなりにも力の漲りが即ち説明のつかない何某かの情によるものだとは皆理解できた。
『では、西の神に紅露がそれ程に…力を貰ったと言う事か?既に枯れかけた心を?
それは…その…もしや…紅は白嵐様を…』
『寿扇…』
『だって…それは明らかに…生きる力が溢れている証拠ではありませんか?何の情もなくそう思えるでしょうか?』
『あ、すみません…弟は少しばかり素直過ぎて…不粋な発言があるかも…』
『姉上、お言葉ですが不粋でも何でも知り得ない感情を知ろうとするのがそんなに悪い事ですか?姉上達も花の仙女達にいつも思っていました。何も飾る必要はない。思いのままに咲く方が余程美しいと…ですから紅は美しいのだと思っていました…私の考えでは恐らく紅は白嵐様を…白嵐様を愛…いや、口にしたくはない。しかし私は想像ではなく紅の言葉でそれを聞きたいのです』
寿扇は言い切る
『………』
寿扇の問いかけに紅露は遠くを見つめた…
初めは月の夜にのみ訪ねてきていた白嵐は次第に紅露の心も癒した。白嵐にとっても紅露の存在が癒しであったがそれは白嵐の胸に仕舞われた感情で紅露の知る由ではなかった。
ある夜は月が高く上ってもなかなか姿を見せない白嵐。よもや武神にあって何かがあるとは思えなかったが紅露は何処とはなしに心細く押し寄せる不安に苛まれた。
水際で彼方に見える湖岸を眺めていると湖岸にまで巡らせた月季の枝葉が不自然に揺れる。目を凝らす紅露。現れたのは待っていた白嵐である。
しかし白嵐はいつもの姿ではなく猫の琥珀のままで足元もフラフラとしている。それは即ち元の姿に戻る力を失くしている証である。
一飛びの湖も飛べずに流れのまま水に入り紅露の待つ岸辺に流れ着いた。
その一部始終を見ていた紅露はすぐさま駆け寄り子猫の姿の琥珀を抱き上げた
『白嵐様?傷を負っているのですか?一体何があって…』
手の中で琥珀は小さな鳴き声を上げた。
『紅か…すまぬ…私とした事が…力を使い過ぎた…森の外れで魔が現れたと聞いてな…海を越えた妖魔だが村人に憑依しおって…少々手こずった』
『……それならば住処で体を休めて下さい。あなたの住まう山は四神の気を戻すには最善の場所…何故こんな所にまで足を運んだのですか?月の夜だとて律儀過ぎます…私の事は気にせずに…』
薄目を開ける白嵐の目には覗き込む紅露の瞳から水の玉が溢れる姿が映された。
『はは…何故であろうな…お陰で姿は琥珀のまま戻らぬが…其方の膝の上が心地よい…丁度良かった』
苦しい息の中で冗談を飛ばし紅露が心配するのを阻止しようとする。
『白嵐様…冗談を言わないで下さい…今治しますから』
そういうと紅の手は琥珀の姿の白嵐を包みみるみると痛みを取った。根から吸い上げた大地の力を息を吹きかけ琥珀に与えた。
『ん?其方の手が傷だらけだがこれは?』
『見ないで下さい…これは…お目汚しになります』
『そんな事で目を汚しはせぬ。それよりも其方の治癒はもしや…吸収か?』
『はい…』
『では、痛みも傷も其方が吸い取り己に取り込んでおるのか?…ならばこの漲る力の供給は…』
『今夜は月が美しいので幾らでも力はお渡しできますので気にしないで下さい』
琥珀の瞳が紅を見上げると七色に光輝きを放っている。
『じっとして…暴れないで白嵐様』
頭に掛かる紅の心地よい息吹きに擽ぐられ肩を窄める琥珀
『しかしなんと…自虐的な治癒だ…そんな事をしていれば其方は又枯れてしまうではないか…』
『少し休めば大丈夫です。それに白嵐様に力を頂きました。ですから今ではずっとこの姿でいられます…あら…頭に花弁が…』
琥珀の頭には月季の花弁が乗せられている。
見つけた紅露はそれを取り除こうと手を伸ばした。
『そのままで良い。湖を渡る時に舞降ってきたか其方の花弁が…どうりで良い香りがすると思うたが…しかし』
『??』
傷も塞がり気力が充填された琥珀は息を大きく息を吸い込み吐き出しながら普段の姿に変化する。
琥珀を抱きしめる紅露は今度は形成逆転し白嵐の膝の上に乗っている。
状況に何が起きたかわからず目を丸くする紅露
『!!』
『この花弁は其方が一番よう似合う』
そう言って紅露の頭上にパラパラと花弁を降らせた
『え?こんなに?』
『本当は香りが良く癒しの効果もあるのでいつも持っておる…道々に舞う花弁をこうして拾っては懐に…』
袖から手を入れ袂から真紅の花弁を取り出してみせた。更に紅露の上に月季の花弁を降らせる。
『まぁ!』
『其方がいつも傍におるようでな…不思議とこれは枯れもせず美しいままなのでつい…』
『傷を治す効果があるなら幾らでも花弁くらいお渡ししますから…何も道々でなどでなくとも…』
『そうか…そうだな…其方から貰うとしよう。』
『でももう無理をしてはなりませんよ…これからは真っ直ぐ窟に戻り休息して下さい』
『…それはつまらぬ…それに…』
『??』
『我が此処に来ぬと其方が心配するではないか…そうであろう?』
『なっ…確かにそうですが…。あ、まさかそれでわざわざ此処に…』
住処に戻らなかったのは月夜に待つ人の為だとは言えない白嵐は懸命に力を分け与え続けようとする紅を見つめた。
『其方が笑うてくれれば良い…窟で眠るよりも其方の傍が安らぐ』
『……ですが…』
『ああ、そんな事よりも舞を頼む…せっかくこんな月夜に月季の舞を独り占めできるのだ…』
そう言い微笑む白嵐。
月季は瞼の裏に焼き付いたひとときを思い出すと目の前の炎夏や仙女達、寿扇を見つめた。
『寿扇…その問いかけ…確かに私は白嵐様を…慕うています』
『紅露…』
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