第6話

『李順…気に病むことはない。貴方は何も悪くないから…それに必ず貴方の琥珀は戻ってくるから』

罪深さに苛まれ咽ぶ李順に紅露は告げた。


言葉が自由に出るようになった紅露からは流れる二胡の音の様に柔らかで伸びやかな声が響くと一同は皆この瞬間まで持っていた焦りや心の不安がみるみると鎮まっていくのを感じた。


『花の者はその場にいるだけで人を癒すと言うが…流石は治癒の能力が高いだけある。四神の私にまで安息の効果があるとはな…成る程美しき透き通る声か…』


炎夏は感嘆した。


『紅露はその視線、指先からも癒しの力があります故目が合えば安堵し声を聞けば不安は消え去り安眠でき、その指先が触れると瞬く間に外傷は癒えます…手を当てると完全に元に…』


翠香の説明に感心する。


『ほう、人間の世界では手当と言うが正にそれであるな。だがその鋭き棘で傷を負わせる事も出来ると言う事か。攻守どちらにも能力がある。月季の姫には矛盾が備わっておるのだな』


『はい…しかしそのお陰で私どもはあの時難を逃れました…』


太陰は答えた。


『確かにそうであろう攻撃は最大の防御だ。ある意味では矛盾でもあるまい…傷を負わねば治癒は不要だからな』


『では先ずは其方の話を聞かせてくれ…』


炎夏は窪みに僅かに迫り出した岩に腰掛けた。


『炎夏様、そんな悠長な事を…』


『悠長もなにも、西王母の娘、七仙女の月季と言えども1人でこの李順と申す人の子が大人になる程の時間この場所を攻防していたのだ。我々にすれば一瞬だがそれでもこの場所には今四神の私も力が戻ったばかりとは言え武神白虎に仕えた眷属にそれから花の仙人達も揃っておるのだ…そう憂う事もなかろう』


『確かに何かあってもこれだけいればなんとかなりますよね、うん。きっとそうだ』

寿扇も周辺の岩肌にもたれ掛かる


『寿扇!なぜそんなに呑気なの貴方は』


『よいよい、それくらい朗らかで愛嬌がある方が花らしいではないか…其方も寿扇の大らかさに救われておるだろう?』


『…は、はい…』


そのやりとりに思わず表情が緩む紅露。

安堵の笑顔である。


『紅露が笑った!私が笑わせたのか?紅露』


『寿扇。ありがとう…変わらない貴方の優しさに力を貰いました…翠香、玉寿の祈りの舞にも力を頂き…四神炎夏様にまで…それに…』


紅露の傍に寄り添う天空と太陰に視線を移し微笑んだ


『貴方達まで案じてくれて…大丈夫。きっと白嵐様は戻ってくるから…心配しないで』


『紅様っ』


天空は咽ぶように鳴き声を上げた


『貴方や白嵐様をきちんと守れなかった…この天空…情けのうございます』


『天空、貴方も大きな怪我をしていたのに…声だけになってもずっと傍にいてくれた。貴方達の声は耳に届いていました。どれだけ励まされたか知れません。その想いが私に力をくれたから…此処まで頑張る事ができました』


感情がない筈の太陰はその袖で目頭を抑えた


『太陰…心配をかけてごめんなさい…』


『姫様…無謀にも私達の前に出る等…何故したのですか!私は…私は…』


『貴方達がもし傷付いたら…白嵐は1人になってしまうわ…貴方達は白嵐にとって大切な家族だもの…』


『…姉上…眷属や遣いの者を家族など…そんな四神おるのですか?初めて聞きました…』


『私も初めて聞きました…ただただ畏れていたけど…』


菊の姉弟はこれまで持っていた神への畏怖の印象が薄れつつあった。


『まあ、普通はそう思うだろうが。白嵐は寂しがりやでな…そこの人間。李順よ…』


『はっ…』

李順は涙を拭い顔を上げる


『そなたは今子供の姿に見えておるが本来もう立派な大人。家族もおるだろう?』


『はいっ…妻と息子と娘がおります…』


『家族は大切かの?』


『それは勿論でございます…もし、家族に何かあれば私は…私は生きてゆけません』


『ふむ、ならば何かある前に手立てがあるならどうする?』


『それは勿論、その手立てがどれ程難儀であろうと必ずや家族を守ります…どんな事をしようと。自分がどうなろうと…』


『……』

太陰は炎夏の質問の意義を感じ取り、益々目から止めどなく溢れ出す水の玉の意味がわからなかった。

感情というものが存在しえない式や眷属の胸が何故こんなにも痛むのか…何故「叶うなら自らが守るべき白嵐と取って代わりその身が消え去っても心に体に傷付いた主を救いたい」とさえ思うのか。その思考に行き着いた理由もわからないまま…自然と生まれた感情という厄介なものに翻弄されていた。


『白も同じだ。この西方の地。村、山に住む人々や動植物全て。

そう、あやつにとり守るべきは人間でいう所の家族みたいなものだ。

もっとも、神にしては白嵐は少々神らしくない。本来ならば神に情など湧き出すものではないからな。我々だけでなく地上で住まぬ者達は皆そうだ感情に支配されない。依存する事が許されない存在なのだ。

しかしあやつは何しろ人間が可愛いと思うておる…以前四神で集まった時に「愚かで無力だがひたすらに神を信じる直向きさもあるあの人間達が可愛い」などと言うので我らは笑うたのだ。転生遊びで痛い目を見てもそれでも大事な命だとあやつは大真面目だった。大袈裟に笑った我が怒った白虎に転がされた程だ。融通は効かぬし…無骨で気難しいが一度その懐に入れれば何よりも力になる。

人の子李順よ、我々も人間の信心深さに力を貰うておる。だからこそ其方達が住む地を守るに至るのだ。武神である白嵐には深い情があるからこそお前たち人間を妻や我が子同然に守ろうとするのだぞ』


『……は、はいっ…』


『炎夏様…李順は何も知らないのです…まだほんの子供でした。ただ、生い立ちから孤独の日々に現れた琥珀という猫に兄弟の情を注ぎ懸命に生きていただけです…冷たくされても父を慕い心配する真っ直ぐで優しい子です』


『…紅様…』


『懐かしい呼び名を…あなたはいつも私を紅と呼んでくれたわね』


『はい…』


紅露は美しき声でまるで古の物語を立ち寄った村々で伝える旅の語り部の如く話し始めた。

『私は…仙界を追放されて仲の良かった翠香や玉寿と別れ一人でこの辺りに辿り着きました。

百花仙子様と98人の仲間達に申し訳が立たない罪を犯し、絶望しておりました。湖に降り立ち、幾日も何も気力も起きずただ湖に浮かぶ波紋を眺め、夜の静寂(しじま)を感じるだけでした。気付けば何年も経過しています。しかし一向に何をする気にもなれず誰にも会いたくもない、あの女仙の嫦娥が月に追われたと風が私の耳に聞かせるのも我慢ならない。…月に追われたならば尚更その月も目に入れたくはなかった…なのに湖面には皮肉にも月は見事に映り込む。私の領域まで侵す事を許す事ができなかったのです。

ある時、どうせならこの湖一面に私を張り巡らせばいっそ、湖面に侵入したとてあの月すら棘で傷つけてやれると思い立ちました』


『紅露…』


『分かってる…恨みや憎しみも罪だと。だけど皆を下界に貶めた自分の事がどうしても許せなかった…そんなある日、日も暮れた湖に人の子が現れた…いつも死に場所を探しにくる年老いた者達よりもずっと小さくて汚れも知らぬ美しい魂の子が…それが李順…貴方です』


『はい……』


『しかし私と同じく酷く絶望している。本来この年端の子にある筈の温かな魂はなく、その胸に宿る光は冷たく凍っておりました…後ろから小さな猫が付き従い、私の茨の枝を分け、棘で傷を追いながら水辺を彷徨っておりました…月が湖の真上に差し掛かり湖面にもう1つの月が現れた時、李順は猫を胸に忍ばせ泣きながら母を呼び湖に消えてしまいました…

私は幼い日に母と別れた記憶が蘇り、何としてもその湖よりも深い心の闇から救い出さねばと思いました。

しかし、私よりも先に李順の胸元に隠れていた猫が飛び出したちまち白虎の姿に変化し私のいた岸辺まで李順を咥え連れて参ったのです』


あの夜を紅露は忘れる事はできなかった。

水に濡れそぼる白銀の毛に大きな琥珀を埋め込んだ目を狼狽える紅露に向けた


『其方は…何だ?』


警戒心を剥き出しにし此方を睨みつける。

恐ろしく獰猛で鋭い爪と牙を持つ者には到底己の棘も太刀打ちできぬとすぐに諦めた。


ぐったりと力なく横たわる子に気付くと白銀に輝く猛獣がどれ程恐ろしくともそれを無視する様に駆け寄り介抱した。

人の子の命の炎が消えようとするのをただただ抱きしめそれを食い止めた。


徐々に戻る体温、月季の葉擦れの如くささやき声は白虎には届かずただ李順は耳から入る言葉に安堵し、指先で触れた頬が微かに薔薇色に変化していく。

懸命な紅露を白き獣は見つめている。

段々と冷えきった子の体温も戻りつつある。


『…李順を救うてくれたのだな…礼を言う…しかし其方何者かの?この地上のものではあるまい。この西方が我の治める地と知っておるか?』


声に肩を竦める程唸り声は地響きにも似ていた。


『はい…私は…百花仙子の弟子。月季の紅露と申す者でございます…貴方様はお噂に聞く四神の白虎様ですか?』


深く頭を下げるその所作さえ美しい。

儚げな姿に何処か懐かしさを感じる。


『いかにも…私が四神の西の神だが…月季か…成る程李順の頬が其方の色に染まっておる…』


『……』


その姿に恐れながらそれでも逃げ出す事もなくただただ人の子を胸に抱きしめ、冷たくなった身体に力を注ぐ。蒼白の唇も赤みが差している。


李順の体はすっかり温まり衣服も乾き始めた。


『其方震えておるのか?それに李順は乾いたのに今度は其方が濡れておるではないか…』


『あ…はい…この子は李順というのですね。李順の身体の水分を私が代わりに受けただけですので…私は濡れた所で何も…ただ体温も吸い取るので私は李順の冷気を受けているだけです。あ、でも李順には私の気を流しておりますので寒くはありません。ご安心下さい』


『いや、そうではない。其方の体が凍えている事を言うておるのだ』


獣の姿で大きく声を上げるそれだけでも恐怖に値する。

恐ろしさに無意識に李順を庇う様に抱きしめていた。

ゆっくりと近付く白虎に慄きながらも真っ直ぐと見つめた。

『はは…恐れずとも良い…あぁ、、この姿が怖いか?』


『いえ、そんな…すみません』


白き虎の獣は大きく深呼吸すると人に姿を変えた。しかしてそれは地上の者とは思えぬ美しさである。上衣の袖は腕に通さず腰紐で留め所謂半裸である。

露になった隆々とした筋肉質の上半身からは蒸気が発し緩やかに伸びた白き髪を後ろで束ねている。


『白嵐と呼べ…』


『あ白嵐…様…』

目のやり場もなく紅露は視線を逸らす。

近付く白嵐は徐に腕を伸ばし李順を抱き身動きの取れない紅露の頬にそっと触れた。

余りの出来事に言葉も出ないまま白嵐を見つめる紅露。

『やはり体が冷えておる…南の炎夏なら直ぐに温めてやれるだろうが…』


『い、いいえ、李順が濡れてさえいなければ良いのです。私は元々植物の月季ですよ?水もなければ枝葉は伸びません。ですからお気にせず捨て置き下さい』


『はは。面白い事を言うな…紅露と言ったか…何故此処におるのだ?…それに其方は甘く芳しい良い香りがする…いつであったかこの香りは記憶にあるぞ』

腰紐で留めていた羽織を外し紅露の肩に掛けた。


『…げ、下界へ追放される前は禁止されておりますので時々しか。…それに四神様とかつて会っていたとして私が記憶してないというのは些かおかしな話です。』


『…確かにそれもそうか。では記憶違いかも知れぬな。しかし禁止されておるのに時々は下界に来ておったか?これはなかなかお転婆な話だ』


『はい…いえ、あの…ご迷惑でしたら直ぐに別の場所に向かいます…』 

動揺しながら紅露は答えた。


『そうではない…ただ其方から放たれる光が酷く悲しい。無性な懐かしさも気にはなるがその光の原因が実に気になる。美しいのに悲しい光だ…李順によく似ておる…それ故に何があったかときいておるのだ。言わば好奇心というものだ』


『……』


『この地から動けぬ四神は仙界で何が起きているか聞いておきたい。もし良ければ話を聞かせてはくれぬか?』


話しやすい様にわざと面白がる白嵐の心地よい気遣いに紅露は観念し仙界で起きた出来事を全て話した。記憶にある追放に至るまでを語る。

すると急にすっきりとした面持ちで顔を上げた。


『ほう、何故にあの自尊心の塊の男天蓬元帥があのように姿を変られ仙界を追放されたのだな!よう分かった』


『?』


『天保元帥だ。今其方が話していた輩だ。女仙を追いかけ回したと噂で聞いたぞ。恐らくそれがその事であろう。我らは土地をそうそう離れる事はないが噂はよく聞こえる…それで、其方は追放された仲間への責任を感じて生きる気力を失ったのか?』

生きる気力を失った事を言い当てられ思わず俯きがちの顔を上げた。


『え?あ…はい…私など皆の足を引っ張る事しかできなくて…ただでさえ弟子の中でも舞がうまく舞えずに未熟であるのに…追放されて、仙界へ戻る為の善行もせぬままでやっとこの場で枯れて行けると思ったら湖面には月が現れて…あの女仙が追放された月が映るたびに姉弟子の皆の顔が浮かび胸が痛むのです。とうとう腹に据えかねたので次にのこのこあの月めが湖面に現れたなら私の棘で刺してやろうとこの辺りを月季花で張り巡らせてしまいました…申し訳ありません…せっかくの美しい湖を』


『あはは。よい。月季の棘は痛くて堪らないが花弁は其方同様に美しい。香りも深く胸に仕舞いたくなる程の芳香だ。それよりも己が棘で刺そうなどと…憎みも恨みもしたのか!?仙女らしからぬ振る舞いだの…大人しく見えて気の強い…しかしてこの白虎を見て恐怖するも立ち向かい人の子を救う情の深い仙女だ…』


白嵐はじっと紅露を見つめる。

音もなく静寂だけが湖面を流れていく。

先程とは真逆の白嵐の柔らかな視線に困惑する紅露。

『あ、あの…』


『ああ、完璧以上に美しく甘美な其方の何処が未熟なのだと見ておった…睨んだ訳ではないがつい又怖がらせてしまったか』


『いえ…そうではなく、あまりそう見つめられると…どうすれば良いか分からなくなります』


意識のない李順を抱きしめ、白嵐と話しながらもその力を注ぐのを止める事はなかった。

指で触れた傷も完治している。


『心優しき月季か…』


白嵐は月を見上げた。

胸の奥の何かを擽る懐かしさはいくら記憶を呼び起こしても蘇る事はなかった。


『心優しい事はありません。皆には感情を抑えろと注意されるばかりです…何しろ考えるより先に体が動いてしまって…あの女仙を怒らせてしまった…』


『だったらもう恨むな。そして憎むな…其方には似合わぬぞ…そうだ、ここで舞を見せてくれぬか?』


『え?舞ですか?私の舞よりもっと美しい舞手の仙女もいます…』


『其方の舞が見たい…二胡の音の様な声も心地よい…見せてはくれぬか?そろそろ李順も目を覚ます…あの子を生む時に母が死に、父親からはその恨みを買って蔑ろにされておるのだ。仙女の舞を見れば生きる気力も得よう。何より我が舞を見たいのだ…おかしいと思うかもしれぬが日々戦に明け暮れ心が疲労している様だ。舞を楽しみ癒されたいと思って初めて癒しが必要な程疲弊していた事に気付かされた。』


『そうでしたか…私の舞で良ければ…』


そう言って紅露は李順と白嵐の為に舞を見せた。

腕を伸ばし指先を動かすたびに芳しい香りが鼻孔に優しく触れ、

衣を翻し回転すれば一陣の風に長く漆黒に艶めく髪を揺らす。跳躍は軽やかに湖面に波紋を作り、たちまち浮かぶ月を掻き消した。


いつの間にか李順は目を覚まし、白嵐は李順の猫琥珀の姿に戻っていた。李順の胸元で小さな鳴き声を上げている


『……此処は…私は生きているのですか…』


願った世界に逝けなかった事に肩を落とす幼き李順を紅露はそっと抱きしめた。


『李順…生きて貴方の宝を探しなさい。お父様の悲しみを恨んではいけません。貴方は貴方らしく大切な人を探して?それまで私の宝を半分預けておくから…ほら、綺麗でしょう?貴方の心にある光もこんな色をしているのよ…此処に貴方を案じている私がいる事を忘れないで。寂しくなったらいつでも此処に会いに来て』


そう言って紅露は七色の朝露の珠を半分にして渡した。

驚きながら己の存在を、これから生きる事を許された様に感じた李順の心の変化を琥珀姿の白嵐は静かに見守っていた。

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