第5話

『…確か仙子も一緒に人間界へ落とされたと聞いたが』


『はい。私達はこの人間界で善行を積み、許されれば仙界へ戻る事ができます…』


翠香は百花仙子と99人の弟子100人が一斉に地上に追放されたあの日を思い出した。


『でも、私はもう…』


仙界に戻るつもりないと最後まで言い終わらぬ内に炎夏が遮る

『翠香は私の傍に居れば良い』


『……はい』

翠香は静かに答えた。その刹那微に香る茉莉花の香りが翠香の内心を表している。その心情は炎夏にもそれ以外にも充分理解できたが誰も何も口にする事はなかった。


『嫦娥は他にも様々な事が積み重なり月に追放されたそうだが』


『月に追放された事が罰になりましょうか?私には理解できません。姉上達は何もしておらぬのに…ただ仙子様に化けた誰かの号令で一斉に咲いただけですよ?』


『寿扇…私達花にも秩序や決まりがあります。決められた季節に咲かねばならない。それにより人々は生活に目安をつけるのです。一斉に咲けば農家の者はいつ種まきを始めるか決められまい。危険な野山に分け入る目安も付けられないのです』


『だからと言ってあれは姉上達が悪いわけではないのに…皆が下界へ…ひどい話です』


寿扇は憤る


『確かに百花の繚乱は禁止されておる。それにしても優しい心根だな花の者は…それとも姉弟愛かの?しかし美しさと邪気の無さは時に生命取り。誰に手折られるやもしれぬぞ』


『炎夏様。私は追放された姉と共に、幾度も人間に手折られそうになりましたが…それを救ってくれたのも又人間なのです…複雑で厄介で…憎めない生き物です…だから姉上は潦から離れていけないのです。きっと…本当は翠香さんと炎夏様のように…』


『玉寿…貴女…』


『わ、分かってる。ちゃんと…ただ、私達姉弟を救ってくれた潦に恩返ししてから…それからちゃんと…』


仙界人と人間は情を交わす事は法度である。

始めは幸福であれども生きる時間の差が心に空虚な罪を作る。仙界や天界の者は人間界では小さな罪も大罪となされる。玉寿は全て承知の上で覚悟していると宣った。


『潦さんは菊好きの人で、私達が村人に切られそうになっていたのを野で咲く方が美しいと庇ってくれたの。だから少しでも役に立つように傍に………恩返しが済んだらちゃんと諦めるつもりでいます。昨年彼が怪我をしてから痛みがとれないようで次第に患部が悪化して見えて思う様に丹精ができなくなってしまうかも知れない。紅露の治癒の力を借りたいと思って…』


『玉…』


『しかし、それなら紅露は下界でどう暮らしていたんでしょうか…』


寿扇の疑問に答えたのは人間の李順であった。


『あの…紅露様は気が付いた時には恐らくあの湖に住まれていたと思います…何故今まで忘れていたのかは分かりません。ですが今思えばあの湖は昔々に村の長老に聞いた年老いた者が向かう場所ではないかと…そう思えてなりません…』


『月季の香りに忘却の記憶が蘇ったのかもしれませんね…それにしても湖が死に場所とは…』


『そうかも知れません…懐かしい香りと共に記憶が…。私の村ではある年齢になると老人がいなくなるのです…大人になりどういう事か分かりました。若者に迷惑をかけぬように死に場所を探す目的でいなくなります。死の姿はありませんが【月季の花弁】が祝福をくれると噂が…それで村では月季の季節…つまりは春の間に失踪する老人が多かったと思います。子供時分は単純に大人の話を信じて別の村へ行ったと思っていましたが…私が見せられたあの紅露様の舞も本来は死にゆく魂への餞だったのではないかと…思いがけず子供の私が迷い込み救うて下さり、慰めに舞ってくれたのやも知れません…あの湖に張り巡らされた月季の花々。その群生の仕方を鑑みても昨日今日やたった数年でのものではありません』


『それが事実であるなら何故紅は…この地に留まったのか…。他の仙女達の様に率先して善行をして来なかったのでしょうか…聞いていると仙界へ帰る気を持っていないように感じるのですが…』


『寿扇、死にゆく魂への餞の舞も善行の1つではないですか?』


『しかし、全く紅露らしくない…昔の紅ならあんな人気のない湖に一人隠れ住むなど有り得なかった…いつも何処かの花達と語り合い笑って小鳥や蝶々を枝で遊ばせておりました。ですから私は…そんな紅が好きで…天真爛漫な姿に癒されました』


寿扇は思い詰めた様子を見せながら無言で佇む紅露の前に立つ。


『紅露!どうしてあんな所でたった一人で住んでいたのかこの寿扇に教えて下さい。姉上と私と一緒に旅をしてもよかったのですよ?追放され、旅立つ前にそう話したではありませんか。そんなに私は頼りにならなかったのですか?』


言葉が出ぬ紅露はただただ俯く

その長い睫毛の先から一雫の涙が滑り落ちた


『せ、責めている訳ではなく…ただ…』


芳しい月季の香りが強まり辺りに充満する。


『ふむ…感謝の香りかの…素直にまっすぐと月季の君を慕う寿扇の心に感謝しておるようだ…それは即ち癒しであるぞ寿扇』


『………』


一雫の涙が溢れた後、紅露は寿扇に微笑んだ。


『…紅露…』


『嫦娥の恨みを買い百花が咲くのを止められなかった事を自責しておるのか…繊細な事だ…』


炎夏はその細やかな精神を理解できないでいた。

『紅露が悪い訳ではないと言っても、姉弟子達が散り散りに追放された事実が紅には辛い事でした…炎夏様の様に誰もが強気で生きている訳ではないのです』


翠香は理解を示さぬ炎夏に苛立ちを隠さなかった


『悪いのは嫦娥だ。それにそんな訳のわからぬ罰を作ったのは誰だ?全く意味がわからぬ一斉に咲いて何が悪い。目に美しいではないか』


『……そんな単純な事ではありません。私達には人々に季節の移ろいを知らせます。一斉に咲いてしまったら、人間が畑に種を蒔く時期が分からなくなってしまう、収穫の時期を逃してしまう。人間だけではなく生きとし生けるもの達の基準が狂ってしまいます』


『単純とはなんだ?全く相変わらず花の者達は頭の硬いことだ臨機応変をしらぬのだ』


翠香が次の言葉を発しようとした瞬間、傍らで呻き声が漏れた。


『あ、あの…先程から…胸が…』


李順は胸を抑える。


『…人の子にはこの空間は負担が大きいのでは?』


『いえ、お待ち下さい…あの者から紅露様の香りが強く出ております』


犬の姿をした天空は李順の体を探る。


『熱い…胸が…焼ける様に…あ!もしかしたら…』


李順は胸元に手を入れ小さな小袋を取り出した


『こ、これが急に熱を…』


『何だそれは…天空…こちらへ』


炎夏の言葉に従い天空は小袋を咥える。

小袋から炎夏の手のひらに転がり出たのは虹色に輝く玉であった。


『ほう…これは随分と巨大な力が込められておる…天空、月季の姫にこれを…』


炎夏の手のひらから受け取り天空はすぐさま紅露の元へ向かい、虹色に輝く玉を差し出した。

紅露は玉に手を伸ばす。玉は忽ち一際輝き紅露の中に吸収されるように消えていき、それとは逆に紅露の身体は透けもせずはっきりとした実体として現れ事態に驚く天空の頭を撫で笑ってみせた


『…ありがとう…天空』


『紅!!』


『紅露様っ』


一同は紅露の一声に驚く。


『朱雀の炎夏様…初めてお目にかかります。百花仙子99番目の弟子紅露でございます…玉寿、翠香…寿扇…っ…』


懐かしい顔ぶれに再び涙をこぼした。


再会の瞬間、月季花、茉莉花、菊の花がそれぞれ足元で咲き乱れた。


しかして紅露はその場から離れる事ができなかった。


『紅露…貴女…根がこの地に…』


『李順…良くここまで来てくれました。貴方はこの玉を大事に持っていてくれたのね…』


『は、はいっ…紅露様っごめんなさい…嘘をついて…騙したみたいになって…紅露様と琥珀…を…傷つけて…』


『良いのですよ。貴方は何も悪くない…元気で生きてくれさえすればそれで私は幸せです…貴方のお陰で声が戻った事できっと…白嵐様を救えます』


紅露の言葉に更に咽び泣く李順は幼き頃の姿となっていた。その心がそのまま姿形を表しているのだと炎夏は頷いた。


『月季の姫よ…白嵐はどうしてこの様な姿になったのだ…』


『炎夏様…この白嵐様は分身です…本当の白虎白嵐様は私を守って別の場所で冷炎により凍らされております。未だその冷炎が収まらず身動きが取れない状態です。どうか白嵐様を救い出して下さい…』


『本体ではないと思ってはおったが白嵐が分身を使うのは珍しいな』


『!!紅露様まさか…あの時…』


子供の姿のまま何かを思い出した李順の声に紅露は微笑んで見せた。


『ああっ…そんな…私は…私はどうすれば…全てはあの女姮娥のせいで…いえ…私のせいです…』


『姮娥?姮娥と申したか?…』


『炎夏様… 姮娥とは誰です?』


『月の仙女嫦娥が人の世で使う名だ』


『な!!それでは…私は…紅露様を地に貶めた者に加担したと言うのですか…何と言う罪深さ…』


李順は膝を突き嗚咽と共に己の犯した罪に絶望した。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る