第4話

月季の姫が現れた瞬間に芳しい甘い香りが放たれ足元が僅かに振動する。


『……やはりただの仙女ではないようだ』


『紅露!』


『月季姫様っ…』


皆口々に姿を現した月季の仙女の名を呼ぶ。

呼び声にゆっくりと長い睫毛に縁取られた目を開いた。しかし苦しげに喉を押さえる。

深紅の紅を差したその唇は彼女の声を呼び出してはくれなかった。


『……?なんだ…声が出ないのか?』


『未だ不完全なのでしょう…紅露様の声が白嵐様に届けばと思いましたが…』


『瘴気が取り祓われると?』


『はい…』


言葉が出せない紅露は無理に声を出そうとし苦しげな表情を見せる。


『紅!無理をしないで…でも…一体何があったの…』

翠香の言葉に頷くと何かを思い出したように両手を合わせ舞の一節を見せた。

紅色に白金の刺繍が美しい衣は吹く風もない洞窟内でふわふわと揺れた。しなやかで艶めかしく翻す衣が揺れるたびに金の砂が舞い始め皆は見惚れた。


『ん…なんだこれは…何か頭に映像が…』


『これは…月季の思念ですか?』


『記憶が流れ込んでくる…お前達も見えるか?』


『は、はい…この景色には見覚えがありませんが…』


李順は驚きの声を上げた


『これは仙界です…私達花の仙女が住む蓬莱山の周辺の景色です…紅は…何を見せようとしているのかしら…』


玉寿は呟く


『あ!あれは…西王母様では?!隣にいるのは百花仙子様…それから西王母様に手を引かれている子は…』


『紅露だ。出会った頃より少し幼いがあれは正しく紅露です』


寿扇は思わず叫んだ


『シッ…何やら会話が…』


一同は紅露の見せる記憶の景色を見つめた。


『ここは相変わらず美しい山だの…』


西王母は景色を楽しむ

心地よい風が頬を撫でながら抜けていく。


『いえ、崑崙山にも見事な蟠桃園がございます。』


『ふむ…険しい岩山を越え辿り着いた雲の上の天上に夢のような世界があろうとは人間界では想像もつかぬだろうな。確かに我が瑶池の外れには桃花はあるが…度々おかしな者達が荒らすので困りものだ』


西王母の蟠桃園には3600本もの桃があり甘い香りが漂う。時折遠く離れた蓬莱山にもその芳香が風に乗って届く。


『蟠桃園の桃と言えば皆が欲しがりますから…』


手を引いていた娘が花に止まり又飛翔する蝶に誘われ走り出す。その姿を見つめる西王母に仙子は思い詰めた表情を向けた。


『西王母様…やはり恐れ多い事ですが…私に紅様の師となるのは…無理があるのでは…』


『何を弱気な事を…もう既に98の弟子を持ちこの花の世界を束ねる其方が。確かに紅は強い力を持つ…それ故にこの子はいずれ私の跡を継ぐ。その為に凡ゆる世界を見せねばならん。まずは其方の世界での修行を任せたいのだ…』


『しかし紅露様のあの凄まじい仙力はどうすれば…』

『普段は放出せぬ様に珠を持たせる』


『珠…ですか?』


西王母は歩いている路傍の草に付いた朝露を1つ手に乗せると忽ちそれは美しい珠に変化した。朝日に照らされそれは不思議に七色の輝きが見える


『紅露にはこれを持たせると良い。余計な力を出さぬ様に吸収し、それを窮地の時には取り出せる。使わぬなら世界に放出すればよい』


『は、はぁ…』 


『互いに傷付け合う愚かで愛すべき人間にはいつか必要になる珠になり得るかも知れぬ』


『…それはどういう…』


『例え話だ…とにかく他の6人の娘達はまだまだ小さい…一緒に生まれてきた紅だけが成長が早くて驚きもしたが。それには何か理由があるのではないかと思えてならぬ』


『………』


『仙子よ…やはり頼みを聞いてくれぬか?』


野山で草を分け蝶を追いかけ転がる幼き紅を2人は目を細めで眺めた。

無邪気に走り回る姿に仙子は覚悟を決める。


『分かりました…西王母様。私が紅露様の養育を引き受けます。しかし、他の弟子達と同じ扱いになりますがよろしいですか?』


『願ってもない…特別扱いはせぬように…』


『紅露!』


母の呼び声に振り向く幼い娘は無邪気に笑い両の手を広げて駆けて来る。

少女の踏んだ足元の草はみるみる花実をつけ跡を追う様に蝶や小鳥達が周りに集まっている。


『………この凄まじい力により紅露は孤独を知るかも知れぬが…闇を知らねば光も知ることは出来ぬ』


『………はい』


『私は暫くは会わぬ様にする…恋しがっても会う事はせぬのでそのつもりで頼むぞ』


『は…承知いたしました』


『母上!周りに沢山の鳥が集まってくるの。母上の青鳥みたいにいつか私を背に乗せて運んでくれるかな』

息を切らせ目を輝かす愛らしさに後ろ髪を引かれる想いを持ちながら母は怯まなかった。


『はは。可愛がってやればいずれそうなる。そうだ、紅露。お前は今日からこの百花仙子の弟子となるのだ。良いか?』


『母上は?』


『母はそなたの妹達にまだまだ手が掛かる故帰らねばならぬが、お前が神々、仙人仙女達、人間や動植物に至る凡ゆる数多の生命を癒し救う舞いが舞える様になればまた会えよう。仙子の言う事をよく聞け…母の事を聞かれても答えてはならん。答えれば会う日が遠ざかってしまうからな…』


『はい……』


幼子の瞳は不安に揺れながらされど母の期待に応えるべく頷いた。


西王母は幼き紅露を抱き締める


『紅、これは大切な珠だ。お前の強大な力は誰かを傷つけてしまうやもしれぬ。この珠に力を吸収させると良い。そしていつか使うべき時が来た時に使うのだ』


朝露の珠を紅露に手渡し西王母は去って行った。


いつまでも母の背を見送る紅露を仙子は不憫にさえ思った。


こうして99番目の弟子として百花仙子の元で暮らした。仙力は抑えられてはいたが溢れる力に時折強まる芳香。それは感情の起伏による事も起因していた。

母を恋しがり部屋で1人珠を見つめ枕を濡らした。時折下界にて仲間からはみ出した動物達と戯れそして家族となる事もあった。それ程に温もりが恋しい幼き花の少女である。

しかして下界の生きとし生けるものは命に限りがある。いつしか短命な友の死を受け入れる事が難しいと知った。

天真爛漫に振る舞いながらその心には孤独の寂しさも宿した。


『紅は…寂しかったのか?姉上…だったら私達といればよかったじゃないですか』


『……誰かを傷つけてはならぬと暗示にかかっておったのやも知れぬな…あの美しき月季の棘は心が傷付かぬ為の鎧であろう』


『……そんな』

 

『…確かに皆と楽しげにしていても何処か違う私達とは違う空を眺めているようなそんな時もありました…どうしたのか尋ねても笑って、又冗談を言っていつもの紅に…』


『私達姉弟が羨ましいと零したり…妹達には会った事がないと…』


『じゃあ、じゃあいつも姉上がいて羨ましいって大事にしてと言っていたのは…自分と重ねて…だったら私が家族になります紅露の』


『寿扇…また突拍子もない…』


『そうは言っても素直な気持ちですから…。あ、これはまた…場面が変わりましたがどちらです?』


『これは……崑崙山の… 西王母様の蟠桃宴会ではないですか?』


『もしかして…あの時の…』


崑崙山の西王母が開催する宴には百鳥大仙や百獣大仙が召集される。

余興に奇鳥や仙獣たちを歌わせ舞わせた。

紅露は西王母の命を受けた仙子より蟠桃園の中の蟠桃を採集する仕事で桃園へと向かっていた。道中酒に酔った天蓬元帥が美しい女仙を追いかけまわしていた。


周りの皆は笑っていたが困っているように見えた紅は女仙と天蓬元帥の間に割って入る。


『ほう、美しき花の仙女か。この天蓬元帥に何か用かな?』


『いえ、ただ…此方の方が嫌がっておいでに見えたので…』


『嫌がって?そうかぇ?嫦娥よ…』


『いえ、私はただこの庭を堪能していたのです…』


『よく見てみればこの花の仙女はお前より更に若く美しい。皆もそう思うだろう?』


『い、いえ…何を…』


元帥は近付き紅露を捕まえた。

その瞬間巻き起こる風と共に月季花がそこ此処に咲き乱れ棘だらけの茎を伸ばし元帥をはねつけた。


『いたた…鋭い棘か…。攻撃的で若く美しい…面白い…』


追われていた嫦娥はされど自身の性質上己より他の女仙が褒められる事を良しと思わず、それどころか男達の注目を一瞬で攫った紅露を睨んだ。


そうして対抗する様に妖しく艶かしい舞を見せ再び男達の視線を我が物に戻した。


『あ…差し出がましく出しゃばって申し訳ありませんでした』


紅は一礼しその場を去った。


桃園の沢山の桃から三千年、六千年、九千年に1度熟れる桃を収穫した。


『三千年のものは仙人に。六千年のものは長生不老。九千年の桃は永劫の命ですって…要らないわそんなもの』


呟きながら桃を見つめる。

気の遠くなる桃を選別し香りを楽しむ。


しばらくすると桃園の奥に不穏な空気を察知し目を凝らした。


『嫦娥様…天蓬元帥は酒に酔って寝ております。今のうちに帰りましょう』


『いやよ…西王母の六千年の桃を食べに来たのよ』


先程追われていた嫦娥の声であった。


『しかし…目を覚ましたらまた元帥が…そんなに若さを保ちたいものです?』


『そりゃあそうよ!それにしてもさっきの花の仙女は何?注目を浴びる私の邪魔をするなど…あれは確か仙子の弟子だったわ』


『あれは困っていた嫦娥様を救おうとされたのでは?』 


『あんなのうまくまけたわよ。あの花の娘…余計な事を…最近仙子の振る舞いは目に余る…前回仙女達を舞わせて皆を喜ばせおった。私より目立つ事は許さぬ…そうだ。良い事を思いついた…』


嫉妬に駆られた嫦娥と付き人の話を耳にし不安が襲う紅露はその場を離れすぐに仙子の元へ戻る。


『紅!遅かったわね!仙子様の命は何だったの?』


『ああ、それはもう終わったんだけど…ねえ玉寿、仙子様は?』 


『それが姿が見えなくて…お付きの麻姑様とお出かけしたようよ?』


『え?でも今から宴が始まるのでは?こんな時にどこに…』


『分からないのよ…私達もみんな探しているのだけど』


『そんな…って…え?あれは仙子様では…』


宴の席に師である仙子と付き人の麻姑が見えた。安堵し近付こうとした瞬間仙子は立ち上がった。


『皆様、今宵はまず私から…西王母様の誕生日を祝って百花を一瞬にて咲かせて見せます』


そう言って両の手を上げ緩やかに腕をくねらせる。紅はその禍々しさに見覚えがあった。


『んな!それは仙界ではご法度では…あ、ま、待ってください!仙子様ではない!皆!』


紅露の制止も聞かず全ての花々は咲き乱れた。


『ああっ…仙子様…』


その場で紅露は泣き崩れた。

秩序を乱した罪で仙子以下弟子の99人の仙女達は仙界を追われた。


『あの時の……』


翠香は眉を顰める。


『姉上達が人間界に追放されたのも…あの女仙によるものだったんだ…』


『だから紅はずっと責任を感じていたのね…ようやくわかったわ』


皆は何も知らされず下界へ追放されたのだった。

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