第5話 闇への入口
その夜。夜と言っても飽くまでカ・シィーツォ内で夜と設定された時間帯であるが、エマはまんじりともせず書籍に目を落としていた。もちろん、印刷された原始的なものではなく、電子端末に表示されるものだ。これが一台あれば、図書館並みの蔵書を持ち歩くのと同義だった。内容は怪奇を題材にしたフィクションの物語で、娯楽を目的としたものだ。
目で活字を追ってはいるが、中身が頭に入ってこない。理由はミィーティングルームで起こった意見の対立だろうと分析した。
エマは調査敢行に賛成した1人だった。ビーズが言っていた「カ・シィーツォには全世界が注目している」という発言は、決して大げさではないと思っている。
べつに歴史に名を残す云々に強い興味はなかったが、これで実績を上げれば居心地の悪い環境から逃れられると考えたのだ。
エマの両親は彼女を溺愛していた。そして寄せる期待は過剰と言えるものだった。エマは両親の期待に応えるべく努力を惜しまなかった。その甲斐あって、学校での成績は常にトップクラスだった。しかし、どれほどの愛情を注がれそうと、人一倍努力しようと、己の限界を知る時が来る。
大学へ進学した途端に、彼女の成績は人並みに落ち込んだ。優秀であることに変わりはないのだが、周囲には彼女以上の秀才や天才がいくらでも存在したのだ。学業で華々しい成果を上げられなくなったエマは、生活からも色彩を奪われることになる。
それまで手放しで褒めていた両親はあからさまに不機嫌になり、当たりがきつくなった。彼女を取り巻いていた友人も1人2人と遠のいていき、彼女たちが欲したのはエマとの友情ではなく、彼女から引き出せる知識だと知った。
生来から人に弱みを見せるのを避ける性格だ。それゆえ、言い方がきつくなる時があることも自覚していた。いつしか周囲の人々の視線が疎ましくなり、エマは自分を高めるためではなく、孤独を得るために知識の吸収に貪欲になった。
数ある教科の中から医学を選んだのにも、大した理由はない。医療技術を身に付ければ、どこに行っても1人でも生きていけると思った。そして、カ・シィーツォに乗り込んだのにも高い志があったわけではない。調査船に乗って宇宙に飛び出せば、気に入らない俗世間から遠ざかれると思ったからだ。だが、彼女自身、自分の意思の硬さを分かっていなかった。それなりに厳しい訓練に耐えたくらいだ。後ろ向きな動機であっても、強靱な精神力は生きていくうえで大きな武器になる。
それにしても、と回想を進める。なぜ私は重力子発生装置の点検をビーズに伝えようと思ったのだろう。べつにイェルンだって良かったし、アディだっていた。自分から名乗り出る必要などなかったはずだ。
「……………」
両親からの期待に押し潰され、周囲の目ばかりを気にしてきた自分は、まるで人形だ。ビーズの、ややもすれば自己中心と評せるほどの振る舞いが羨ましく、それゆえ、彼に惹かれるのだろうか。
そこまで考えて、慌てて考えを否定した。私がビーズに惹かれてる? 冗談じゃない。誰があんな粗暴者なんかに。
「馬鹿みたい」
呟きと共にくだらない考えを体外に吐き出した。それよりも、この旅で得るべき結果だ。イズミールの調査を無事成功させて凱旋すれば、愛情を取り違えている両親を、自分から去っていった上辺だけの友人を、見返すことができる。なんとかイーガルの決定を覆す方法はないものか……。
そんな宇宙の闇にも匹敵する黒々とした妄想を抱き、エマはページを捲った。しかし、一行も読み終わらないのに、訪問を告げるインターホンが鳴った。
黒いインクの上からさらに濃いインクをぶちまけられたような濃厚過ぎる漆黒に支配され、思わず枕を投げつけたくなった。だが、元々集中できていなかった読書を邪魔されただけだと思い直した。肺の中の空気をすべて吐き捨てて、通話ボタンを押した。
モニターにはサマトが所在なさげに立っていた。彼が訪問してくるのは初めてだったので、意外に思いながら彼に話し掛けた。もちろん、扉を開けることなくモニター越しにだ。
「なに。あんたが来るなんて珍しいね」
「悪いね。休んでるところ」
「いいから、早く要件を話して」
「ギャレーにウェモスが出てさ。毒餌ってなかったっけ?」
ウェモスとは掌サイズの小動物だ。カ・シィーツォが飛び立つ前に紛れ込んだのだろう。出発前にどれだけ船内をチェックしようと、わずかな隙間から入り込んでしまう。愛玩用として飼っている者もいるが、野生のウェモスは不衛生で病原菌を運ぶ害獣として迷惑がられている。調理師であるサマトからすれば、一刻も早く駆除したいところだろう。それが分かっていながら、エマはわざと恍けた。
「なんで私に訊くの?」
「あれって猛毒だろ。エマが管理してるんじゃなかったっけ」
船医であるエマが動物用の毒餌を管理するのは些か奇妙な役割分担だが、人数が少ないだけに、文句を言わずに協力しなくてはならない。あまり重要視していなかったので、保管場所をすぐには思い出せなかった。人に使うわけではないので、メディカルセンターではなかったはずだ。
「たしか、倉庫にあったと思うけど……」
「ちょっと持ってきてもらえないかな」
「今から?」
「駄目?」
「明日にしてよ。もう寝るところだったんだから」
嘘だった。まだプライベートを楽しむ時間はあり、消灯時間前にベッドに入るなど彼女は考えない。単に面倒なだけだ。
「そんなこと言わないでさ。今、新作を作ってる途中なんだ。完成したらまっさきにエマに試食させてあげる。絶品になる自信があるんだ」
「武器庫にエプセッターとアジェントが置いてあるでしょ。それで対処しなさい」
「それって捕獲用ネットと発射式のスタンガンだよ。ウェモス相手には大げさ過ぎない?」
「だったら、今夜はもうやめて続きは明日になさい。とにかく私はもう寝るの」
「……分かったよ。じゃあ、明日にはちゃんと用意しといてよ」
「了解」
サマトはやや不機嫌になって、モニターから消えた。彼が立ち去ったのを確認してから、再び書籍を開いた。しかし、続きを読む気はもう失せていた。
時計の針が22時を指すと、自動的に船内の照明が暗くなった。
常に闇を進んでいる宇宙では、どうしても時間の感覚が麻痺してしまう。1日の経過を見失わないために、7時には明るくし22時には暗くなるように設定してある。もちろそれは、カ・シィーツォ内のみで通用する時間設定だ。
プライベートな時間は各々が自由に使ってもいいが、暗くなってからは素直に就寝する。航行に必要な処理の殆どをクリュモエントゥに任せているからこそ、可能な生活サイクルだ。
数分後には、イェルンは闇の中にいた。室内のという意味ではなく、精神面という意味の闇、誰もが安らかに得たいと思う闇だ。彼は楽天的なところがあり、多少の悩みが生じた時でも食欲が落ちたり眠れなくなることなど滅多になかった。だから、この日も熟睡していた。
心地好い眠りを妨げたのは、けたたましい警報だった。
夢の中の出来事なのかなどと寝ぼけたりはしない。どんなに深い睡眠に入っていようとも、警報を聞けば細胞レベルで体が反応する。伴って意識も覚醒し、即座に行動を起こせる。そのように訓練されているし、気持ちをざわつかせる警報は、より動作を素早くさせた。
イェルンは部屋から飛び出し、ブリッジに急いだ。
途中でアディと合流した。薄暗い中でもやや青ざめているのが分かった。
「なにがあった?」
「分からない。私も警報で目が覚めて……」
しっかり受け答えしているが、滲み出る焦燥は隠しきれない。きっと自分も同様なのだろうと思った。
「早くブリッジに行こう」
「ええ」
さらに進むと、イーガルの後ろ姿があった。
「イーガルッ!」
イーガルはイェルンたちを一瞥すると「急げっ」とだけ怒鳴り、2人を待つことなく先へ進んだ。
ブリッジに転がり込むと、すでに何人かが集まっていた。リジェやビーズが、慌ただしく計器をチェックしている。
「どうしたっ?」
「分からねえ。なにかが接近してるようだ」
ビーズの答えにもなっていない返答に、イーガルは眉間にシワを寄せた。
「デブリか? ばかな。航路を計算した時には、クリュモエントゥはそんな警告出さなかったぞ」
「それが妙なんだ。座標が違う。航路からズレてる?」
「なんだって?」
耳障りな警報よりも、リジェの言葉に悪寒が走った。イーガルは背中に鳥肌が立つのを自覚した。
「イーガルに言われて帰路に就くコースに修正しただろ。でも、これじゃ方向が全然違う」
イェルンは、リジェの肩越しに計器を確認した。たしかに修正し直した航路とは異なるコースを進んでいる。
「いったい、なんだこれは?」
一瞬だけ茫然としたが、イェルンは次の瞬間にはリジェに指示を出していた。
「リジェッ。進路を改めて修正するんだっ! このままじゃどこに行くか分からないぞっ!」
「分かった!」
二人が文字の並んだデバイスを操作すると、スクリーンに複雑な数式や単語の羅列が表示された。
「なんだこれっ? ロックが施されているっ?」
「そんな馬鹿な?」
イェルンとリジェが奮闘している間に残りの者が集まり、クルー全員がブリッジに集合した。あまりの非日常的な出来事に、ブリッジはあっという間に慌ただしくなる。止まらない警報と相まって、気持ちが掻き毟られる。とにかく警報を止めたかった。飛び交う言葉を鎮静させ、落ち着きたかった。
イェルンの望みを無視して、最初に悲鳴を上げたのはエマだった。
「なにあれっ⁉」
その視線はフロントウインドに向けられていた。
いくつもの金属の塊が近づいており、すでに肉眼でも認識できるほどに近かった。
「だめだっ。間に合わないっ」
「マニュアルに切り替えるっ!」
イェルンの悲鳴が混ざった声に続き、イーガルも全員に向けて怒鳴った。
「みんなっ!
イーガルから指示を出されるまでもなく、全員が胸元にあるタッチセンサーに指先を押し付けた。
瞬時に宇宙服が展開され、全身を包み込んだ。テクノロジーの進歩により可能となった装置で、宇宙船に乗り込む者には必須のアイテムだ。宇宙空間に放り出されても、スーツを着ていればしばらくの間は生命活動を維持できる。
宇宙ではわずかな油断が命取りになる。普段は意識していなくても、不測に事態には命を守るべく体が勝手に動くように沁み込んでいる。これも厳しい訓練の成果だ。
イェルンが必死の形相で操縦桿を傾けるが、漂流物はもう目前まで迫っていた。
「だめっ! ぶつかるっ⁉」
「うわあああっ!」
「いやあぁぁぁっ‼」
ブリッジに悲鳴が混ざり合う。
「まっがっれぇぇっ‼」
イェルンは操縦桿が折れそうなくらい、目一杯傾けた。
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