第1話 はじまり

 流れる。

 光が流れる。

 漆黒が流れる。

 頑強な岩が、凍てつく氷塊が、荒れ狂う焔が流れていく。

 宇宙の広大さは想像を絶する。人が行動できる範囲など、この宇宙の百兆分の一にも及ばないのだ。そう思うと、溜息一つ分の虚しさが込み上げてくる。そして、宇宙を相手に何様のつもりなのかと、慌てて溜息を吸い込もうとする自分がいる。

 リジュ・ナシップは、ブリッジに設置されているいくつもの計器と、眼前に広がる星々の海を交互に見つめていた。超近代的な設備と原初の世界を同時に見ていると、自分という存在があやふやになり溶けて四散する感覚に囚われる。飛んでいきそうになる精神を落ち着かせるために、一際大きな深呼吸をした。


「ふう~……」


 灰色の髪をかきあげながら、視野に入るだけでも数えきれないほどの星の瞬きに、なぜ、一つもぶつからないで航行できるのだろうと子供じみたことを考えた。1人で口元を歪ませ、急いで真顔に戻る。

 長い時間を1人で過ごしていると、どうにもいけない。あと数刻も経てば意識が別の空間まで飛んでいき独り言を始めてしまいそうだし、もしそんなところをクルーの誰かに見られでもしたら、バツが悪いことこの上ない。

 リジュは、調査船『カ・シィーツォ』の航法士を務めている。カ・シィーツォは、航行はもちろん、船内外の操縦、操作のほとんどがコンピューター任せの最新鋭の宇宙船だ。船内に積まれたコンピューター『クリュモエントゥ』が、それを可能としている。

 クリュモエントゥは従来のコンピューター同様、設定されたプログラムに忠実に従うと共に、自ら学習し推測をすることによって独自で判断する、いわば人工的な知能を有する一面も持ち合わせている。クリュモエントゥの活躍によって、長い宇宙の旅も快適に過ごせるように工夫され、極力、労働で手を煩わせない恩恵を受けることができている。

 そんな至れり尽くせりのカ・シィーツォだが、今日に限って奇妙な胸騒ぎがした。立場上の責任から、起きてからほとんどの時間を航行計器とのにらめっこに費やしていた。

 どんなに機械やコンピューターが進歩しようが、絶対に超えられない一線というものがある。人の持つ勘なんかもその一つだ。精密機器の塊であるクリュモエントゥだろうが、勘が告げることはない。非科学的だと笑われようが、今朝から感じるこの落ち着かなさは、なにかの前触れと思わずにはいられなかった。

 航法士のプライドにかけてコンピューターには全幅は任せられないと息まいたが、些か疲れが出てきた。スクリーンの右下に表示されている時計で時刻を確認すると、もう午後2時に相当する時間だった。どうりで集中力が途切れるはずだ。


「んん~……」


 思い切り背伸びをして、背もたれに体重を掛ける。シート全体がゆっくりと倒れ、リジュを受け止めた。こめかみを指で押して、軽く刺激を与える。再び目を開き、天井をぼんやりを眺めた。船内は、クルーにストレスを与えないために内装にも工夫は凝らされているのだが、このブリッジは無機質に統一されている。いざという時には司令塔となるブリッジには、余計な装飾はいらないというわけだ。

 体の力を抜くと、長時間の監視で凝りが蓄積されているのが分かる。航法士はもう一人いるのだが、確たる根拠もないただの勘を理由に代わってもらうわけにはいかなかった。適当な理由の一つもでっち上げて交代を願い出れば嫌とは言わない奴なのだが、後ろめたさがそれを良しとしなかった。つくづく、融通の利かない自分の性格が嫌になる。


「はあ~」


 もう一度、大きな深呼吸をした。

 静かだった。ただひたすらに静かだった。変わり映えのしない景色に静寂な室内。出発してからすでに5年近くが経過しているが、実はまったく前進していないのではないかと錯覚してしまう。輪のように同じ空間を延々と回り続けているのではないかと。


「………………」


 流れる景色に倦んだ頃、喉の渇きを覚えた。空腹も感じて、昼食を摂っていないことに今更ながら気づいた。そういえば、さっき声を掛けられたが「後でいいと」返事をしたのだ。

 食堂から飲み物でも持ってこようかと腰を浮かしかけた時、リジュは視野の端に気になる光を捉えた。

 どくんと鼓動が大きく跳ねた。フロントガラスにぶつからんばかりの勢いで、顔を近づける。今、自分の目が捉えたものはなんなのかと、目を見開いて眼前の空間を凝視した。

 どこだ……。今、確かに見えた。どこだった……?

 そして、リジュの目は、ついに一点の光を見つけた。


「あれは……」


 その星は一目で特別だと分かった。他の惑星とは明らかに違う輝きを放ち、見る者の心の奥深くまで染み込んでくる。他に類を見ない鮮やかな柔らかさは、それだけで希望を生み出した。興奮のあまり、両手をフロントガラスに押し付けた。

 あれは、あれは……間違いない。あれこそは……。

 あまりの神々しさに、自分の立場も、呼吸をすることさえ忘れた。しばし茫然と眺めていたリジュは、やっと我に返った。航法士としてあるまじき失態を意識もせず、慌ててクリュモエントゥにアクセスした。



 火照った体のまま通路を歩いていたイェルン・ロッカーは、もう少し冷風に当たってくれば良かったと後悔していた。ジムで汗を流してからシャワーを浴びたばかりだった。船内の空調は丁度よく設定されているが、運動したり風呂に浸かった後では物足りなく感じる。

 なにか冷たいもんでも飲もうかとリビングルームのドアを開いた時だ。


「なにしてんだっ! 気をつけろっ!」


 怒声の迸りに、イェルンの肩が跳ねた。あまりにも過剰に反応してしまったので恥ずかしさが込み上げてきた。気持ちが無防備状態のところにいきなり耳に飛び込んできたので、よけいに驚いたのだと自分を納得させて汗顔をごまかした。

 リビングルームの奥、声がした方に視線を投げると、ビーズ・ザジスがアディ・ミルティーに向かって怒鳴りつけていた。ビーズの唾を飛ばさん勢いに、アディは身を縮こませて俯いてしまっている。元々がおとなしく気の弱い性格の少女だ。ビーズの粗野な言い方は、嫌気を通り越して怖れさえ感じるだろう。


「やれやれ……まったくあいつは……」


 相手の気持ちを察して、態度や言葉遣いを軟化させる器用さを持ち合わせていないビーズには、乗組員の全員が辟易していた。粗にして野だが卑にあらずという表現があるものの、それは許容できる範囲でこそ言えることだ。

 イェルンは不機嫌な表情を隠そうともせず、2人に近づいた。このまま放置したら不快な空気が船内に充満してしまう。閉鎖された空間での対人ストレスは考えている以上に深刻な状況を招く。大げさではなく、命を危険にさらすほどの事態に発展しかねない。それになによりアディが可愛そうだった。青ざめている彼女の顔は、助けずにはいられない哀れさを誘う。


「おい、いい加減にしろ」


 横槍を入れられたビーズは、怒りに燃えた目をイェルンに向けた。彼の瞳は暗いブラウンで、クルーの中では珍しい。ほとんど黒に近い目で見据えられると、まるで鋭い槍を突き付けられたような気分になる。

 しかし、ここで怯んでは付け上がらせる原因となる。仕掛けた以上は弱気を振り払って対峙しなければならない。動物の調教と同じだ要領だ。それができなければ、初めから首を突っ込んではいけない。イェルンも負けじと目に力を入れ、ビーズを睨んだ。


「いったい、なにが原因だ?」

「これを見ろっ。この馬鹿が俺のシャツを汚しやがったっ」


 彼は袖を摘んでイェルンに見せつけた。たしかに、黒い小さな点が付けられている。直径が小指の先より小さな点だ。


「ごめんなさい。芯を出した途端に、インクが飛び出て……」


 アディの手には、ペンが握られていた。今は芯が引っ込んでいる。なにを書くつもりだったのか分からないが、今時インクが出るペンを使うこと自体が珍しい。加えて、アディが持っているペンそのものも、いつ製造された物か分からないくらい古かった。

 そんなくだらないことで……。

 イェルンには、そんな些細なことでここまで怒るビーズの心理が理解できなかった。他人と行動を共にしている以上、ちょっとした拍子にさざ波が発生するなんてよくあることだ。それをビーズは腕を突っ込んで掻き回し、時化にしてしまっている。

 何度か感じたことだが、彼は常になにかに苛ついている。絶対に他人に弱みを見せまいと気を張っている節がある。その様は臆病な猛獣が牙を剥き出しにして威嚇する様を連想させた。ひょっとしたら、ビーズはなにかに対して怯えているのか。きっとそうなのだろう。周囲に敵となるものがいないのに、吠える獣などいない。


「そんなもん、洗えば済むことだろ。アディだってわざとやったわけじゃないんだから、いちいち怒鳴るな。器が小さいぞ」

「なんだと?」

「なんだ? 図星を突かれて頭にきたか?」

「てめえっ!」


 怒りの矛先がアディからイェルンに移った。イェルンは緊張したが、態度には出さなかった。四肢は逆に力を抜いて猫背になった。いつ飛び掛かられても対処できるように、悟られるギリギリのところで小さく構えたのだ。

 向かい合う2人の間の空気が密度を増したようにぴんと張った。同じように、アディが表情も体も強張らせている。自分が原因を作ってしまったと考えているのだと伝わってきた。

 ビーズが一歩イェルンに近づいた。イェルンは、顎を引いて背中を丸めた。


「おまえらっ、なにやってるっ!」


 怒りは含まないが、ビーズよりもよほど迫力がある重たい叱責が室内に響き渡った。

 イェルンもビーズも、揃って動きを止めた。アディに至っては、亀のように首を縮めている。

 扉の前でイーガル・ギーグが仁王立ちして、3人を睨みつけていた。

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