宇宙の片隅にて

雪方麻耶

プロローグ

 人類がその活動範囲を宇宙にまで広げてから、既に半世紀が過ぎようとしていた。初めは手探り状態で失策とさえ囁かれた宇宙への進出は、ある時期を境に瞬く間に軌道に乗った。その進歩の目覚ましさは凄まじかった。自転車の練習で転んでばかりだった子供が、なにかのきっかけでコツを掴んだ途端に上達するのに似ていた。

 数年を経ずして、宇宙進出時代は宇宙活動時代へ突入した。革新的な変貌は人々に多大な恩恵をもたらした。これまで精製不可能だった薬品が開発されたり小惑星から資源を発掘したりと、生活レベルの底上げを可能とした。豊かな恩恵を維持するためには人材の確保が必須で、それはすなわち、安定した収入が得られる仕事にありつけるチャンスが増えたことを意味していた。

 仕事の場を地上から宇宙に変える者は年々増え続けた。特別な技術がなくても引く手数多だったし、地上勤務より報酬が良かったからだ。歳月が流れるにつれ、地上での仕事など経験せずいきなり宇宙に飛び出す者が徐々に増加していった。もはや地上と宇宙の区別が曖昧になるほどに、人類は宇宙を自由に行き来できるようになっていた。人類は生活範囲を広げる大きな賭けに勝ったのだ。

 無重力で酸素がない。そんな危険な環境であることも忘れ去られるくらいになると、ますます宇宙での生活に抵抗がなくなり、多くの若者が仕事や夢を求めて宇宙に旅立っていった。ウィズ・ストアローもそんな野心を抱く若者の一人だった。

 ウィズは希望に目を輝かせる純粋な若者だった。金銭よりも宇宙という環境に惹かれて重力から抜け出した一人だった。とにかく宇宙で生活したい。湧き出る情熱で過酷な環境さえ苦にはならなかった。無重力での活動はどれだけ経験を重ねても飽きなかったし、仕事の合間や終了時に見る星々は美しかった。


「僕みたいな平凡な男でも宇宙で働けるなんて、良い時代になったよな」


 一昔前は宇宙に出るだけでも厳しい選定があり、さらに何ヶ月も何年も掛けて訓練をしなければならなかったと聞く。しかも過酷な訓練をクリアし宇宙飛行士になれたとしても、宇宙ステーションに滞在できるのはたかが数年だったらしい。今という時代に生まれただけでも、自分は幸運だと思わずにはいられなかった。

 彼が就いた仕事は、資材をスペースステーションまで届ける貨物船内での作業だった。綺麗なオフィスが用意されているわけでもないし、無重力と言えども体力は相当に消耗する仕事だ。一緒に働く連中も粗野で上品とは言い難い者が多い。それでも彼にとっては不満になるものなどなにもなかった。とにかく、星々の世界で暮らせることこそが、彼にとっての至福だったのだ。

 僕は人生のほとんどを宇宙で過ごすんだろうな……。

 そんなことを考えながら、大変ながらも充実した毎日を送っていた。



 ウィズが宇宙で働き始めてから6年が経過した。決して短いとは言えない期間を宇宙で過ごしても、彼の情熱は冷めることはなかった。その熱心な働きぶりが評価されて、上司からは昇進試験を受けないかと勧められているが、社会的地位や立場に固執する性格ではないので、のらりくらりと返事を先送りにしている。

 午前中にちょっとしたトラブルがあったもののスケジュールに支障はなく、その日も無事に1日が終わろうとしていた。


「お疲れ。少し残業しただけで済んだな」


 同僚が肩に手を置く。ロズバック・ネイジという名で、この貨物船で働き始めて以来の仲だ。彼はウィズと違って宇宙での生活よりも金銭の魅力に惹かれた方だが、不思議とウマが合った。仕事でバディを組むことが多かったし、休憩時に他愛のない会話に興じたり、休日に一緒に出掛けることもあった。


「もう少し時間が掛かると思ってたけどな。僕の手際が良かったんだよ」


 ロズバック相手だと、こういうジョークが自然と出てくる。思った通り、ロズバックは歯を見せて笑った。


「俺たちも、もう5年目だもんな。そりゃ仕事にも慣れるよ」

「6年目。最初は無重力の中でろくに動けなかったなんて、信じられないよ」

「おお。俺なんて下手したら、船から離れて戻れなくなってたかも知れないぜ」

「研修が終わってすぐのあの時だろ。あれは危なかった」


 2人揃って、肩を揺すらせて笑った。行動を共にしている時間が長いだけに、共通の思い出も多い。

 ひとしきり笑ってから、ロズバックは肩から手を離した。


「後は任せていいか?」

「ああ。ここを閉じたら僕も上がらせてもらう」

「悪いな。今度の休みに飯でも食いに行くか?」

「良いな」


 ロズバックは、ウィズの背中を叩いて引き上げた。

 ロズバックの背中を見送りつつ、資材搬入口を閉じようと開閉ボタンに指を伸ばした。今日も1日よく働いた。帰ったら熱いシャワーを浴びてキンキンに冷えたアルコールでも入れるかな、などと考えていた。


「ん?」


 視界の端になにかを捉えたと思ったら、それな徐々に大きくなっていった。なにやら薄い箱のようなものが漂い近づいてきている。資材の一部かと思ったが、搬入はとっくに終わっているし、漂ってきた方向も妙だ。目を凝らして見ると、今まで見たことのない物だと気づき、警戒心が呼び起こされた。

 まるで引力で導かれるかのように、ウィズに向かってまっすぐ飛来してくる。

 とうとう目の前まで近づいた漂流物を、警戒しているにも関わらず両手でしっかり受け止めた。理由は説明できないが、そうしなければならないと思った。


「なんだこれは?」


 真っ先に頭に浮かんだのは、その疑問だった。

 観察すると、それはケースだと分かった。ロックが掛かっているが複雑ではなく、すぐに開けることができた。そのことから、ケースに入れたのは保護のためであって、中身を秘密にするためではないと分かった。

 得体の知れない漂流物を拾い、どうするべきか迷いが生じた。本来ならば上司に報告をしなければならないところだ。しかし、強い好奇心が迷いを駆逐し、ウィズはケースの中身を取り出した。

 出てきたのは薄い円盤だった。これも見たことのない物だった。物体そのものにも驚いたが、もっと驚いたのは、円盤の表面に加工が施されていたことだ。単純なイラストと複雑なパターンが刻まれており、直感的に文字ではないかと思った。しかし、同時にそれは間違いではないかという考えも生じた。あまりにも複雑すぎて、世界中のどの国の文字にも当てはまらないように思えたからだ。加えて、イラストの方も不思議だった。生き物のようだが、こんな姿をした生き物はウィズの記憶にはなかった。

 改めてパターンを一行ずつ指先でなぞった。


「……これって、やっぱり文字…だよな?」


 見たことのない物体に、見たことのない文字。そして見たことのない生き物のイラスト。いきなり飛び込んできた非日常に、下戸が酒を飲んだみたいに鼓動が速くなり息苦しくなった。だが感じた苦しみは、喜びを伴ったものだった。

 平凡ながらも幸せを感じていた自分に、とんでもないことが起こり始めたのだ。これからの人生に大きな変化が生じるのだという予感めいたものを噛みしめた。昇進なんかとは比較にならない大きな変化だ。

 漂流物が飛来してきた方向を見つめた。

 ウィズの視線の先には無限の空間と無数の星が広がっており、昂ぶった気持ちが吸い込まれていく感覚が全身を駆け巡った。

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