第三章
第12話
「ねぇ、一旦成宮くんが一人で先に行ってよ」
「はぁ? なんでそうなる」
「成宮くん、あの子と知り合いなんでしょ?」
「それはそうだけど、別に俺一人で行く必要ないだろ」
「アスカさん少し遅れるって言ってるし、わたしたちが二人で行ったらあの子孤立しちゃうじゃん」
「そこは、同性の真姫が上手く話を振ればいいだろ」
「そんな器用なことできないよ。いいから、アスカさんが来たらわたしも行くから、それまで二人で話しといて」
「うぇ~。マジで?」
「マジマジ。早く行ってきて」
あれから一日を挟んで、今日は日曜日。
雲一つない快晴の青空が清々しい昼前の時間帯。俺と真姫は私服姿で、駅前の待ち合わせ場所となっている広場で立っている清楚な服装の女の子を、陰から覗き見ていた。
真姫にちょいと肩を押されたので、俺はサングラスを外し、両手でぺちんと頬を叩く。そして、まるで何でもないように物陰から出て、その女の子に近づいた。
雑踏の中から近づいてくる俺の姿に気付いた女の子は、一瞬驚いたような顔をして、しかしすぐに破顔して、大げさなほど激しく手を振った。
「よ、よぉ。久しぶりだなぁ」
「成宮くん久しぶり! 元気してた?」
その、俺と同じ高校に通う同級生の女の子、澪田さくらは、快活にそう言って俺に笑いかけた。
「ま、まあな。元気は元気だったよ。うん、健康そのものって感じで」
二日前に腹に大穴が空いたりしたけれど。
「そうだよね、成宮くん元気だよね。成宮くんにも、彼女さんいるんだもんね」
「……ああ、まあな」
無論、俺に彼女がいるはずもない。今日はそういう設定なのだ。俺は澪田に嘘を吐いている。
「でも、ちょっと意外だったかも。成宮くんが一年生の頃から同級生の女の子と付き合っていたなんて」
「俺だって意外だったよ。澪田が大学生の男と付き合っていたなんて」
澪田は少し腰を曲げて、「えー意外だったの~?」と照れたように笑う。控えめな甘い香水の匂いを振りまきながら。
服装にしても、髪型にしても、その香水にしても。
口調にしても表情にしても声質にしても仕草にしても。一つ一つの所作全てが。
全く彼女らしくなかった。
俺の知っている澪田は、こんな女の子ではなかった。
澪田はもっと地味で、根暗で、自分に自信がなくて、いつも目を伏せがちな、そういう女の子だったはずだ。
少なくとも俺の認識では、そうだった。
俺と澪田が最初に会話をしたのは、一年生の秋だった。その頃には文化祭と体育祭を経てクラスの男女間の隔たりもだいぶ緩んできていたが、しかし俺は相変わらずそれらしい女友達を作れずにいた。そもそも男の友達だってほとんどいなかったのだから、異性にまで食指を動かせるはずもない。
その頃、澪田は俺の隣の席に座って授業を受けていた。澪田も、俺よりは多くの同性の友達がいるようだったが、男子と喋っているところは見たことがなかった。澪田も俺と同じく友達が少ないタイプだった。俺も特に澪田に興味を持つこともなく、授業風景の端に映るただの女子クラスメイト、という認識しかなかった。
「写真のモデルをしてほしいんだ、よ、です」
授業が終わってホームルームも終わった後で、荷物をまとめて立ち上がろうとした俺の服の袖が引っ張られた。振り向くと、俺よりもかなり身長の小さい澪田が目を伏せて、学ランの袖を弱弱しく摘まんでいた。
「あ? モデルぅ?」
俺が顔を顰めると、澪田は若干頬を紅潮させて、少し後ずさって距離を取った。澪田は自分の頬を片手で撫でながら、目を逸らしつつ誤魔化すように笑う。
「わた、わたし、写真部でさ、えと、写真撮るの、好きでさ。その、だから」
「だから?」
「だから、成宮くんを、撮らせてほしい、の。だ、だめ?」
どうして俺なんだよ、と喉から出そうになるのをぐっと堪えた。これ以上俺が難色を示すと、澪田の頭は血が上りすぎて爆発してしまうのではないかと思った。それほどに澪田の頭は沸騰していた。澪田のそのたどたどしい頼みを聞いて、俺は断れなかった。
俺は澪田に三階の空中廊下に連れていかれた。と言っても、校舎内から人が出払うまで待ってほしいと言われ、俺たちはしばらく教室に留まっていた。
澪田は椅子に座って、両手を使って人差し指でスマホを操作していた。明らかに肩が強張っている。
「なんで俺を撮りたいんだ?」
澪田の頬の赤みがだんだん薄れてきた頃を見計らって、俺はそう声をかけた。すると澪田の肩がびくっと震え、正面を向いていた顔はゆっくりと、途中で下手な笑顔を形作りながら左隣の俺に向いた。
「え、えっと、正直に言っても、怒らない?」
「……まあ」
俺が怒るかもしれない理由なのか。
「……えと、なんか、成宮くんからは、焦りを感じない、というか」
「焦り?」
「その、普通の高校生は、いつも何かに焦っているように見えるの。高校生って、勉強とか、恋愛とか部活とか人間関係とか進路選択とか、生活の中に色々なものが詰まっているから、一度に処理しきれなくて焦っているんだと、思う。でも、成宮くんは何も焦っていないように見えて、いつもどっしり構えている、というか」
「…………あんまり自分じゃよくわからんけど」
それは、俺がそういう高校生活に蔓延る様々な問題に対して焦らず冷静に対処しているというわけではなく、俺の高校生活にはそういう問題がそもそも存在しないだけなのだと思う。だから俺には焦る要因がない。俺は大学に行く気がないから、まともに勉強に取り組んでいない。恋愛も、今のところは何も始まっていない。部活は帰宅部。人間関係も面倒だから最小限にしている。進路選択にしてもまだ一年生だからと後回しだ。
つまるところ、俺はただ無気力なだけなのだ。
無気力であることを、焦りがない、と澪田はオブラートに言い換えてくれているのだ。
「澪田は俺みたいな何のやる気も覇気もない若者をフィルムに収めたいわけだ」
「や、やる気がないとは言ってない、けど、まあ、そういうこと」
澪田は目を伏せて、消え入りそうな声で気まずそうに言った。
それから俺たちは空中廊下に行って、撮影を始めた。秋の時期で徐々に日が落ちるのが早まっており、その時にはすでに空は橙色に焼けていた。
校庭で活動する運動部の笛の音と掛け声と、吹奏楽部の下手な演奏が聞こえてきた。
澪田は四角く重そうな、結構本格的なカメラを鞄から取り出して、首にかけた。
「え、えと、そこで、ヤンキー座りしてほしいの」
「や、ヤンキー座り?」
「うんこ座り、のほうがわかりやすいかな?」
女子高生が軽々しくうんこなんて言うんじゃない。
俺が言われた通りの座り方をすると、澪田は目の色を変えて、カメラを覗き込んだ。
それから澪田は終始神妙な面持ちで、色んな角度から俺の写真を撮った。他にも様々なポーズを要求された。澪田は俺の想像よりも写真を撮ることに情熱的だった。
そしてその日を皮切りにして、俺は澪田を行動を共にすることが多くなった。どんな過程を経てそんな関係性になったのか詳細なことは覚えていない。気づけば俺の隣に澪田がいることが多くなっていた。
澪田は全く脈絡のないタイミングで不意にシャッターを切ることがあった。廊下を歩いているとき、バスの中、部屋の中。いつでもどこでも。
「成宮くんにはセピア色が似合うよ」
というのが澪田の口癖のようになっていた。俺を被写体にした写真は、どの瞬間を切り取った写真であっても、セピア色に編集したくなってしまうらしい。
「……褒めてないよな、それ」
「うん、褒めてないよ。成宮くんの人生はくすんだ色をしているんだ」
少しずつ、澪田から遠慮というものが取り除かれていった。本当に少しずつ、澪田は俺に対して建前を使う頻度を減らしていった。
俺と澪田はもはや、異性間の距離を保てていなかったかもしれない。
冬になると、俺は頻繁に澪田の家に行った。俺が家に来ても澪田は写真を撮った。俺の写真を見せられることもあった。本当に全てセピア色になっていた。どの写真もミルクコーヒーをこぼしたような薄い茶色になっていた。
俺と澪田は付き合っていなかった。付き合っていなかったが、付き合っている男女がするようなことを二人で行うこともあった。
そこに高校生らしい『告白』という段階がなかっただけで、実は俺と澪田は既に交際関係にあるのかもしれない、と俺は考えたこともあった。
澪田は俺と付き合っていたつもりは毛頭なかったのだろうが。
澪田が他の男と交際していた、という事実を知ったのは、俺が二年生に進級してすぐのことだった。
放課後に一人で廊下を歩いていたとき、ふと澪田の囁くような声が聞こえた。空耳かと思ったが、その後も連続して澪田の声が聞こえるので、俺は周囲を探し始めた。
そして、俺は見てしまった。そばにあった階段を上ったところにある踊り場で。
数学の教科担任の男と澪田がキスをしている姿を見てしまった。
澪田が、自分よりも十年以上年上の男と、舌を絡ませている光景を、目撃してしまった。
俺と澪田は、二年生に進級するタイミングでクラスが離れていた。選択科目の教室が同じになったりすることもないほど遠くクラスが離れていた。だから俺は、澪田の連絡先を削除するだけで良かった。
そのときから今日まで、俺は澪田と一言も会話をしていなかった。
「……成宮くん、やっぱり元気じゃない? 顔色悪いよ?」
久しぶりに澪田の顔を見た途端、廊下で見たあの光景がフラッシュバックして、それが顔に出てしまっていたらしい。
「……なんでもないよ、別に」
「そう?」
最初、写真を撮らせてほしいと言って弱弱しく俺の袖を掴んでいた澪田の面影は、今や少しも残っていない。いつから澪田があんな派手な女子に変わってしまったのか、正確なことはわからなかった。ひょっとすると最初から澪田は気弱な女の子を演じていただけなのかもしれない。もしかすれば、澪田は俺と関わったことで性格が変わってしまったのかもしれないとも考えられた。昨日までは。
俺にはもう、澪田がこうなってしまった理由は歴然とわかっている。
「ごめん、遅くなった」
そこで、澪田の今の恋人(何股目なのかは不明)であるアスカさんがやってきた。いかにも都会の大学生然とした清潔感のあるファッションだった。普段の俺が見れば『いけ好かねー、裏でDVやってるんだろうな』と心の内で愚痴るであろう出で立ちだ。
「もー、遅いよ魁斗く~ん」と言いながら、澪田は嬉しそうな笑顔でアスカさんの腕に巻き付いた。
俺は苦笑いすることしかできない。
「ごめ~ん、ちょっと寝坊しちゃったあ~!」
大げさなほど緩み切った声が聞こえて、後ろから真姫に抱き着かれた。俺は衝撃を殺しきれずに前に倒れそうになる。
「ちょ、お」
俺が狼狽えていると、真姫は素早く俺の横に並んで、俺の手の指の間に自分の指を挟み込んで、俺の手を強く握った。恋人繋ぎだ。動きに全く躊躇がない。
「澪田さん初めましてー! わたし、成宮くんとお付き合いさせてもらってる白川真姫です。よろしくね!」
やはり真姫は支部長なだけあって演技までプロ並みだ。
「わぁ、成宮くんの彼女さん、美人なんだね!」
「いやいや、それほどでもありますよ~」と真姫が俺を押しのけるように前に出て言う。
「自称美人なのか……」
「だってホントに美人なんだからしょうがないじゃ~ん?」
「ほら、もうすぐ映画の時間だから、早く行こう」
アスカさんがよく通る爽やかな声で言うと、真姫は「はーい!」と大きく手を挙げて俺の腕を引っ張り始める。明らかにテンションがおかしいが、それでもから回っているようには見えないから不思議だ。
澪田は若干気圧された様子で気まずそうに笑って、俺と真姫の前をアスカさんと腕を組んで並んで歩き始めた。俺と真姫は気づかれぬように徐々に歩くスピードを落として、二人から距離を取る。
「……ねぇ、成宮くん。今日は、ちゃんと仕事しないと、ね?」
真姫は俺の耳元に口を寄せて、艶っぽくそう囁いた。
そして、刃の部分に革のカバーが付いたサバイバルナイフを手渡してきた。
「これで直接刺してもいいし、自分を傷つけて血液を使ってもいいから」
「わかってるよ」
俺は真姫からサバイバルナイフを受け取った。
「アリスちゃんが負傷したことには、成宮くんにも少しは責任があるんだからね? 成宮くんは貴重な亜魔人なんだから、しっかりやってもらわないと困るの」
「……わかってるって」
あの後、アリスが俺との仕事の戦績を報告したあと、真姫はかなり苛立っていたらしい。いや、どうせアリスが「小さな女の子も刺し殺せないような軟弱者を部隊に入れてもいいんですかね~?」とか言って煽ったのだろうが。
「今日はちゃんと殺してね」
真姫は今日、俺と合流したときからずっとこの調子で俺にプレッシャーをかけてくる。時折殺処分の話をちらつかせながら。
「……やってやるよ。だから安心しとけ」
「よし!」と言って俺の背中を軽く叩いて、真姫は上機嫌に鼻歌を歌い始めた。俺はナイフをしまって、前方の澪田の背中を見据える。今澪田が振り返ったら俺と真姫が手を繋いでいないことに違和感を覚えるだろうかと思ったが、もう一度真姫の手を掴む勇気は俺にはない。
澪田がアスカさんに向かって楽しそうに笑いかけていた。その横顔を確認してから目を閉じて、深呼吸をする。
今日、俺は、澪田を殺しに来た。
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