第二章

第5話

 目を開けると、灰色の無機質なコンクリートの天井が視界を埋め尽くした。それは、あの中華料理屋の焦げっぽい天井ではなかった。


「あ、起きた」


 女の声がして、どこかに走っていく足音が聞こえた。ただの足音なのに、なぜかやけにその音が大きく聞こえた。


 重い頭を無理矢理持ち上げて、上体を起こす。天井だけでなく四方の壁も灰色のコンクリートになっていて、床は光沢のあるリノリウムになっている。この三畳ほどの窓もない狭い室内で、俺はパイプ型のベッドの上に横になって眠っていたらしい。


 ここはどこだ。


 近所の町医者の診察室がこんな間取りをしていた気がするが、ここは診療所なのか。なぜ俺は診療所に連れてこられたのだろう。


 ……ああ、昨夜死にかけたんだから、そりゃあ医者のところに連れていかれて当然か。


 ベッドの上でぼーっとコンクリートのシミの数を数えていると、今度は三人分の足音がこちらに近づいてきた。


 やはり、なぜかいつもより音が大きく聞こえる。


「おはよう、成宮くん。よく眠れた?」


 ブレザー制服姿の、今度はちゃんと黒髪の白川真姫と、黒いセーラー服姿の小柄な女の子と、黒いスーツを着た長身の男が部屋に入ってきた。セーラー服姿の少女以外の二人には見覚えがある。真姫に関しては言わずもがなだが、スーツの男は、あの、俺が初めて黒猫と出会った土手でソーセージを渡してきた男だった。


「なんで真姫がここにいるんだ」


「成宮くん、何か身体の感覚に変化はない?」


「え、身体の感覚?」


「全身が怠くて重くて一歩も動けないーとか、逆に全身が軽くてもりもり元気が湧いてくるーとか、そういうの。とにかく何でもいいんだけど、昨日までと何か違うところ、ないかな?」


「え、えー……、そうだな。なんか、耳が良くなった気がする」


「……ふむ、聴覚の発達ね……まぁ予想通りか」言いながら真姫は手元のクリップボードに何かを書き込む。その真姫の声はとても小さく、俺に聞こえないように言ったつもりなのだろうが、その声も俺には聞き取れていた。真姫が俺に対して話すときにはかなり声のトーンを上げていることがわかった。


「成宮くん、今から手鏡で自分の顔を確認してもらうね。ちょっと驚くかもしれないけど、成宮くんは何か病気になったわけではないから、あんまり取り乱さないでね」


 真姫は胸のポケットから小さな四角い鏡を取り出して、俺に差し出してくる。よくクラスの女子が化粧の手直しをするために使っているものだった。


 俺は鏡の蓋を取って、自分の顔が映るように目の前に掲げるようにする。


 鏡には、ただ、俺の寝起きの間抜けな顔が映っているだけだった。


「……えっと、確認したけど、顔」


「え、何か気づかない?」


 真姫が少し驚いて言うので、もう一度まじまじと自分の顔を観察する。よく見れば、なんとなくいつもより寝ぐせが酷いようだった。


「なんか寝ぐせがすごいな」


「それ、実は寝ぐせじゃないんだよね」


 真姫がそっと、俺の頭に手を伸ばす。


「……っ!」


 強烈な感触がして、慌てて俺は頭を引いた。真姫に髪を触られた瞬間、強い静電気が発生したようにピリッと刺激が走った。


 まるで、髪の毛に敏感な神経が通っているかのような。


「成宮くん、もう一度鏡をよく見て」


 俺は鏡を見ながら、自分の髪の毛を撫でる。


 何か、あからさま違和感が二つあった。


「今の成宮くんには、猫耳が生えているんだよ」


 三角の尖った耳が二つ、俺の頭から生えていた。


 俺がその耳を指で摘まむようにすると、耳は鳥の羽のようにばたばた震えた。


 本当に猫の耳、なのか。


 色が黒くて髪の色と被っているので、そこまで目立たないが。


「だから、今の成宮くんには耳が四つあることになるね。人間の耳と猫の耳の、合わせて四つ」


 確かに鏡には、俺が元来持って生まれてきた人間の耳も側頭部についている。


 耳が二つ増えたから、音がよく聞こえるようになったのだろうか。


「なんで俺に猫の耳が生えることになる?」


「それを解明するために、昨日の夜にあった出来事を全部洗いざらい私に話してくれないかな?」


 と言われたので、俺は真姫に、昨日の中華料理屋に向かった後の出来事を全て話した。無論、あの、真姫に顔がよく似た化け物に遭遇したことを中心に。真姫は俺の話を聞きながら逐一、手元のクリップボードに何かを走り書きしていた。


「黒猫はどうしたの?」


 多分俺はあの後、中華料理屋の床に伏して死んだはずだ、というところまで話すと、真姫は少し前のめりになって、黒猫以外の話はどうでもいいとばかりに訊いてきた。


「あの黒猫、出かけるときはいつも一緒だったんでしょ? 学校にも連れてきてたくらいだし」


「ああ、黒猫は、食った」


「は、く、食った?」さすがに真姫も面食らった様子だった。


「食ったよ。食わなきゃ死ぬって言われたから、食った」


「……あの黒猫を、食べたの? どうやって?」


「普通に、そのままかぶりついて」


「……本気で言ってるの? わたしが成宮くんを助け出したとき、あの中華料理屋には猫を食い荒らした残骸すらなかったんだよ。生きた猫をそのまま食べるなんて、切羽詰まった狼でもなかなかやらないんじゃ……」


 切羽詰まった狼よりも切羽詰まった人間のほうがよっぽど獰猛で生にしがみつこうとする力が強い、ということなのだろう。


「骨まで残さず全部綺麗に食ったからな。食い荒らした跡なんか残らないよ」


「……へぇ。…………ふうん。そんな方法もあるんだ……」


 真姫は思案するような神妙な顔でクリップボードにペンを走らせた後で顔を上げて、にっこりと俺に微笑んだ。


「成宮くん、昨日は何曜日だったか覚えているかな?」


「木曜日、だろ」


「つまり今日は何曜日?」


「金曜日、だな」


「そう、普通に平日だよね。そして現在時刻は午前七時です」真姫は俺にスマホのロック画面を見せる。待ち受け画像はどこかの海の写真だった。「今日は私と一緒に学校行こうか」


「……それより、早くここがどこなのか教えてくれ」


「学校からはそう遠くない場所だから安心して。今日だけは制服貸してあげるから、着替えたら部屋から出てきてね。それで顔を洗って歯を磨いて……、朝ごはんは外で食べようか」


 真姫は微笑みながらまくしたてるように言うと、「じゃ、よろしく」と言い残して部屋を出て行ってしまった。セーラー服姿の少女も慌てて真姫を追いかけるように出ていく。そして部屋の中は、長身の男と俺の二人きりになった。


「災難だったね、と言うべきなのかな」


 男は苦笑いを浮かべながら、どこか気まずそうに言った。


「キミが遭遇した、その血まみれの女の子は、あの黒猫が引き寄せたものだろうからね。しかしキミは同時に、あの黒猫のおかげで命が助かったわけだ」


「あんな黒猫は最初から拾わなければ良かったんですよ。最初から、素直にあなたに引き渡していれば」


「でも最終的にあの猫を飼おうと決めたのは、他ならぬキミだ。他の誰でもないキミが、あの黒猫と一緒にいることを選んだんだ。人生で起こる全ての出来事は、自分の選択の結果でしかないのかもしれない。偶然なんて、本当はないのかもしれないね」


「……俺のせい、ってことですか。全部、俺が招いた結果だと」


「そういう捉え方もあるってだけの話だよ。……そんなことよりさ、これ、僕の予言はほとんど当たっていることにならないかい?」


「よ、予言?」


「そう。僕はひとつキミに予言を残したはずだ」


 男は少し屈んで、俺の顔を覗き込むようにして、言った。


 状況に似合わず、楽しそうな笑みだった。


「キミと黒猫はこれから一生、死ぬまで一緒だからね」


 男はそう言った後で、堪えきれないといった様子で軽く吹き出した。


 何が面白いのか皆目わからない。


「キミ……えーっと、成宮くん、だっけ? 成宮くん、これからせいぜい頑張れよ。人間のキミは昨夜に死んでしまったんだ。今日からは生まれ変わったつもりで心機一転、繋いでもらった命を無駄にしないように生きてくれ」


 男は朗らかな笑顔でそう言って、部屋から出て行ってしまった。


 あらゆることをすんなり受け入れられるはずの俺だが、さすがにこの状況を一気に受け入れて全てを理解することはできなかった。


 今日くらいは学校をサボってもいいのではないかとも思う。


 俺は昨夜死んでしまった。


 目が覚めると、頭から猫耳が生えていた。


 どうやら俺は真姫に助け出されていたらしい。


 真姫はどうして死んだはずの俺を助けてくれたのか。どうしてというより、どうやって。


 全てがわからないままで。


 それでも、今から二度寝をしようという気は毛頭起こらなかった。

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