第6話
ベッドの脇に置いてあった制服に着替えて部屋を出ると、長い灰色の廊下に出た。さっきの部屋の中と同じく壁は灰色のコンクリートで床は水色のリノリウムで、この廊下にも窓がなく全体的に薄暗かった。あくびを噛み殺しながら、時折点滅している古そうな蛍光灯の下を進んでいると、俺が眠っていた部屋から二つ隣の扉から真姫が出てきた。今度は一人だった。
「あ、そこ、洗面所だから」
と、真姫は一つ隣の扉を指した。その扉には『男子トイレ』と雑な文字が書かれた張り紙が貼ってあったが、俺はそのまま扉に入った。
室内は高校の男子トイレと同じようなつくりになっていて、つまり暗く薄汚い印象が強かった。ここは比較的古い建物なのかもしれないと考えながら、俺は手前にある流し台で顔を洗う。顔面がびちゃびちゃな状態で水を止めた後で、タオルを持ってきていないことに気づいた。すると、視界の横から都合よく白いタオルが飛び出してきた。
真姫が、笑顔でタオルを差し出していた。
学校では滅多に笑顔を見せないくせに、今日はやたらと笑っている。
「はい、タオル。あと歯ブラシとワックスも持ってきた」
「お、おう。ありがと……」
なぜ女子である真姫が平然と男子トイレに入ってきているのだろうという困惑を抱えながらも、俺は受け取った歯ブラシに歯磨き粉をのせて口に運んだ。
俺がしゃこしゃこと歯を磨いている間も、真姫は笑顔を保ったまま隣に立っていた。少し不気味だった。
歯を磨いて口をゆすぎ終わった後、真姫は俺の肩を軽く叩いた。
「わたしが髪セットしてあげるよ。ほら、猫耳を目立たないようにしなきゃいけないでしょ?」
「あ、ああ。じゃあ、頼む」
真姫の手が俺の頭に届くように、少し腰を低める。真姫は手慣れた様子でワックスを手のひらにつけて、俺の髪の毛の間にその細い指を通していく。その女の子らしい細く冷たい指先が頭皮と接触するたびこそばゆい。真姫もつい先ほど、俺が目を覚ます少し前に朝の準備をしていたのか、柔軟剤の甘い匂いをより強く感じた。
「……うーん。こんな感じで良いかな。だいぶいつもと髪型変わっちゃったけど、こっちのほうがカッコいいからいいよね」
カッコいいかどうかは俺の目には微妙に映ったが、とりあえず猫耳は上手く隠せていたので及第点とする。ささっと手を動かしていたから経験があるのかと思っていたが、それほど慣れていたわけではないらしい。
真姫が最後の仕上げとばかりにわしゃわしゃ俺の髪をいじりながら、片手でそーっと、上から順番に俺のワイシャツのボタンを外していった。
「……な、何してんの?」
「ちょっと裸見ーせて」
「なんで」
「わたしが見たいから。ダメ?」
「……セクハラだろ」
「セクハラにならないように、ちゃんと許可を取ってるんだよ。ほら早く、裸見ていいよって言って?」
「……裸見ていいよ」
「わ~い。成宮くん気前良すぎ~」
真姫が棒読みでそう言っている間に、俺のワイシャツはあれよあれよと剝ぎ取られてしまった。目の前の鏡に、ぬぼーっとした上半身裸の不審な男と、その上半身を神妙にまじまじと観察する不審な女子高生が映っている。
「成宮くん、意外と筋肉質なんだね。これは元から?」
よく見れば確かに、俺の腹筋は本人の気づかぬうちに六つに割れていた。
「元からって?」
「昨日以前も、ここまで筋肉があったのかってこと」
昨日以前、俺に猫耳が生える前。俺に筋トレの習慣はないし部活もやっていないので、日常の中で俺が運動する機会は、登校のために自転車を漕いでいるときと体育の授業しかない。普通、それだけで腹筋が六つに割れたりするだろうか。
「いや、ここまで筋肉はなかったと思う」
「へぇー。ふむふむ……そうねぇ…………」
言いながら真姫は、優しく撫でるように俺の腹筋の上に指を滑らせていた。なんとなく艶めかしい指の動かし方で、くすぐったくも心地よく、変な気分になってくる。
そうしてひとしきり俺の上半身を撫でまわした後で真姫は不意に手を離し、次の瞬間、鏡にきらりと鈍く光るものが映った。
「じゃ、少しチクッとしますよー」
素早いナイフが俺の胸を横切った。胸に横一本の赤い線が走り、やがてその傷口がぱっくりと開いて、だらりと血液が俺の腹を流れていく。
「痛ってェ!」
「そんなに深い傷じゃないから落ち着いて。死にはしないから」
まただ。やっぱり真姫は真姫だった。さっきからずっと柔らかい笑顔を振りまいていたから油断していた。そういえばこいつは、予告なく人の顎を蹴り上げて吹っ飛ばすような女だった。
俺はどうしていいかわからずに傷口を押さえながら膝を折り、悶え苦しむ。助けを乞うように自分に傷をつけた張本人に目をやると、真姫は冷たい目で俺を見下ろしていた。
そして、至極冷静な口調で言う。
「成宮くん、頭の中で、自分の血液が傷口に戻っていく様子を強くイメージして。あるいは、傷口が閉まって、元に戻っていく様子でもいい。とにかく傷口が勝手に治癒していく様子を、できるだけ具体的に、克明にイメージして」
「意味が分からん!」
「いいからやって」
氷のように冷たい声で言われたので、俺はきつく目を閉じて、痛みでいまいち集中できないが言われた通りの様子をイメージする。脳内で強く念じる。治れ、治れ、治れ、と。
「お、おお、おおおお、おおお!」
露骨にテンションが高い真姫の声が聞こえて目を開けると、なんと、既に床に落ちたはずの血液が重力に反して俺の傷口へと戻っていっていた。そうして全ての血液が俺の傷口を目指して身体を登っていき、最後には、俺の傷口は閉じて、縫合した後もなく、綺麗に元通りになった。
「わーお。まさかと思ったけど、マジじゃん」
「……な、何が起こったんだ、これ。何がどうなってるんだ」
俺が地面にへたり込んだままで真姫に尋ねると、真姫はにぃっと口角を吊り上げて、しゃがみ込んで俺に視線を合わせた。
とても嬉しそうな、ともすれば無邪気にも見える笑顔で俺の胸板を指先でつついて、真姫は言った。
「ふっふふふ。キミぃ、即戦力だよぉ~」
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