第3話

「ふぅ~! ひっさびさのシャバの空気だぜ~!」


 アパートの部屋に入って後ろ手に鍵を閉めてから鞄のチャックを開けてやると、途端に黒い影が飛び出してきて、鞄が一気に軽くなった。


 部屋の電気を点けると、その黒猫の毛並みに白い光沢が浮き出てくる。


「おい深夜ー、早くメシ出せメシ」


 馴れ馴れしく俺のファーストネームを呼びながら餌をねだる黒猫を追いかけて、狭苦しい自室に入る。本棚の奥に隠してあるキャットフードの袋を取り出して、その中身をそのまま床の上に放った。黒猫はその餌の山に顔を埋めるようにしてかりかり嚙み砕く。


「お前、俺がお前の生殺与奪の権を握ってるんだってこと忘れてるよな……?」


「小難しい言葉使ってんじゃねぇよ、よくわかんねぇよ」


「生意気が過ぎるってことだ」


「ニンゲンのくせにつまんねーこと気にしてんじゃねぇよ。確かにお前は俺の命の恩人だけど、だからってお前に絶対服従しなきゃいけない道理はないだろ」


「猫だからって恩を仇で返すような真似が許されると思うなよ」


「それに関しては大丈夫だ。お前にはいつか絶対、俺のことを拾っておいて良かったと思える瞬間が来るからな。絶対にだ」


 口の中に餌を含みながら、いまいち回っていない呂律で答える黒猫。そんな猫の頭を撫でようとすると、即座に猫パンチを喰らった。真姫相手には素直に撫でられていたくせに。


 この猫は、今から二週間ほど前、放課後の夕方に俺が川辺でぼーっとしていたところに、よろよろと死にかけの状態で寄ってきた。


 一目見たときには黒くて丸い物体がひとりでに動いているようにしか見えなかった。それが猫だとは思えなかった。もはや原型を留めていないほどに、この猫はボロボロだった。


「……おい、助けてくれ」


 第一印象は、しわがれたおじさんの声、だった。誰が話しかけてきたのかと思ってまわりをきょろきょろ見回したが、近くには誰もいなかった。数十メートル先で今の声の印象に合致する見た目のおじさんがランニングをしていたが、そのおじさんはこちらに顔を向けていないし、そこまで遠くから話しかけられた感じもないので違うだろう。


「おい、こっちだよ。何でもいいから早くメシ持ってきてくれ」


 まさか自分が急に神性に目覚めて、この世にあらざる何者かから脳内に直接語り掛けられているのではないか、と思った。だから俺はきょろきょろ周りを見るのをやめて、目を閉じた。


「おい! 俺はお前に話しかけてんだよ! 言うこと聞けって!」


 普通、ただの猫があんな流暢な日本語を話すなんて思いもよらないだろう。幼少期の俺ならぎりぎりその可能性に思い至ったかもしれないが、高校二年生である俺はこの十七年間で嫌というほど現実というものを知ってしまっている。


 だから俺は、その人に言われるまで、黒猫を少しも気に掛けていなかった。


「へぇ、喋る猫かぁ。こりゃあさすがに初めて見るなぁ」


 その声に気が付いて、瞑目していた俺が目を開けると、黒猫のそばにしゃがみこんで顎に手を当てている男を見つけた。ネクタイまで真っ黒なスーツを着ていて、その長い黒髪を後ろでまとめている、温和そうな痩身の若い男がいた。


「しゃ、喋る猫、ですか?」


 俺は困惑しながらも、好奇心でその男に聞き返した。


「ん? さっきからずっと喋ってるみたいだよ、この黒猫」


 男が柔らかい微笑みで答えた。俺が四つん這いで近づいてみると、黒猫が小刻みに震えているのがわかった。明らかに衰弱しきっている。


「なんか、キミに向かってメシくれメシくれーって、喚いていたみたいだけど」


「いや、でも俺、猫が食えるようなものなんか持ってませんよ」


「……じゃじゃーん! なんとここに都合よく魚肉ソーセージが!」


 男が明るい声で言いながら、その黒いハンドバッグから、オレンジ色のビニールに包まれた魚肉ソーセージを取り出した。


「ほら、キミが食べさせてあげなよ」


 男は満面の笑みで、俺にソーセージを差し出す。男のシトラス風味の香水の匂いが鼻腔をついた。


「あ、ありがとうございます……」


 俺はおずおずとそれを受け取り、べりべりとビニールを剥がした。


 ビニールから解放されてぷらんと垂れ下がるソーセージの先端を猫の口元に近づける。すると、猫は不器用そうにソーセージを齧って、その欠片を地面に落とした。そしてその地面に落ちた欠片をまた口に入れて、くちゃくちゃ咀嚼している。なぜそんな汚い食べ方をするのか不思議だった。


「ダメだよ、そのままじゃ食べにくいだろう? 細かくちぎって手のひらに乗せてあげれば、猫も食べやすいだろうね」


 と男が言うので、俺はソーセージをちぎって自分の手のひらにのせた。すると猫はよろよろと近づいてきて、俺の手の上からソーセージを食べた。猫の生温かいざらざらした舌が触れてくすぐったい。


「キミ、猫は好きかな?」


「まあ、人間よりは猫のほうが好きですね」


「なぁ、どうしてこの猫はキミに声をかけたんだろうね?」


「さっきのおじさんみたいな声って、本当にこの猫の声なんですか?」


「そうだよ。あれは間違いなく、この猫がキミ向かって投げかけた言葉だ」


「猫があんなはっきりした日本語を発するなんてあり得ないでしょう」言いながら俺は追加でソーセージをちぎって、猫の唾液で少し湿っている自分の手のひらにのせる。


「僕だって聞いたことがない。しかしどれだけ信じられなくても、今さっき現実としてこの猫は喋ったんだからね。信じるしかないだろう」


「今は全然喋らないみたいですけど、この猫」


「僕が来たからかな。人の言葉を話すのはキミに対するときだけなのかもしれない」


 もう半分以上のソーセージを胃の中にため込んでいる黒猫を、スーツ姿の男はしゃがみこんだ体勢のままでまじまじと観察する。黒猫は食べながら、その視線から逃げるように顔を逸らした。


「……嫌われちゃってるのかな、僕は」


「猫は気まぐれですから」


「家に連れて帰ろうかと思ったんだけど」


 すると、黒猫は急に飛び上がるようにして全身の毛を逆立てて、その身体を擦りつけるようにして俺の背後に回った。


「あっはは、おかしいなぁ。元カノの彼氏にもそこまで嫌われたことないんだけどな、僕。猫っていうのは本当に読めない生き物だよ」


 警戒心をむき出しにして睨む猫を笑って受け流しながら、男は立ち上がる。そして笑顔のままで僕を見下ろして、まるで小学生に社会のルールを教え込むように指を一本立てて、男は言った。


「いいかい、キミはその猫から絶対に片時も目を離しちゃダメだよ。絶対にだ。まあでも、そんなこと言っても多分、キミが何もしなくてもその猫は絶対にキミから離れないだろうから安心してくれ。もしこの猫がキミのそばから離れるようなことがあるとすればそれは、キミか猫かのどちらかがこの世を去るとき以外にあり得ないだろうね。キミと猫は、死ぬまでずっと一緒だ」


「え、いや、うちのアパート、ペット禁止なんですけど……」


「そこはうまく誤魔化すしかないよ。大丈夫、キミならやれるさ。その猫に気に入られるほどの器を持つキミなら、やれるよ」


 胡散臭い笑顔の男はそう言って、ぽんと軽く俺の頭を撫でた。完全にこちらを格下の相手だと見做しているようだ。男は僕に背を向けて「また今度、キミの様子を見に来るよ」と言い残して、ゆっくりとした足取りで勾配が急な土手を登っていった。黒猫はまだソーセージをくちゃくちゃ食べていたが、やがて男の姿が見えなくなると、またしわがれたおじさんの声が聞こえてきた。


「怪しい不審者のおっさんと普通に会話してんじゃねえよ、防犯意識低いな」


「……本当に黒猫が喋ってるのか?」


「この場で、俺以外の誰がお前に話しかけるんだよ」


 確かに黒猫の口は動いていた。しかしその口の動き方はおよそ一般的な猫が絶対にしないような不自然な細かい動き方で、不気味ですらあった。自分の顔を動物に変換するスマホのあの機能が、目の前の現実にあるような感じだ。


「なんでさっきは喋らなかったんだよ」


「あの不審者のおっさんが危険だからだ。あのおっさんの前では極力喋らないほうがいい」


「ていうか、お前猫なんだったら俺よりも年下だよな? 敬語使えよ。メシも恵んでやったんだぞ」


「あのソーセージは元々はおっさんのもんだろ。それに、俺はこう見えてお前よりも少し年上なんだよ」


「…………」


 猫は後ろ脚を折りたたんで前足の行儀よく伸ばした座り方で俺を見上げ、淡々と答える。


「なんであのおっさんは危険なんだ?」


「それをお前が知る必要はない」


「知る必要おおありだろ。俺にはあのおっさんよりもお前のほうがよっぽど危険に見える」


「猫か人間か、どちらがより危険な生き物か、高校生ならわかるよな?」


「……でもお前はただの猫には見えない。人間よりも危険な生き物かもしれない可能性が捨てきれないんだよ、この状況では」


「日本語が人並程度に話せることと、少し寿命が長いことを除けば、あとは身体能力諸々全部、普通の猫と大差ない。そこは信じていいぞ」


 黒猫の姿形だけを見れば、確かにただの小汚い野良猫にしか見えない。思わず身体中を撫でまわしたくなるような、小動物特有の可愛らしさを持つただの猫。


 俺が立ち上がって土手を登ると、猫もすぐ後ろをとてとてついてきた。


 俺は猫に振り返らないままに言う。


「……お前、俺ン家来るつもりなのか」


「そこ以外に居場所がないからな」


「俺にはこんな口うるさくてふてぶてしい黒猫を飼うメリットがほとんどない」


「猫を飼ってると女が寄ってきやすいぞ。女はみんな猫好きだからな」


「それなら世間の男の九割以上は猫を飼っていないとおかしい」


「いいからメリットとか難しいこと考えるなよ。お前は何も考えずにただ俺をそばにおいておけばそれでいいんだ。俺はむしろお前を助けてやってるようなものなんだぞ。いずれお前に降りかかる災厄を振り払うために、俺はここにやってきたんだからな」


「なんだ、その災厄って」


 こうして後ろを歩く猫と会話をしていると、事情を知らない他人から見れば俺はずっと独り言を言っているただの危ない人になってしまうわけだが、俺は恥も外聞も既に捨て去っていたので気にならなかった。


「運が悪ければ、お前は近いうちに死ぬ」


「は?」


 俺は思わず足を止めて、後ろを振り返った。黒猫は緑色のつぶらな瞳で俺を見上げて、淡々とした調子で続けた。


「お前には危機が迫っている。正確にはお前だけじゃなく、この町全体に、危機が迫っているんだ。その危機を命をかけて退けるために、俺はここに来た」


 このフィクションっぽさ満載な存在である黒猫がそんなことを言うと、まるでヒーロー系のバトル漫画で使い古された台詞のように聞こえてくるから不思議だった。


「意味が分からん。その危機ってなんだ? どうして俺が死ぬことになる? 俺は何か、事故に遭うことになるのか? 病気か? それとも誰かに殺されるのか?」


「それはそのときになってみないと分からない。敵側が何を仕掛けてくるかなんて、知りようがないんだ」


 敵って何だ。本当にフィクション作品のような話になってきた。俺はまだ夢でも見ているのだろうか。


「さっきのあの不審者のおっさんは、お前の言う敵に属しているのか? だから危険なのか?」


「それは……、まだ微妙だな。分からない」


「……わからないことだらけだなお前。説得力がないんだよ説得力が」


 そんな文句をぶつくさ言っていた俺だが、結局黒猫を飼うことにした。猫のあの、危機が迫っている云々の話を信じたわけではない。あの男が言っていた、猫から離れるなという命令に律儀に従おうとしたわけでもない。ただなんとなく、面白そうだったから、黒猫をそばに置いておいた。


 そう、面白そうだから。だって、なんていったって、この黒猫は日本語を喋るのだ。何か裏が、何か仕掛けがないとそんなことはできない。それに、妙なことを喋る猫がそばにいるだけで、毎日の退屈な日常に少しのスパイスを与えてくれる気がした。俺は刺激に飢えていたのだ。相変わらず不透明なままの進路希望、やる意味が皆目わからない退屈な勉強、面倒なクラスの人間関係、一向にできる気配のない恋人、そういうものから目を逸らせられるだけの刺激を、俺は求めていた。


 しかし、その刺激はスパイスというには少々強すぎたかもしれない。


 猫は本当に片時も俺のそばを離れなかった。どこに行くにも猫は必ず俺についてきた。もちろん学校にもついてきたのだが、移動教室はもちろん、トイレに行くときも学食に行くときも、俺は黒猫が入った鞄を持ち歩かなければならなかった。本当に厳密に、猫は一秒も俺のそばを離れなかった。もし動物との意思疎通が可能になれば人間は牛や豚の肉を食べなくなるだろう、という話がある。あれは意思疎通が可能になることによって動物が一気に人間に近しい存在に感じられるからだと言われているが、実際に動物と意思疎通ができるようになった俺から言わせてもそれは正しい。日本語を喋るあの猫はもはや、亜人といっても差し支えないほどに人間に近しい存在だ。そんな、ほぼ人間の奴と一秒も離れずに生活していれば必然的に、とてつもなくストレスが溜まる。プライベートな時間や空間が生活から完全に消えてしまうのだから、当然、とてつもない勢いでとてつもない量のストレスが溜まっていく。


 そして二週間が経った現在、俺はもう気が狂いそうだった。白川という美人なクラスメイトと二人きりで勉強会をしていても、厳密にはそれは二人きりではないのだ。鞄の中にこの黒猫がいたから。この黒猫に、俺たちの会話は全て聞かれていたのだから。


「で、お前の存在理由であるその災厄とやらはいつやってくるんだ?」


「まだ俺が来て二週間かそこらだろ。そんな早く災厄がやってきたら、俺の準備が間に合わないだろ」


 餌を食べつくした猫が無防備に腹を出した体勢で床に寝そべり、欠伸をするように身体全体を伸ばしながらそう答えた。


 あの土手で出会った頃のボロボロな風体から比べれば、今の黒猫は感動的なまでに劇的な変化を遂げていて、その毛並みは健康的に艶めいている。人間の前でここまでリラックスしてくつろぐことも、つい二週間前まではありえないことだっただろう。


 そして飼い主である俺は対照的に、こいつが来てからどんどん毛並みが悪化している。


「……そういえばお前、あの白川とかいう女が好きなのか?」


 そう、この黒猫は家に帰るとこうして逐一、やかましい過保護な親のように、学校での出来事について不躾な質問をしてくる。本当に早急にやめてほしい。無視をすればいいと思ったのだが、無視をするとこの猫は意地になって俺が答えるまで永遠に同じ質問を尋ね続ける。俺より年上だなんて話はやはり嘘っぱちだと思うほどに、この黒猫は子供っぽい性格をしていることを俺はこの二週間で学んでいた。


「どうだっていいだろ」


「あの女は危険だから、あんまり近づかないほうがいいぞ」


 真姫が危険人物なことくらいは言われなくてもわかる。いきなり予告なく自分の顎を蹴り上げてきた人間が危険でないはずがない。


 しかし危険は危険でもどういう種類の危険か。土手で魚肉ソーセージを渡してきたあの男と同じ種類の危険なのか。それはまだわからなかった。


「ていうかお前、なんで自分に暴力振るってきた女とその直後に普通に会話できるんだよ。意味わかんねぇよ、気持ち悪いよ」


「女の暴力は笑って許してやるのが、イイ男の条件だから」


「遠回しの皮肉か?」


 女の暴力は許されて、男の暴力は厳しく罰せられる。しかし男女に体格差があることは覆しようのない事実なのだから、笑って許せる暴力なら笑って許してもいいのではないか。


 あくまで笑って許せるレベルに限定すれば、それでもいいと思う。


 美人に殺されても笑っていられるほど、僕は面食いではないから。


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