第2話
人の言葉を話す猫なんていうベッタベタな存在が今俺の鞄の中でもぞもぞ暴れているんだ、と言ったら、俺の目の前のこの女の子はどういう反応を示すのだろう。
「ねぇ、成宮くん。この問題はどうすればいいの?」
温かく柔らかいオレンジ色の夕陽が差し込む放課後の薄暗い教室で、俺は白川さんと机を向かい合わせにくっつけて数学の問題集と格闘していた。白川さんは身を乗り出すように僕に近づいて、手元の問題集の数式をペンで指す。
「……ごめん、俺もわからん」
俺が目を逸らしながら言うと、白川さんは一瞬ぽかんとした表情になって、それから薄く息を吐いて自分の椅子に深く座りなおした。
「あのさ、白川……さん、って、俺より勉強できるよね?」
「真姫って呼んでいいよ。平仮名二文字だから呼びやすいでしょ?」
「ああ、わかった、真姫……」
真姫が今度は深く息を吐いた。少し不機嫌なようにも見える。
「自分より勉強ができない人と勉強会をしても、得られるものはたくさんあるよ。それに、いくら成績に差があるからって、必ずしもわたしができない問題が成宮くんにもできないってわけじゃないだろうし」
「いや、そういうんじゃなくてさ。ただ、真姫はどうしてあえて俺だけに声をかけたのかなって」
「成宮くんじゃなきゃダメなんだよ。成宮くん以外の人間に興味ないから、わたし」
さっきの問題の解き方を調べているのか、真姫はつまらなさそうな顔で数学の教科書をぱらぱらとめくりながら片手間に答えた。
その真姫の唯一興味のある人間である俺とこうして教室で二人きりの状況なのに、なぜ真姫はそこまでテンションが低いのだろうか。
「成宮くん、ちゃんと集中してる? さっきから全然手が動いてないよ。まだ二問しか解いてないじゃん」
「いや、明日までにやらなきゃいけない課題ってわけでもないから……」
「ふうん。そういう姿勢が成宮くんの成績をどんどん悪化させていったわけだね、納得納得」
「……そんなことはどうでもいいんだ」
真姫は顔を下に向けてペンをノートに走らせていて、こちらを見ないままぐさぐさと言葉を並べ立てている。もしや、本当は真姫は俺にしか興味がないんじゃなくて、俺だけに興味がないんじゃないか。いやそれこそ最もどうでもいい。
今日の真姫の行動は明らかに不自然だ。高校二年生に進級してから二か月が経過して、今は梅雨の時期に差し掛かっているが、高校入学から今日までの約一年弱、俺はこの白川真姫という女の子と一度も二人で話したことがなかった。一年生のときは真姫の存在自体を曖昧にしか知らなかったし、二年生に進級してからは真姫はずっと俺の隣の席に座っていたが、今日まで個人的に会話したことは一度もなかった。
しかし真姫は、今日になって突然、放課後に二人で勉強会をしようと俺を誘ってきた。
もしかすると、この、学年の中でもかなり上位に食い込むレベルで美人な女子である澄ました顔をしたクラスメイトは、実は俺の鞄の中身について既に勘付いているのではないか。
何かおかしい。俺にしか興味がないなんてのは絶対に嘘だ。自分が美人だからって簡単に男を騙せると思うなよ。
「……あのさ、真姫って、俺のこと好きなの?」
「……急に何の話?」
ぎろり、と。少し顔を上げた真姫の前髪の隙間から、その不機嫌そうな睨みが見えた。その睨みによって俺の胃はきつく締められる。
「いや、やっぱり、なんで今日になって急に俺と勉強会がしたいなんて言い出したのか不思議でさ。人数合わせならまだしも、二人きりだし」
「じゃあ何? 成宮くんは、たった一回二人きりのデートに誘われただけで、俺はこの娘から好かれてるんだーって思っちゃう自意識過剰な人なわけ?」
「……自意識過剰じゃなくても普通に思うだろ、それは」
俺が言うと、真姫は髪を耳にかける仕草をしてからまた下を向いて、ペンを走らせ始めた。
「じゃあ、ちゃんと先に言っておくね。わたしは成宮くんのことが特別好きじゃないし、個人的に交際したいとも思わないし、これからそう思うようになることもない。成宮くんのことなんかぜーんぜん気にしてない。はい、これでいい?」
「……そ、そんなきっぱり断言しなくてもいいだろ……」
「だって事実だし。これで安心してわたしと話せるね、良かったね」
俺は別に、真姫に好かれると迷惑だなんてことは一言も言ってないし、好かれる可能性がないからと言って美人と二人きりで話す場面でリラックスできるはずがないのだが。
下を向いてノートを書いている真姫の表情を窺い知ることはできなかった。真姫に心無いことを言われ完全にやる気を失い、俺は頬杖をついて、真姫の頭頂部のつむじを見つめた。
それからしばらく、真姫はひたすら下を向いてノートを取って、俺がひたすら美少女の頭頂部を観察する時間が過ぎていった。
さすがにそろそろ真姫に何か言われるだろうかと思って俺が自分のノートに視線を向け始めたころ、真姫がペンを走らせたままで口を開いた。
「……ねぇ、成宮くんって犬派か猫派、どっち?」
「えっ」ずいぶんと急な質問だった。「あー、まあ、どうだろうな。どっちかというと猫派、かな」
「気が合うね。わたしも猫派だよ」
「へぇ。真姫は、家で猫飼ってたりするの?」
「成宮くんは?」
「え?」
「成宮くんは、猫、飼ってないの?」
机の脇にひっかけてある鞄が、どくん、と胎動するように動いた。
「……か、飼ってないよ、残念ながら」
「ふうん。でもさ、猫をもふもふしたいからって、そこら辺にいる野良猫を無闇に触らないほうが良いよ。最近は突然変異する猫もいて、どんな変な菌を持ってるかわからないからね」
「と、突然変異?」
「うん。例えば……人の言葉を話す猫、とか」
ちらと、真姫が品定めをするような上目遣いで俺の表情を窺っている。
俺は咄嗟に目を逸らす。
「……へぇ。本当にそんなのがいるのか。なんか、どこぞの妖怪みたいだな」
「実際妖怪なのかもね。全く常識が通用しないような相手だから」
「…………な、なぁ、もういい時間だし帰らないか? あんまり遅くなると良くないだろ。ほら、真姫、女の子だし」
俺がもぞもぞ暴れだした鞄を誤魔化すために立ち上がって、抑えつけるように鞄を抱きかかえると、真姫はゆらりと顔を上げた。無表情だった。
「別に、わたしは暗い夜道を歩いたって平気だよ。強いから」
確かに精神面では平均的な女子高生よりも幾分か強靭そうに見えるが、身体面はそれほど強そうに見えない。外見はただのか弱い少女だ。
「そうは言ったって、世の中にはどんなやべー奴がいるかわかったもんじゃないだろ? その、さっきの突然変異した猫とかが、いきなり襲い掛かってくるかもしれないし」
「…………成宮くん、何か変なことしようとしてる?」
どちらかというと変なことをしようとしていそうなのは真姫だと思うけど。
「ま、いいや。ちょうど課題の範囲まで終わったし、帰ろっか」
真姫は机の上のノート類を閉じて鞄の中に突っ込んで、それを肩にかけて立ち上がった。同じスクールバックなのに、真姫と違って鞄を抱きかかえるように持っている俺を、真姫は特段訝ったりすることはなかった。
さっさと早く歩いていってしまう真姫についていく形で、廊下に出て無言で階段を下りて、職員室に寄って教室の鍵を返す。それから、まだ校庭で活動している運動部の甲高い笛の音が遠く聞こえてくる薄暗い廊下に二人分の足音を響かせて、俺たちは校舎を出た。
校門を踏み越えたところで、先を歩いていた真姫がこちらに振り返った。俺の抱きかかえている鞄に一瞬だけ視線を向けてから、真姫は口を開いた。
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど」
「あ、一緒に帰る流れ?」
普段なら心躍らせて真姫の誘いに乗るところだが、今日に限ってはこの鞄の中身について詮索されないために早く真姫から離れたかった。
「そういうこといちいち口に出さなくていいから。黙ってついてきて」
「……ご、ごめん」
真姫はキッとこちら睨みながら言って、俺の返事を待たずに歩き始めてしまった。
なかなかまずいことになった。俺は前を歩く真姫から少し距離を取って、鞄のチャックを少しだけそっと開けてみた。猫の黄色い瞳が光を反射してきらりと光った。そして、外の光に気づいた猫が顔を出してここぞとばかりにものすごい罵詈雑言を浴びせかけてきたので、慌ててチャックを閉めた。
顔を上げると、横断歩道の前で立ち止まっている真姫が無表情でこちらを見つめていた。
一瞬動揺するが、すぐに平静を装って小走りで真姫に追いつく。「で、寄りたいところってどこ?」
「んー……、秘密」
真姫はこちらを見ずに信号機を注視したまま答える。
「なんだよそれ。俺は今からお城のホテルに連れていかれたりしちゃうのか?」
真姫はガン無視して、信号が青に切り替わった横断歩道を歩き始めた。ふむ、真姫に下ネタは通用しない、か……。いや今のはさすがに自分でもキモいしつまらないと思ったけど。
それから俺たちはしばらく無言でひたすら道路脇の歩道を縦に並んで歩いた。途中で日が落ちて、駅前に到着する頃には辺りは宵闇に包まれていた。道中で何度も、俺の抱える鞄がもうすぐ孵りそうな恐竜の卵のように激しく蠢いたが、真姫がそれに気づいた様子はなかった。
真姫は無言のままで、ここら一帯で最も栄えている駅前の通りを抜けて、裏路地のゲームセンターや雀荘や風俗店が立ち並ぶ通りも抜けたところで、急にくいっと方向転換して、人が二人分くらいやっと入れるような狭い路地に入った。その奥の行き止まりまでたどり着いてから、くるりとこちらに振り返った。俺のすぐ隣には大きなダストボックスが設置されてあった。
真姫は腕を組んで無表情で、真っ直ぐにこちらを見据えている。睨んでいるようですらある、強い眼差しだった。
「……な、なんだ? ここ。真姫の秘密基地、的な?」
「別に人目につきにくいところならどこでもよかったんだけど、ここが一番都合が良いの」
「こんな暗くて狭い場所に男を連れ込むなんて、お城のホテルとそこまで変わらないじゃないか」
と俺が口に出した瞬間、顎が吹っ飛んだ。
俺の顎が真上に吹っ飛んで、身体が宙に浮いた。そのまま重力に従って、背中を地面に強打する。
真姫がその白くしなやかな脚で俺の顎を蹴り上げたのだと、空中に浮きながら理解した。
鞄はまだかろうじて俺の腕の中にある。
「……いきなり何するんだよ。そんなに脚を振り上げたら、スカートの中身が見えちゃうだろ。気をつけろよ」
「先に言っとくけど、黒だよ」
俺が起こそうとした上体を真姫のスニーカーに踏みつけられる。また背中を強打する。
「何が黒なんだ? お前のスカートの中身か、俺の鞄の中身か」
「もちろん、どっちも黒色だよね?」
言いながら真姫が鞄を奪い取ろうとしてきたので、俺は地面の上で身体を転がして真姫から逃れ、その隙に素早く立ち上がる。
「その鞄を寄越しなさい」
「なんで俺の鞄の中身なんか欲しがるんだよ。そういう性癖か? 同級生の鞄の中身を見ることに興奮する異常性癖」
「いいから黙ってさっさと寄越しなさい。悪いようにはしないから」
真姫が真剣な眼差しと殺気を携えてこちらに近づいてくる。
「あのな、暴力行為ってのは一瞬で人の信頼関係を破壊するんだよ。急に予告なく暴力を行使したお前にこの鞄は渡せない」
俺はそのまま真姫に背を向けて逃げようとしたが、足を引っかけられてあっさりすっ転んでしまった。カッコつけたようなことを言ってみても、俺は喧嘩の経験なんて数えるほどしかない。
うつ伏せに倒れた俺は上から頭を踏まれた。さっき蹴られた顎が地面と擦れてじくじく痛む。そして、あっけなく俺の鞄は真姫に奪われてしまう。
自分よりも身長の低い女に喧嘩で完敗した。とんでもなく情けないが、割といつものことなので気にしない。
真姫が俺の頭から靴を離したので、俺は軋む体に鞭打ってなんとか立ち上がる。真姫が鞄のチャックを一気に開けると、その刹那、中から黒い影が目にも止まらぬ勢いで飛び出してきた。
「黒猫、ね……」
のっそのっそとふてぶてしい足取りで真姫の正面に回り込み、自分の鼻を舐めながらそのエメラルドのような瞳で黒猫がこちらを見上げた。
真姫のスカートの中身はこの猫と同じ色らしいけれど……。
だいぶ攻めた色の下着穿いてるんだな。彼氏でもいるのか。
「この子、成宮くんの飼い猫?」
真姫がしゃがみこんで猫の頭を撫でながら聞いてきた。さっきまで俺に有無も言わさず暴力行為を働いていたとは思えないほど落ち着いた声色だった。
「ま、まあ、そんな感じ」
黒猫は耳を倒して嬉しそうに目を細めている。美人に撫でられて暢気にごろごろ言いやがってこの黒猫……。
「猫は飼ってないんじゃなかったっけ?」
「俺のアパートはペット禁止だから、そいつは外で飼ってるんだよ。だから、なんとなく、あんまり知られたくなかったっていうか……」
「ふうん。で、なんで成宮くんの鞄の中に入ってたの? 外で飼ってるって言っても、学校に持っていく必要はないよね?」
「それは……あー、なんか、寂しそう、だから」
「…………」
真姫は俺を無視してひたすら猫の頭を撫でている。猫のほうも香箱座りになって、自分から真姫の手に頭を擦りつけていた。
「……そういえば、この猫、全然鳴かないね」
「猫はそんな頻繁に鳴く生き物じゃないだろ」
「にゃー、鳴いてみてー、にゃー、にゃー」
大真面目な表情で真姫は猫に語りかける。すると猫は座ったまま驚いたように目を見開いて、そして俺に助けを乞うような視線を送った。自分でなんとかしろ、とハンドサインを返す。
そう、この黒猫は普通に鳴くことなどできない。
「にゃーにゃー、ほら、鳴いてー?」
「……にゃ、にゃあ」
黒猫が放った鳴き声は完全に日本語のそれだった。明らかに動物の喉から発せられるものではなかった。俺は額に手を当ててため息を吐く。適当に人間の言葉がわからないふりをしていればいいのに、なぜ律儀に要求に従うのか。
さすがにバレるか……? いや、バレたところで、別に俺は不利益を被るわけではない。この黒猫が一方的に他の人間にはバラすなと言っているだけで、俺はなぜバラしてはいけないのかの理由も知らない。いっそ意図的に真姫にバラして、真姫から何かしらの意見をもらうのもいいかもしれない。
「ホントに鳴いた、けど……、変な鳴き声だね」
真姫はしゃがんで猫の顔を見つめたままで、納得した風に言う。たぶん本当に納得しているわけではないのだろうが。
「そ、そうなんだよ。 なんか、喉がおかしいみたいで」
しかし俺は猫の正体を隠した。ほとんど反射だった。
黒猫は澄ました顔で堂々と真姫を見つめ返している。そういえば猫には表情筋がないらしい。
「不思議な猫だね。妙に大人しいし……、なんというか、野生を感じない」
真姫は自分の顎に手を当てて考え込むようにして、もう片方の手で猫の顎を撫でた。
「……ねぇ、成宮くん。この猫、しばらくわたしが預かってもいい?」
「は、はあ?」
黒猫が目を見開いて、飛び上がるように真姫から距離を取って、馬のように走って俺の足元に近づいてきて、そして俺の足に尻尾を巻き付けた。
そんな猫の様子を目で追いながら、真姫は無表情のままでゆっくりと立ち上がった。
「ずいぶん成宮くんに懐いてるみたいだね」
「あー、そう、こいつ俺から離れると死んじゃうくらいでさ。だから学校にも連れてきてるわけで」
すると真姫は、少し俯きがちに言った。
「あのさ、特に他意はないんだけど……、その猫、できるだけ早く遠ざけたほうがいいよ」
「……遠ざけるって、捨てろってことか? なんでだよ?」
「だから他意はないって。まあいいよ。とりあえずそこまで危険はなさそうだし」
真姫は鞄を肩にかけ直して、俺と黒猫に背を向けた。
「その猫は普通じゃない、非常識な存在だよ。非常識な存在が近くにいると、他のもっと非常識な存在を引き付けることになるってこと、ちょっと覚えておいてね」
あくまでも落ち着いた優しい口調で、真姫は去り際にそう言い残した。
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