επιφανειακός μαχη

 凪の海と澄み渡った空の並行だけが、いつもモニター越しにある。前に押し倒される操縦桿。全高三〇メートルでオレンジ色の人型機体―ネガフォルトゥーナ2,257号―の推進機能を存分に用いた私は、果てなく拡がる水鏡を波濤で乱しながら、標的の姿を探す。

「こちら2,254号、ロンドン表面に、致死運命星群メナス、断片数は八〇。全部は受けきれないから、救援を頼む」

「こちら2,257号。ボルドー表面を巡行中、最高速で向かう」

 ロンドン表面からボルドー表面まで三〇〇〇万キロメートル。ネガフォルトゥーナの力を使えば五秒とちょっとだが、京都表面やブエノスアイレス表面を巡行している他の機体では間に合わない。二重の青の狭間を臨界速度で割ると、頭上に赤黒い隕石群が見えてくる。一つ一つが致死の運命を秘めた星。私たちが続ける表面的大戦επιφανειακός μαχη、エピファネアコス・マキアは、それらの標的を海の下、世界の内裏だいりへなるべく落とさないためのものだった。

 既に赤く燃えながら降り注ぐ異物を切り裂く白い2,254号機の姿をモニターに認めた瞬間、私は自分のオレンジ色を仰向けに倒し、発火起動式を口にする。

「――命を司る光よ。絶頂と愛と生を私に」

 瞬間、全身が高揚感に包まれる。燃えるような気持ちよさと、優しい熱のなかで、私は空の上に巡る三つの恒星を視た。太陽の他に、リビドーと、デストルドー。後者二つは、私たちのような機乗者でないと認識することができない。リビドーは生をもたらし、デストルドーは死をもたらす。致死運命星群メナスは、最も巡航速度の速い紅色の凶星からくる。押しつぶされる空気。熱と衝撃波により、断続的に鳴動する頭上。迫り、視界に入る星の群れ。あぁ、全ての不幸と、全ての幸福の源をいま私は目に焼き付けている。

 腹の奥から突き上げる疼きを感じつつ、汗ばむ手で紅潮した頬を叩いて、操縦桿を激しく操作する。輝ける長剣。炎上する二機の機体が、降り注ぐ隕石を粉微塵に切り裂いていくが、全部とはいかない。

「こちら2,257号、ミスは――個で間違いない」

「応答する、2,254号だ。間違いない。作戦終了」

 眼下の海面に、連続して音のない穴が開く。その淵は七色の光彩に飾られた数式と文字の群れに覆われていて、不可侵の霊的な輝きを示しながら星を飲み込んだあと、すっと閉じる。足元にも頭上にも、凪を取り戻した始原の並行に深く息を吐く。表面的大戦エピファネアコス・マキアで破壊できるのは、半分ほど。あとの凶星は底に沈んで、不幸や、絶望や、死になるらしい。私は世界の内裏を知らないから、本に書いてあった以上に詳しいことは分からない。

 

 私は自分が誰であるか知らない。だから機体名と同じ2,257号と呼ばれている。世界の内裏で死んだひとは、記憶を失ったのちに、リビドーやデストルドーへ向かうが、選ばれた数人がこの表面的世界に送られるらしい。これは最初に事情を説明してくれた2,251号に聞いたことで、私たちの機体の格納庫に付設された寮の張り紙――複数枚あり、ここでの生活の仕方や、ネガフォルトゥーナの使い方が載っている――に記してあった。一五年間、週に一度飛来する致死運命星群メナスを撃墜しながら暮らす日々。作業が終われば、私たちもリビドーに行けるという。戦いへの選定はとても稀のようで、寮には2,253号から2,257号までの四人しか残っていないし、ネガフォルトゥーナもどういうわけか同数しかない。不幸な運命と情熱を持った者が立候補して呼び出されるなんて話もあるが、私たちはみんな生前の記憶を失っているらしいので、実際のところどうだか判断がつかない。

 戦い以外には、私たちには十分な食料と余るほどの余暇が与えられていた。そういうわけで、ここにきて六年経過した私は、彼らのなかで一番の文筆家になっていた。この経験を言葉にしなければならないという使命感が気持ちを急がせたし、寮の筆記用具はどうにも身に馴染んだ。食事をして、本を読んで、備え付けのテレビゲームをして、時折書いた物語を三人に見せる。バチカン表面。浮遊した格納庫のある寮の窓からも見える昼しかない永遠の水平。この不思議な空間について、私たちは考えることをしなかった。それほどまでに、この青春と呼べる日々は充実していた。

 世界の表面は文字でできている。物語を書きながら、私は思った。誰かの幸せも、悲しみも、人生の時間も、ほか全ての世界のことがらも、文字から奥に染みて、紙面の異なる位相に命を宿す。心は全て身体の裏面りめん。何処かで聞いた気がする言葉が、私の腕を伝って指先に流れていく。声が、鼓動が、音楽的なリズムが、叙述に注ぎ、満たし続ける。随分水っぽくなった腕のなかをそれを作品と呼ぶとき、私もまた腹のから突き上げるような確かさと、心地よさを感じた。


 世界の表面は文字でできている。

 それが真実であることを、ある日、私は知ることになる。

「こちら2,257号! 瀬戸内海表面に致死運命星群メナス! 断片数は二五〇!」

 一五年目、特別にデストルドーが輝く日だった。ほかの三機体はオデッサ表面、ヨハネスブルグ表面、サンディアゴ表面にいて、間に合わない。そもそも、一機体で処理できない量の隕物が降り注ぐこと自体、ごく稀だった。荒れ狂う赤の軌跡。半円に、屈折線、直線。私は快感のなかに逃れられない焦燥を抱いて長剣やエネルギー砲弾を振るったが、四分の一を削ったところで、ネガフォルトゥーナの五倍ほど巨大な赤熱の岩に直撃を喰らった。

「応答せよっ! みんな、誰かっ!」

 落ちていく感覚だけがある。音のない極彩色の穴に突っ込む。モニターにはノイズが走り、どんな計器も読み取れなくなる。全身が危機的状況の悪寒に襲われるなかでも、失われない暖かな性の熱に汗はやまない。いま死んだらどうなるんだろうか。リビドーでも、デストルドーでも、表面的世界でもなく、ただ何もない虚無に放り込まれるだろうか。跡形も残さず、消え去るだろうか。機体を囲む虹の縁の数式は消え、無数にあった不明な意味合いの文字列たちが、ただ一行の時間を表示して並ぶ。


 午前一時四〇分


「ぁ……」

 死ぬと思った。何の確証もないのに、ただ死ぬと思った。半狂乱になりながら、何処にあるのか分からない脱出ポッドのボタンを押したらしい私は、凶星より速く、海の奥深くに沈んでいった。

 頭から墜落していく。無明無音で、ただ文字列だけが浮かぶ空間のなか、ベッドの底が抜けて、無限に落ちる感覚がある。死にたくないという祈りの果て。どれだけ時間が経っただろうか、突然闇が醒めた。拓けた眼下には、遥かに離れて夕暮れを飲む山の稜線と、そこから流れた光の洪水に照らされたビル群。世界の内裏には都市があり、海を含めた自然の全てがあり、国や地域があり、たくさんの人がいる。本で読んだままだ。流れる涙は、身を包む冷たい風にそって、巻き上がった黒髪を辿った。星のように落ちる。私も。夕焼け色の街へ、真っ逆さまに。

「うぁあああああああああああ! ぐべへぇっ」

「んな! えっ? 浮いてる!?」

 とても間抜けな声が出た。真っ逆さまにはなったが、結果的に私は降り注いだ公園の石タイルにぶつかりはしなかった。というのも、地面から不思議な斥力が働いたからだ。私の身体は徐々に減速して、丁度ひと一人分の頭の高さで止まった。そして、目が合った。

 青ぶちの眼鏡に、短く切った黒髪。二六歳、年齢も近いように思える青年だった。彼はとんでもなく驚いた様子で数歩後退るが、私が混乱と恐怖で息も絶え絶えなのを見て取ると、心配そうに近付いてくる。

「きみは、」

 再び開かれた口に、言葉に、私はとんでもない既視感を覚えていた。どこかで会った気がする。話をした気がする。けれど、それ以上は何もできなかった憶えもある。視界の右、公園に隣接した路線に三両編成の列車が走り抜け、窓から漏れる明かりが長い影を伸ばす。浮遊感。私だけが上下反対の世界で、彼に手を伸ばし、質問を投げかける前に、しかし歪な危機感が身体を包んだ。


 損壊 損壊 損壊 損壊


 真下に、空に目をやると、降ってきていた。真っ赤で、人間ほどの大きさのと厚さの文字列が、彗星にも似て、遠い工業区画の街並みへ。良く見るまでもなく、そのなかに、ほかの五倍ほどの大きさの一際大きな別の文字がある。それが、一足早く落ちる。鈍色のパイプラインの中心、海岸沿いの石油タンクに。


 

 ケースα 六時四〇分 水島臨海工業区域での爆発事故

 屋外部防水コネクタへの誤接続で換気扇モーターを介して電気火花が発生します。

 これにから連なる一連の災害により名称未設定Aは家族を失い、倉敷から親戚を頼って物語冒頭の都市へ引っ越します。


 目を焼く光が彼方に立つ。その周囲にオーロラの幕を成していた「損壊」の文字列が爆風に煽られ、居住区をやガス管を撫でながらガラスをぶちまけていく。腰を抜かした彼に目が行きそうになるが、まだだ。地鳴りが止まない間に、数多くの様々な破滅的な文字たちが、空の奥から、表面的世界から降りてくるのが分かる。

 逃げられない。唱えるのは一つ。

「――命を司る光よ。絶頂と愛と生を私に」

 汗で頬に張り付いた髪を掻いて流すと、背後に巨大な影の気配がある。ネガフォルトゥーナ2,257号。オレンジ色の光を湛えた機体は傷もなく遠く爆炎のそびえる街に現れた。きつく着込んだ黒いスーツに暖かい感覚が灯る。お腹が熱い。荒くなる息のまま、眼前の青年に手を伸ばす。

「そこにいると危ないから、早く乗って!」

「え、僕は――」

「早く!」

 性の力のままに、思ったよりずっと重かった青年の身体を振り子のようにコックピットに投げ入れると、あとを追って、機体に飛び乗る。彼はすぽっと後部の荷物置きに収まり、私も座席について操縦桿を握る。

「これは……? きみ、大丈夫か、顔赤いけど」

「ほっといて、いまちょっと涙と驚きと気持ちよさと焦りで忙しいから」

 気遣いの声に、乱雑に返す。けれども、どうしてだろうか。やはりどこか懐かしく感じる。知るはずのない背後の彼の言葉が、声色が。思い返すほど、昂ぶり、満ち足りてくる。腹の奥に響く生と性の心地に気をやらないように漏れる吐息を落ち着けながら、急加速と急制動を繰り返す。こんなのは初めてだ。ネガフォルトゥーナはかつてないほど煌々と燃え、降り注ぐどうしようもない運命たちを両断し続ける。

 半分くらい叩き落としたころ、私はふと気づいた。青年が読んでいる。荷物置きに保管していた私の校正前の作品を。エロ小説の、しかもいちばん際どく書いたところを。

「なぁあああにやっとるんじゃい!」

「いや、あの、何かごめん……」

「また無駄に高ぶってきちゃったじゃん! これ終わったら、それと同じことやっちゃうけど、いいの?」

「――いいよ、きみとは、どこか、不思議な縁を感じる」

 優しい声に、やはり、と想う。彼は多分、この世界の内裏にいたころの、私の関係者だ。運命的に出会って、繋がり合えなかった誰かだ。メインモニターを移動させ、座席を回して向き合う。べたついた髪を掻き上げながらとろんとした目で再び見れば、否定しようもないくらい、この青年の面影を私は知っている。なんだか、泣きそうだ。治り切ってない世間ずれを凡庸な身なりで誤魔化した彼もまた、一秒ごとに崩れ、ついにひどく懐かしいものを見るような表情になって、口を動かす。暖かな涙が、二人の紅潮した頬に流れる。

「僕は、川代瑞樹かわしろみずき。きみは――?」

「瑞樹、私は――」


 ひさしぶり。その言葉と共に、昇る。

 陽のような、煌々としたオレンジの機体が。

 

 朝になる。私のためにも、私以外のひとのためにも、

 どうしようもないあなたのためにも、

 素晴らしいあなたのためにも、私たちが、朝に。



 


 

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