表裏

Aiinegruth

正 

裏面

 彼女は多分、素敵なひとだったんだと思う。僕は白いベッドに寝ころんだまま、天井を見上げる。朝六時に最終の採血を済ませ、三〇分後に運ばれてくる朝食を口に運ぶ。退院に向けての準備は親にしてもらったから、あとは渡されたこの一〇種類くらいの薬だけで久し振りに家に戻ってもいいらしい。心臓が動いている。不完全な、僕の心臓がいまも。


「ねえ、エッチなことしない?」

 織坂一片おりさかひとひらが僕にそういったのは、彼女が僕の向かいのベッドにきて二日目のことで、僕たちはまだ一二歳だった。僕はエッチの意味を知っていたけれど、驚くことも、頷くこともなかった。視界に入る心電図の数値は凪いでいる。僕は目の前の少女ほどではないがませていて、少女以上に皮肉屋だった。

「そんなの、大人になってからすればいい。愛なんて幼稚だ。誰にだって分かるもの」

「えー、つまんないの」

 つまらないのは世界の方だと思う。あとで聞いたところによると、彼女も僕と同じ難病の内部機能障害でここに来たらしかった。僕はあらゆることに絶望していて、全てを軽視していたから、どんな言葉も面白くなかった。病棟の各階に二つある休養室のテレビでは僕たちみたいなのをもてはやして数字を取る番組が賑やかで、僕はいつもどうしようもない気持ちでいた。リハビリのために廊下を回りながら唯一の楽しみの食事のメニュー表を確認すると、彼女と出会って三日目の昼の常食はタンドリーチキンだった。カリウム制限食の薄っぺらい肉が乗ったプレートをじっと見つめていた一片ひとひらは、昨日の復讐とばかりに、食事どきに美味しくない話を僕に持ち掛けた。

「大人まで生きていられると思う?」

「無理だろ。僕たちは普通のひとみたいにはずっとなれない」

 薬を飲んでも、難しい手術をしても、治ることは決してないし、ずっと悪くなり続けていく。だから、何かしら他の方法で価値を見出していく必要があると僕は子どもながらに思っていた。どうもテレビで見る限り、僕たちは芸術に優れていたり、極めて心が純粋でないといけないみたいだから、どんな重たいものを背負っても、実のところ代わりに得られることなど全くなかった才能を、どこかで調達しなければならないと僕は焦っていた。小学校の友達が運動も勉強もできるのに、僕が勉強にしか手が届かないのがいやだった。迷惑をかけ続け、あらゆるひとと対等でいられなくなり続ける人生だと、僕はポエムを描くように思った。また、僕以上に重たいものを背負ったひとのことを、僕は考える余裕がなかった。

「私は、このごろ感謝をすることが心痛になってきた」

 造影剤のエコーのあと、火照った身体で病室に戻ってきた一片ひとひらが言ったことに、僕は頷いた。彼女の机の横には、あったところでどうにもならない千羽鶴が吊るされていて、僕はそれを冷めた目でみて、同情の視線を短い黒髪の少女に送った。どんな心配も、気遣いも、病気にはこれっぽっちも効かないのに、申し訳なさだけを増やしていく。友達や家族からの愛は面倒で、邪魔で、害だった。神や仏はもっとゴミクズだった。しかし、これで治らなかったら私はどう責任を取りながら死ねばいいんだろうね。と呟く一片の横顔が眩しくて、その日初めて僕は彼女に興味を持った。

「エロ小説家になりたいの」

 その日の夜、口を開いた彼女の夢には、理由があるらしかった。心は全て身体の裏面りめん。肌も髪も裏返したなかにある本当の表現に自分は出会いたい。それには性が最もふさわしい。僕と違って芸術の才能があった彼女に嫉妬の眼差しを送ったものの、僕はそれに同意した。ずっと皮膚の内側に位置していて、いつも世の中についての愚痴を吐いている。僕の心は、物理的にも道義的にも真夜中にあって、心臓と掛け合わせるなら不出来でさえあった。

 翌日から、僕と一片は仲良くなった。病室のテレビはテレビゲームもできる仕様で、親が持ってきて一人では出来なかった流行りものを進めた。彼女はよく笑う子だった。魅力的であると思い始めるにつれ、ませていた僕は、病衣越しに一片の膨らみかけの胸やきれいなうなじに目をやるようになった。

「セックス、してもいいよ、責任が取れるようになったら」

「ええーっ、ちょっといまのずるじゃん」

「え、ああ、ごめん」

 顔を真っ赤にしていった僕の言葉にゲームに夢中の彼女は気付かなくて、とても恥ずかしい気持ちにされたのは、彼女と出会って四日目、僕の退院の予定まで残り二日の昼過ぎだった。僕たちは、短い間に多くのことを語り合った。世界には僕たちより生きていても仕方のないひとがたくさん生きているんだから、もっと希望を持とう! なんてふざけた話から、皮膚下に漏れ出た点滴の液が腕を這う銀河に見えるなんてふざけた話まで、ともかく二人で斜に構えて世を儚んだふざけた話しかしなかったが、それは本当にとても大切な時間だったと思う。

 

 その日の深夜、一時四〇分くらいに一片は発作で死んだ。

 時間を覚えているのは、鳴り響いた機械の警報が、声が、足音が、余りに騒がしくて、向かいの僕も目を覚ましたからだ。

 

 彼女は多分、素敵なひとだったんだと思う。彼女とするセックスは気持ちよかっただろうし、求めている芸術の本当のところを少しは理解できただろうという確信がある。僕だけが大人になった。あれから退院して、祈念に買ってもらったおもちゃを握ったまま親戚の家でスパゲッティーを食べて、自宅にもどった僕だけが。

 誰にも誰かを代表することなどできないから、たった一週間も一緒にいなかった彼女の何を背負うこともできないけれども――世界にはそういった、どうしようもないことしかないけれども――、僕はどうにか活動的になった。ときおり入院を繰り返したり、就活のストレスで仏壇に蹴りを入れたりしながらも、多くの優れた人に囲まれて、その好意を無下にしないくらい前向きになった。だから、僕の心は、身体の裏面りめんは真夜中から時を進めた。


 朝がくる。僕にも、僕以外のひとにも、

 どうしようもないあなたにも、

 素晴らしいあなたにも、朝が。

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