7月(中)

 燈子が市村光紀という男と知り合ったのは、大学1年の夏だった。

 ちょうどこのくらいの時期――いや、期末試験の打ち上げと称して会ったような記憶があるから、夏休みの初日辺りだったはずだ。待ち合わせた店に、浹が連れてきたのが市村だった。

 第一印象は、決して悪くはなかった。遠目にも分かるスタイルの良さに、モデルかと思ったのを覚えている。浹の古い友人だという市村は、決して愛想の良くない燈子にも物腰柔らかく、にこやかに接した。今から思えば、かなりよそいきの顔を見せていたのだなと思うが、馴れ馴れしくもなく適切な距離を保っていた頃の市村は、いかにも育ちのいい好青年だった。

「そーれがどうして、ああなったかねえ」

 庭の除草をしながら、燈子はぼやいた。ブウンブウンという草刈り機のモーター音が辺りに響く。いつの間にか伸びていたセイタカアワダチソウが勢いよく刈り取られて宙を舞った。


 燈子の記憶にある限り、出会ってから一年ほどの間、市村は好青年状態だったはずだ。それが変わったのは――

「――っとと」

 視界の隅、草刈り機の刃が向かう先に足が見えて、燈子は慌ててスイッチを切った。ぶぉんと抗議するかのような低い音を立てて、回転が停止する。その少し向こうを、子どもの足が駆け抜けていく。

「なんだ、《記憶》か」

 最近よく見かける、子どもの《記憶》だ。ハーフパンツを穿いた少年が二人、競争するかのように前後して駆け抜けて――

「――んん? は……?」

 唸りながら、燈子は目を凝らした。やはり少年が二人いる。白っぽいTシャツに紺のズボン、青い靴を履いた少年と、青いTシャツにカーキのズボン、黒い靴の少年と。パタパタという足音が聞こえそうな勢いで、彼らは庭の奥の方から表の方へと駆け抜けていく。

「増えた、だと?」

 もしかして、いつもの《記憶》とは別の子供達がこの庭で何かの思い出作りでもしたのだろうか。一瞬そう考えかけて、燈子は首を振った。《記憶》はいつも同じ動きをする。今の子供達も、見慣れたルートを見慣れた動きで駆け抜けていったような気がする。

「んんん?」

 ちょっと待て、と声には出さず自分自身に言い聞かせ、燈子は記憶の引き出しをさらった。

 春先に初めて見かけたあの時の後ろ姿は、確か白いシャツだった気がする。それからつい先だって、燈子が子犬と睨み合っている横を通り過ぎていったのは、青いシャツだった、と思う。

「……んー? 二人いた、のか?」

 それだけではない。時によって、裏庭から表へと抜けていく時もあれば、逆に表から裏へと抜けていくこともあった――ような気がする。

 これまで「子どもの記憶」という大雑把な認識で括ってしまっていたが、どうやら何パターンかあったらしい。

「しかも何か進化してないか?」

 今さっき見かけた《記憶》は、二人の少年が連れ立って走っていた。これまで単独だったものが、なぜ合わさってしまったのだろうか。よもや《記憶》同士が知り合って友情を育んでいるわけでもあるまいに。

「……んー?」

 これはどういうことかと首を捻っていると、耳が足音を拾った。サクサクと草を踏む足音に、燈子はゆっくりと振り向いた。

「市村、浹」

 表から市村と浹が連れ立ってやって来る。燈子と視線が合うと、浹がひらひらと手を振った。

「何、虚空見つめて首捻ってんの。なんか見えたん?」

 浹が訊ねる。

「んー……まあ、ちょっとな」

 曖昧に言葉を濁らせてから、燈子は予期せぬ訪問者達を睨む。

「ていうか、おまえらしれっと裏庭まで入ってくるなよ」

 このところ、この二人が裏庭の方に平然とやってくる頻度が増えた気がする。

「だって燈子が表にいなかったからさー」

「いなかったからさー、じゃない。受付か寮監室以外は入るなって言ってんだ」

 悪びれる素振りすらない実弟を燈子は睨み付ける。部外者の、しかも男性が出入りしているなどと噂になったらどうしてくれる。この瀬戸際で仕事を失いたくはないのだ。

「大丈夫、路頭に迷ったら――」

「そのくだりは大分前にやったわ」

「今なら答えが違うかもしれ――」

「変わらんわ」

 姉弟の矢継ぎ早なやりとりに、横で見ていた市村がぷはっと吹き出した。

「さっすが双子……燈子ちゃんのツッコミの速度ってば」

「おまえが言うな」

 そもそも、同じやりとりをこの男と幾度となく交わしたことがあるからこそ、浹の台詞の先も読めたのだ。なぜ無関係のような素振りをしているのかと、燈子が睨む。

「ちなみに僕は、別に籍を入れても構わないよ」

 そう言って軽やかに片目を瞑ってみせる――いちいち様になるのが癪に障る、このイケメンが――市村を、燈子は胡乱な目で見やった。

「構うわ。話が進みすぎだ、ボケ」

「つまりゆっくり進めればOKと」

「どうやらうちの弟には指導が必要なようだな?」

「あ、嘘ですごめんなさい」

 普段通りのオチがついたところで、燈子は溜息交じりに会話を終わらせた。

「――で、何しに来たんだ」

「ん? ご機嫌伺い?」

「……」

 つまり特に用もなく、ただやって来たらしい。燈子は溜息を吐くと、ポケットから鍵束を出した。心得たもので、すっと手を出した弟に寮監室治外法権エリアの鍵を握らせると、燈子は草刈り機の柄を握り直す。

「この一帯済ませたら行く。おとなしくしとけよ」

「もちろん。なー、みーつきー?」

「そうだねー」

「……くれぐれもおとなしくしててくれよ、頼むから」

 まるで中学生のような返事の仕方には、まったく信用がおけない。溜息を吐く燈子にケラケラと笑いながら市村を促して去って行く弟の背中を見送り、燈子は草刈り機の電源を入れ直した。


 *


 ひとしきり裏庭の草刈りを終えて寮監室に戻ると、受付の呼び鈴が鳴った。

 人の部屋ですっかりくつろいでいる実弟と市村は放置して、燈子は立ち上がる。

「どうした?」

「あ、燈子さん」

 寮の廊下に続く扉を開くと、江住ひよりがいる。先日、レポートが書けないとぼやいていた娘だ。

「すいません。ライフデザイン演習の課題で、身近な人のライフコースについて話を聞いてまとめるっていう課題が出てて。良かったら燈子さんにも話聞きたいんですけど」

 手元のバインダーとペンを掲げて、ひよりが言った。ふうん、と燈子は頷いた。

「ライフコースねえ」

「仕事とか人生観とか。いいですか?」

「んー……」

 視線を中空へと流し、燈子は頭を掻いた。

 正直なところ、あまり気が進まない。他人様に話せるような人生観も経験もないというのが半分、質問内容次第では精神衛生上よろしくない方向に傾きそうなのが嫌だというのが半分。

「他の寮生に聞くんじゃダメなのか?」

 とりあえず誰かに振ろうと、燈子は訊ねた。だが、ひよりは首を横に振る。

「同世代の学生だと大体似たような感じになっちゃうんで、他の世代の人に聞きたいなと思って」

「じゃあ親御さんに電話で聞くとか、バイト先とか」

「親はもう聞き取り済み、バイト先は忙しくて無理でした」

「あー……」

 燈子は天井を仰ぐ。

「仕方ないな」

「ありがとうございます。すぐ終わるんで!」

 そう言うと、燈子はひよりを促して受付の内側に招き入れた。備え付けの椅子に座らせて、自らはカウンターに寄りかかる。

「じゃあ簡単でいいんで、これまでの経歴をお願いします」

 まずは年齢などの基礎データを書き留めて、ひよりがバインダーに視線を落とした。

「経歴なあ」

 さほど話すような経歴もない。視線を中空に浮かせた燈子の表情から、困惑を読み取ったのだろう、ひよりが首を傾げる。

「大学は何系だったんですか?」

「建築デザイン」

「え、じゃあ私と同系統じゃないですか」

「まあ、そういやそうだな」

「卒業後に英藍に就職したんですか?」

「いや――」

 と燈子は首筋を掻いた。近接領域の学生に、あまり夢のない話をするのも躊躇われる。

「デザイン事務所に就職したんだが、体調崩してな。転職したんだ」

 結局、詳細は省いて曖昧に濁すことにした。

「へえ、病気かなんかですか」

「ま、そんなもんかね」

 正解ではないが、完全に嘘でもない。あの頃、判断力を失っていた燈子は、退職を勧める浹や市村の忠告を受け入れることすらできないまでにすり減ってしまっていた。

「じゃあ――この先のキャリアプランとかは? しばらくは寮監続ける感じですか?」

「そうだな……」

 視線を中空に向け、燈子は答えを迷った。まだ、閉寮の件は告知されていないらしい。夏休み明け、新しい寮の完成の目処が立った頃に告知することになったと、先日聞いたばかりだ。だから、現時点で下手なことは言えない。

「んーまあ、しばらくはな」

「とか言って、電撃結婚とかしたりして」

「はあ?」

 唐突な話題の変換についていけず、燈子の眉間に皺が寄る。ヘアピンカーブか。

「あ、じゃあついでに結婚観は?」

「結婚観?」

「何歳ぐらいで結婚したいとか、子どもは何人欲しいとか」

「あー……そういうやつなあ」

 中空を眺めて燈子は唸るように呟いた。

「ぶっちゃけ、結婚自体しないんじゃないかね」

「え、まじですか」

「ん。なんつーか――」

 と燈子は髪を掻き上げる。

「他人と暮らす意義っつーか、メリットがわからん。一人の方が気楽じゃないか?」

 結婚と聞くと、どうしても両親のことを思い出してしまう。

 物心ついた時には――いや、おそらく結婚したその時から――破綻していた二人の様子や家の中の空気を思い出すだに、自分に円満な家庭生活などというものが営めるとは、燈子には到底思えない。あんな風に、いつかきっと破綻する日が来るというなら、はなから結ばない方が自分にとっても相手にとってもいいはずなんじゃないかと思わずにいられないのだ。

 まして自分は良妻賢母なんて柄でもないし、外見にしろ内面にしろ、秀でたところがあるわけでもない。どちらかと言えばとっつきにくい人間だという自覚もある。そんな自分とわざわざ結婚という形式を取ってまで人生を共にする必要性があるのかとも思う。

「だからまあ、一人で生きていける程度に働いていければそれでいいかな。専門に関係する仕事を続けられるならそれに超したことはないが、このご時世、贅沢は言えないし」

 やはり人生観などという大層なものは語れないなと苦笑する燈子に、じゃあ、とひよりが首を傾げた。

「みっちゃんとは?」

「だーかーらぁ」

 と、燈子は大仰に嘆息する。

「あいつとはそういう関係じゃないっつってんだろ」

 少しだけ声を潜めて燈子は言った。ひよりの知らぬ事とはいえ、受付の奥、目隠しのための薄いパーティションとのれんで仕切られただけの向こう側には、話題の主がいるのだ。

「えーでもみんなそう思ってますよ」

「……なんでだ」

 がっくりと頭を抱える燈子に、ひよりは不思議そうな表情を浮かべた。

「だって燈子さんもなんだかんだ言いながら認めてる感じするし」

「…………」

 がしがしと頭を掻いて、燈子は小さく溜息を吐いた。そう言われてしまうと、若干、多少なりとも、僅かばかりながら、自覚があるだけに返す言葉もない。

「あー、まあ……なんつうか、なあ、悪い奴じゃあないんだが」

 パーティションの向こうにいる男にだけは、極力聞かせたくない。燈子は声を潜めてぼやくと、もう一度溜息を吐いた。

「まあなんだ、とにかくだな、とりあえずそんなところだ」

「そんなところって」

 ぐだぐだと話をまとめようとする燈子に吹き出して、ひよりはバインダーに目を落とした。

「んー……そうですね、仕事の話とライフプランと、うん大体聞けたかな」

 そう言って、ひよりは目を上げた。

「ほんとは二人のなれそめとかも聞きたいところですけど、レポートとは関係ないので、また今度にしますね」

「おい」

「じゃあ、ありがとうございましたー」

 さっくりと立ち上がり、バインダーを胸に抱え込んでひよりがぺこりと頭を下げた。そのままくるりと踵を返すと、パタパタと廊下を駆け去って行く。

「……あれでレポートになるのか?」

 果たしてどんなレポートに仕上がるのか、些かの不安を覚えつつ、燈子はよっこいせと立ち上がった。

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