7月(下)

「おかえりー」

 居住スペースに戻るや、浹の声が燈子を迎えた。

 ちらりと目を向けた弟のにやついた表情に、燈子の口元が引き攣る。どうやらひよりとの会話が聞こえていたらしい。これはまずい。

「ま、燈子の結婚観はアレだよね。うちの親の悪影響」

「……うるっさいわ」

 さらりと投げかけられた言葉に、燈子は弟を睨み付けた。市村の方は極力見ないようにして、奥の定位置へと進む。

「そういうおまえはどうなんだ」

 両親の影響を受けたのは燈子だけではない。浹の方こそ、むしろあの母の影響で女性観あたりに悪影響を受けていても不思議はないはずだ。

「俺? 俺は別に」

「……」

「そんな顔で見られても。俺はもう幼稚園の頃には、あの人見限ってたからね。期待してなきゃ、大した影響もないよ」

 苦笑する弟を横目で見ながら、憮然とした表情を浮かべたまま燈子は腰を下ろした。そこに、すっとマグカップが差し出された。市村だ。

「喉渇いたでしょ?」

「あ、ああ……ありがとう」

 カップにはアイスコーヒーが注がれている。数日前に買って、冷蔵庫に放置していたものを浹が開けたようだ。カラリと氷が涼やかな音を立てた。

「そういや、父さんが燈子はどうしてんだって電話してきてたけど。どうする、話す?」

「……あー、いや。元気だって言っといてくれ」

 弟の問いに、燈子は視線を泳がせる。

 父のことは、嫌いではない。正直言えば、一時は父が浹だけを連れて行ったことを恨めしく思っていた時期もあるが、父にもどうしようもなかったことは理解っている。それに、燈子が母の元を離れてからは、こうして浹を介して、燈子のことも気に掛けてくれる。いい人なのだ、とは思う――けれど。

 それでもやはり、何となく距離を感じてしまうのだ。小学校を卒業して以来、大学を出るまで一度も顔を合わせなかったせいだろうか。大学を卒業した時に一度だけ会ったが、どうしてもよそよそしくなってしまうことが、なんだか申し訳ないような気さえして、それ以来、何となく顔を合わせるのも電話をするのも避けてしまっている。

「ん、わぁった」

 気にした素振りもなく、浹が頷く。

「……悪い」

「ん、なんで?」

「いや、毎回断らせてるだろ」

「ま、そんなもんでしょ。燈子意外と人見知りなとこあるしね。そりゃ10年会わなきゃ他人だわな」

 ひらひらと手を振って、浹が笑う。

「へーきへーき。父さんあの人、連絡取れないの、俺で慣れてるから」

「浹はちょっとくらい反省しなよ」

 呆れた表情を浮かべてそう言ったのは、市村だ。

「おじさん、いっつも最後には僕の所に電話掛けてくるんだから。せめて、アトリエに籠もる時は事前に連絡しておいてくれない?」

「あーわり」

「ちょっと待て、市村おまえ、父と電話するのか?」

 意外な言葉に、燈子は思わず口を挟んでしまう。その声に、市村がにっこりと――悪びれる気配すらない浹のことは完全にスルーしている――微笑んだ。

「年に1、2回くらいだけどね」

 しかも思った以上に頻度が高いことに、燈子は思わず唸る。

 市村が浹とは仲が良いことも、二人が古い友人だと言うことも知っている。何しろ、大学に入って再会してから、最初に紹介されたくらいだ。けれどまさか、父と連絡を取り合うほどの仲だとは。

「……」

 だが言われてみれば、父も浹とよく似た人種だ。基本的に快活で、他人とコミュニケーションを取ることのハードルが低い。市村この男もどちらかと言えば人当たりの良い方だから、気が合っても不思議はない――のかもしれない。

「なに?」

「ああ、いや……」

 見るともなく眺めていた燈子の視線に気付き、市村が首を傾げた。ふわりと、目元が緩む。

「…………あー、そういやさ」

 その微かな空気の揺らぎを誤魔化すように、燈子は視線を逸らした。何か言葉を継がねば、と思い巡らせたところで、思い出す。

「いつ頃から、こんなんなったんだったか」

「?」

「何、こんなんって」

 内心の疑問をぽろりと漏らした燈子の言葉の意図を掴みかね、市村がさらに首を傾げる。興味をそそられたらしい浹が、身を乗り出した。

「いや、市村こいつって大学で初めて会った頃はもっと好青年だっただろ」

「ん? あー……」

「え、ちょっと待って待って」

 思い当たる節があるらしい浹が納得の声を上げる一方で、市村は目をぱちりと瞬いてから、困惑も露わな声を上げた。

「あの頃はって、今は? ねえ燈子ちゃん今は?」

「……変た……人?」

「なんで!? ねえなんでさ!?」

「し……っしかも今、一瞬『変態』って言いかけたよな」

 蒼白になる市村とは対照的に、ぶはっと吹き出した浹が腹を抱えて笑いだす。

「ちょっと待ってよ、ほんと、なんで?」

 真剣に、かなり本気で焦っている様子で、市村が身を乗り出す。一気に縮まる距離に、燈子は思わず上体を引き――かけたが、その背中は何かにあたって止まる。ちらりと背後に目をやると、爆笑中の弟の脚だった。行儀の悪い脚をぺしりと叩き落としてから、燈子は居住まいを正す。

「なんでって、だってあの頃は割と距離感あっただろ」

「そりゃ初対面だったからね」

「今はどっちかってーと近すぎ」

「だって距離詰めてってるからね! 結構必死だからね、僕!」

 さらにずいっと身を乗り出す市村に、燈子も同じだけのけぞろうとする。だが今度もまた、その動きは浹の脚に阻まれた。

 さては、さっきのもわざとか。睨み付けた視線の先で、弟がにやりと人の悪い顔で笑う。

 のれんに腕押し、ぬかに釘。姉の凶悪な視線すら柳に風と受け流す弟は捨て置いて、燈子は市村に向き直った。

ちっかいわ! 物理的に距離を縮めんな!」

 びしりと鼻先に指を突きつけると、いかにも渋々といった表情を浮かべ、市村が上体を退く。が、敵も然る者。ふうん、とほんの僅かに目を眇めた、その微かな表情の変化に危険な匂いを察知して燈子は身構えた。

「物理的な距離がだめなら、やっぱり心理的な距離から詰めるしかないね?」

「……なんでそうなる」

 胡乱げな視線を向ける燈子に、市村はにっこりと――うさんくさい――笑みを返す。

 危険だ。これは絶対に深掘りしてはいけないやつだと、燈子の中で危険を知らせる半鐘がガンガンと打ち鳴らされている。話を逸らさねば。

「……と、とにかく! 最初の頃はもっと距離あっただろ、それがなんでこんなんなったんだって」

「こんなん……」

「それは、あれじゃん」

 苦し紛れに元の話題に戻った燈子に、浹が身を起こす。笑いの発作は治まったらしい。

「あれ?」

「覚えてない? 2年の時にさー」

「……浹、それは」

 座り直した浹の台詞を遮るように、市村が声を発した。

「ん?」

 顔を上げた浹に、市村が無言で視線を送る。しばしの間の後、浹が肩を竦めた。

「りょーかい」

「おい」

「秘密だってさー。聞きたきゃ、光紀に聞いて」

「おい」

 じとりと睨むも、浹は我関せずと言った表情を浮かべて立ち上がる。一方の市村はといえば、それはもう良い笑顔を浮かべている。あまり関わり合いになりたくない。

「んー俺、燈子のふりして受付行っとくわー」

「こら逃げんな、それは私の仕事だ!」

「だって燈子、光紀と話あるんでしょ」

「自力で考えるからいい、2年の時だろ!」

 言い合いつつ、燈子が腰を浮かせたところに、タイミング良く受付のチャイムが鳴った。


 *


 宅配便を受け取って、燈子はそのまま受付横の扉から廊下に出た。

 草むしりも済んでいるし、梅雨入り前にひとしきり修繕もしたから、この時間帯は特段するべきこともない。とはいえ、今は何となく寮監室に戻りにくかった。

「2年の時、なあ」

 ぼやきながら、廊下や各部屋の照明器具をチェックして回る。

 浹の言い方だと、2年の頃に市村の挙動を変える何かがあったということなのだろう。

「2年、2年ねえ」

 やはり市村と出会ってから1年ほど経った頃だろう。燈子はまだ実家住まいで、母の目を掻い潜ってはアルバイトをしたり、教習所に通ったりしていた時期だ。

「んんんー……」

 唸ってはみるが、手がかりになりそうな出来事はひとつも思いつかない。あの頃、市村は浹とセットで現れることが多かった。いやむしろ、浹がいる時にしか来なかったと言った方が良いか。それがいつの頃からか、一人でも頻繁にやって来るように――

「……まったくわからん」

 あの頃の市村について覚えているのは、一線引いたような――燈子にはちょうど良い――距離感だったことと、彼が現れると同じ学年の女子達が色めき立ったことだ。なんなら、普段はほとんど会話を交わすことのない娘達が、あたかも仲の良い友人のように燈子に話しかけてくることも幾度となくあった。

 何かきっかけがあるとすれば、その辺りなのだろう。だがいかんせん、心当たりがなさ過ぎる。

「なに唸ってるの?」

「んー……うわ!」

 唐突に声を掛けられて、思考の淵に沈んでいた燈子は、文字通り跳び上がった。考え事をしている内に、いつの間にか寮監室に戻ってきていたらしい。

 受付の奥のパーティションから顔を覗かせているのは市村だ。

「市村」

「なに、さっきの件?」

 よほど顔に出ていたのだろうか、燈子の顔を見た市村がふふ、と笑う。

「眉間に皺寄ってるよ」

 指摘されて、思わず眉間をさする。

「別に、頑張って思い出さなくても良いのに」

「……ったって、気になるだろ」

 そもそも、この男がなぜ自分につきまとうのか、燈子には分からない。そのきっかけを思い出すことさえできれば、この長年の疑問にも答えが出るかもしれない。

 そうすれば、この宙ぶらりんの状態からも――

 ほんの一瞬脳裏を過った思考を、浮かぶと同時に投げ捨てて、燈子は目を逸らす。頭上で市村がくすりと笑う気配がした。

「じゃあさ、賭けよっか」

「は?」

「この寮が閉まる日までに、燈子ちゃんが思い出したら燈子ちゃんの勝ち。思い出さなかったら、僕の勝ちってことで」

「なんでだよ」

 どういう賭けだそれは、と半眼になる燈子に構わず、市村は言を継ぐ。

「負けたら、勝った方の言うことをひとつ聞くってことで」

「だからなんで」

「だって燈子ちゃん、思い出したいんでしょ?」

「……」

 胡乱な視線を受け止めて、市村がにこやかに微笑んだ。寮生達が見れば大喜びしそうな表情だが、燈子から見れば、むしろ怪しいことこの上ない。

「……却下」

「えー、なんで」

「嫌な予感しかしない」

「もう、わがままだなあ」

 からりと市村が笑う。燈子がそう言うことなど、とうに呼んでいたという顔で。

「さてと、僕そろそろ研究室に戻らないと」

 じゃあねと微笑んで、市村はパーティションの向こうへと消え――たと思いきや、ひょこっと顔を出した。

「あ、浹寝てるから」

「おい」

 あの弟はどこまで自由なのかと呆れる燈子にひらりと手を振って、再び市村が姿を消す。パタンと扉の閉まる音がして、しばらくすると受付の向こう、玄関の外に帰り支度をした市村の姿が現れた。こちらを振り返り、ひらひらと手を振って正門の向こうへと消えていく。

 その背中を見送って、燈子は小さく溜息を吐いた。

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