7月(上)

「――っ!」

 はっと目が覚めた。

 仰向けに横たわったまま、燈子は視線を巡らせた。壁際の棚に置かれた時計は、盤面の淡い蛍光が5時を知らせている。

「はぁ、またか……」

 ゆっくりと上体を起こし、燈子は呟いた。ゆっくりと前髪を掻き上げる。

 目覚めた瞬間にはまだ脳裏に残っていた筈の夢の光景は、瞬く間に消えてしまった。まるで、フィルムが巻き取られていくように。

 燈子はひとつ息を吐いて立ち上がった。まだ起床時間には早いが、寝直す気分ではない。さっと身支度を調え、カーテンを開ける。窓を開けると、涼やかな朝の風が吹き込んできた。数日前に梅雨明けしたばかりの空は既に真夏の色を帯びて、まだ日の出間もない頃だというのに、金色の陽光がきらきらと輝いている。

「――ったく、何だってんだ」

 ぼやきながら、朝食の支度を進める。といっても、食パンを焼いて昨晩の残り物を挟むだけだ。

「……鯖の味噌煮か。まあ、いいか」

 パンに挟む朝食の具材として、理想的かと言われれば微妙なラインナップだが、何となく聞いたことはあるし、まあいけるだろうと踏んで、燈子は皿を電子レンジに突っ込んだ。ちなみに米は炊いていない。

 浹に見られたら、もっときちんとした食事を取ろうねと笑顔で小言を言われそうな組み合わせだ。実際、食事に対しては空腹さえ満たせればいいと思っている節があることには、燈子自身も自覚がある。だが、元々さほど食に興味がないせいか、改善しようという気はほとんどない。

「……」

 もそもそと鯖味噌パン――なんらの手間も加えず、ただ挟んだだけのそれ――を咀嚼しながら、燈子はぼんやりと窓の外に視線を向けた。

 裏山に面した窓からは、早くも蝉の鳴き声が聞こえてくる。シーズン初期のまばらな鳴き声を聞きながら、燈子はふと、あの日は蝉がよく鳴いていたな、と思った。

「あの日……?」

 燈子は首を捻った。自分の脳裏に唐突に去来したその感慨が、一体何を指しているのか分からなかったからだ。けれど。

 ――……ちゃん!

 耳の奥で、声が響く。

 ――私が、とおると……を守るの! お姉ちゃんだから!

「……ああ、そうか」

 ストンと腑に落ちて、燈子は呟いた。

 そういえば、夢を見るようになったのは先月からだ。おそらく、綾華が連れてきた迷子犬の一件が、燈子の記憶の扉を開いたのだろう。ということは最近見ている夢もまた、あの頃の夢なのだろうか。

 懐かしさとは呼べない、けれどどこか郷愁にも似た感覚を抱きながら、燈子は鯖味噌味のパンを呑み込んだ。


 *


「ねえ燈子さーん、みっちゃん来ないのー?」

「はあ?」

 寮生の声に、燈子は集会室の蛍光灯を替える手を止めた。見れば、窓際に寄せた長机の前で、数名の寮生達がこちらを見上げている。

「もうさーレポート何書いたら良いかわっかんないんだよー」

 机に突っ伏しながら言うのは、ライフデザイン学科2年の江住ひよりだ。机の上に置いたノートパソコンのキーボードに頭だか手だかが触れているらしく、文章作成ソフトの白い画面の上に「X」が大量生産されていく。

「んなもん、自分でやらんでどうすんだ」

「えー、だってえー」

「無駄無駄、燈子さんにそれは通用しないって」

 ぶつくさと言うひよりに、少し離れた席から笑う声が届く。3年の和久井咲良だ。他にも、それぞれ思い思いの位置に陣取った上級生達がうんうんと頷いた。

「毎回、誰かしらそれ言い出して、玉砕してるよねー」

「そうそう」

 集会室は、建物の北側に位置しているため、窓を開けると裏山の冷気が流れ込んでくる。真夏でも比較的涼しいため、梅雨明けのこの時期から、10月前後までは寮生のたまり場になっていることが多い。特に7月のこの時期は、学期末試験とレポートの山に追われる寮生達が、互いに過去問やノートを見せ合いながら試験勉強をするのが風物詩となっている。

「分かっててもわらにも縋りたいんすよー。マジでレポートやばすぎ」

「でもみっちゃんって、理系でしょ? 専門違わん?」

「そうそう。確か東都大の理科二だっけ?」

「マジ? めっちゃ頭良いんじゃん」

「国立大の理系院生な上に、あれだけのイケメンってどんなスペック」

「あ、ダメだ。よく考えたら、絶対顔見ちゃって勉強にならないわ」

「わかるー」

 口々に言い合う寮生達を眺め、燈子は溜息を吐いた。途中から完全に話題の方向性が変わってしまっている。

「どいつもこいつも、なんで市村アレに幻想を抱いてんだ」

 そっと漏れた小さなぼやきに反応したのは、二年生の依田七海だった。ちょうど、パソコンと資料を抱えて集会室に入ってきたところらしい。

「女子大生活で男性との接触機会が少ない上に、あそこまで文句のつけようのないイケメンだと、まあ夢も見ますよね」

「お前もか」

「あ、ちなみに私は顔よりも筋肉がいい感じにムキッとしてる人の方が好きなんで」

「知らんわ」

 何をカミングアウトしているのかと、燈子は額に手を当てた。頭が痛くなりそうだ。

 こうしてレポートやら試験勉強やらに詰まった寮生達が市村の手助けを期待するのは、もはや半期に一度の恒例行事である。お釈迦様の蜘蛛の糸ならぬ、理系院生のアドバイス。果たして、そこまで珍重されるべきものか、微妙なものだと燈子は思う。いつ現れるのかも分からない導きの糸を待つくらいなら、自力で地獄を這い出した方がよっぽど確実ではないか。

「燈子さーん、みっちゃん召喚してくださいよー」

「私に言うな」

「あ、先月のわんこの時のポスターに電番書いてたよね! 誰か!」

 ひよりの言葉を皮切りに、何人かがガタッと椅子をならして立ち上がろうとする。

「おぉい」

 さすがにそれはまずかろうと、燈子は口を挟んだ。

「悪用すんなって言われてただろうが」

「これも悪用? だめ?」

「私的流用だろ」

「……くう、だめかあー」

 再び突っ伏したひより以下、2年生達ががっくりと座り込む。その様子に、燈子は自分も期末の時期には課題を抱えて苦労していたことを思い出した。

 同じ学部の友人達と情報交換したり、上の学年から回ってくる過去問をコピーしあったり――そういえばあの頃も、市村はその場に顔を出しては、友人達のレポートの相談に乗っていた気がする。他大学生だったというのに。いやむしろあれは、友人達が課題の相談をする振りをして、粉を掛けていたというのが正しかったかもしれない。

 いずれにせよ、燈子は知らぬ存ぜぬを貫いていたのだが。

「ま、卒業したらそれもいい思い出になるって。しっかり学べよ、学生」

「えー……やだあ」

 弱々しい反論に苦笑を漏らし、燈子は蛍光灯を担ぐと、集会室を後にした。

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