6月(下)

「あれ以来でしょ? 燈子が犬だめになったの」

 管理人室に戻るや、浹が言った。

「その上、記憶もあやふやになっちゃうし、散々だったよね」

 奥の台所に向かいながら燈子は唸る。

「んーまあ犬はともかく、記憶の方はな……あれだけが理由じゃないっつーかむしろあの後がさ」

「あー……うん、それはね」

 言葉を濁す燈子に、浹も同じく苦い表情を浮かべた。


 あの件の後、燈子と浹の生活は急激に変化した。

 野犬に襲われたことを知った母が恐慌状態に陥ったのだ。それだけならば良かった。子供達が野犬に襲われたと聞けば、母親が心配をするのは当然のことだからだ。

 けれど母が心配したのは、燈子だけだった。そしてその矛先は一緒にいた浹に、そして友人に、さらには父と祖母にまで向けられた。同じ双子の片割れなのに、母は浹を心配するどころか、みすみす姉を危険にさらしたと糾弾したのだ。


 元々、母は異様なまでに燈子だけを可愛がっていた。双子のどちらも女児だと信じ切っていた母にとって、片方が男児だったことはまさに青天の霹靂だったらしい。

 女の子だけがほしかったのに、双子の女の子をお揃いの服で可愛らしく着飾らせたかったのにと、燈子たちが物心つくよりも以前から、母は毎日のようにそう口にした。それどころか実の息子である浹の目の前でも平然と、まさか私から男の子が産まれるなんて、とまで言い放つ人だった。


 それでも、あの一件まではまだ、外面的には母親の顔を取り繕おうとしていたはずだ。けれど野犬に襲われ、燈子が倒れてからは、かろうじて残っていた最後の仮面すらも失われてしまった。燈子を危険な目に遭わせたと浹を詰る母は、実の母親が幼い息子に見せるものとは思えない形相だった。


 そんな状態だったから、両親の離婚は予定よりも急速に進むことになった。

 まず、夏休みが明けるのを待たずに、父が浹を連れて家を出た――そして、燈子は母の元に残された。

「あの時はごめん、置いていって」

 苦い表情で浹が言うのに、燈子は苦笑した。もう、何十回となく聞いた言葉だ。

「何言ってんだよ」

 インスタントコーヒーを一口すすり、燈子は目を伏せる。

 浹が責任を感じるようなことではない。あの頃は、ふたりとも小学生だった。大人の庇護下になくては生きていけない子供にできることなど、そう多くはない。

「あれは、私が自分で決めたんだって言ったろ」

 あの頃、父もまた、燈子の親権を獲得しようと働きかけてくれていた。過剰に女性性を求める母の元に置いておくことは燈子のためにならないと、父も考えたのだろう。

 けれど、最終的に母の元に残ることを決めたのは――燈子自身だ。

「でもそれは」

 言い募ろうとした浹を目線で制し、燈子は微笑んだ。

「それでも、決めたのは私だよ」

 本心では、父と浹と一緒に行きたかった。母のことが怖かった。けれど、それ以上に――


 それからすぐ、両親は正式に離婚した。そして燈子は、父や浹、祖母との接触を禁じられた。

 幸いだったのは、小学校を卒業するまで浹が転校しなかったことだ。はじめは祖母の元に転居して、その近くの学校に通う案も出ていたらしい。けれど浹が頑強に反対したことと、祖母が体調を崩して入院したことで立ち消えになったのだと知ったのは、ずっと後になってからだった。

 あの時期を乗り越えられたのは、学校に行けば浹に会えたからだ。家の中がどんなに息苦しくても、学校に行けば弟がいた。胎内からともに育ってきた、かけがえのない相棒が。

 けれど、小学校の卒業と同時に父の転勤が決まり、浹は関西へと越していった。その後すぐ、祖母が亡くなったらしいが、燈子は葬儀に参列することすらできなかった。


 そうして――どうすることもできない急流に、なすすべもなく揉まれてしまった思春期の柔らかな心は、自分を守るためにさまざまなものを固い殻で覆ってしまった。感情も、記憶も。

 特に、変化のきっかけとなった野犬の一件に関わる事柄は一緒にいた友人の顔や名前も、祖母の家のあった地域がどこだったかも、一緒くたに記憶の底へと沈められてしまった。

 今になって思うに、事件の直後に失った記憶は、その後少しずつ取り戻しかけていたはずだ。けれど怒濤のような日々から身を守るために、思い出しかけた出来事の記憶は、やがて本当に消し去られてしまった。そして引きずられるように、他の事柄も失われていったのだ。もう二度と会えない友人や祖母を忘れることで、燈子の心は自分を守ろうとしたのだろう。

 そして結局、なんだか薄ぼんやりと所々が塗りつぶされてしまった、まだらな記憶だけが残った。


 *


 ピンポン、と小さなチャイムが鳴った。管理人の居住室には、管理人の私的な関係者が訪れるために寮の玄関とは別個の玄関口がある。

 燈子は無言で立ち上がり、ドアを開けた。

「お邪魔します――え、何かあった?」

 扉を潜って現れた市村が、室内のどんよりとした雰囲気に目を丸くする。

「姉弟ゲンカでもしたの?」

「いや、ちょっと昔語りを」

「……ふうん」

 ちらりと浹を眺め、市村は僅かに目元を眇めた。

「犬が苦手になった時のことをな」

「ああ、野犬に襲われたんだっけ?」

 そう言いながら、室内に入ってきた市村がかばんを置く。

「ああそう――って、お前に話してたか?」

 犬が苦手なことは知られていたが、その原因まで話しただろうか。首を傾げる燈子の様子に、鏡のように市村もまた首を傾けた。

「ん……? 浹から聞いたんだったかも」

「おーい俺に振るなよ」

 のけぞるように首を巡らせた浹の苦言は軽く流して、市村は笑みを浮かべた。

「あ、こいつ話反らす気だ」

「それはそうと、燈子ちゃん。あの犬の飼い主、見つかったよ」

「! 本当か!?」

 がたっと座卓に手を突いて、燈子が立ち上がる。傍らで「マジで話逸らしたし」とぼやく浹の声はもはや耳に届いてすらいない。

「この近くに昨日越してきたご家族でね。家財の搬入の間に、子どもが逃がしちゃったみたいだね」

 市村の話によれば、搬入作業の間、奥の部屋に置いたケージの中に子犬を入れていたのだそうだ。だが、その家の子どもが犬と遊ぼうと部屋に行き、ケージも部屋の扉も開けっぱなしにしてしまったらしい。しばらくして子どもが犬の脱走に気付いたものの、大人達は電気やらガスやら水道やらの契約対応に追われていて、探しに出るのが遅れてしまったらしい。

「今日になってからスーパーのビラに気付いたんだってさ。今から迎えに来るそうだよ」

 そう言って、市村は腰を下ろした。

 昨日、寮生達が飼い主を探すために作ったビラには、連絡先として市村の携帯電話番号が記されていた。女子寮で保護しているとなると、本当の飼い主ではない不審者が名乗り出てくるリスクがあったからだ。元々、寮生達には燈子の携帯番号を記載するように伝えていたのだが、なんであれ女性が電話口に出ない方が良いと頑強に反対する市村に根負けした結果である。

「あ、ちなみに。そのご家族以外に、不審な電話が5件。飼い主だと名乗る留守電も3件」

「何だそれ」

「いずれも、僕が電話に出た瞬間にブチッと切られて、以後着拒」

「あー、そういうヤツな」

 納得したとばかりに、浹が深々と頷く。

「昨日ビラを配って回った時点で、女子大生が飼い主を探してるってのは明らかだったからね。当然、色々寄ってくるよね」

 そう言うと、市村は燈子を振り返った。

「ね?」

 にこやかに笑う。たった一言だが、圧がすごい。

 昨日もこの笑顔の圧力に負けたのだ。燈子は返す言葉もなく、悔しげに唸った。

「まー、燈子の声なら男の声と変わらな――ってえ!」

「そんなわけないだろ。燈子ちゃんの声はちゃんと女性の声だって分かるよ。な?」

 表情はにこやかなまま、声だけを低くして市村が断言した。浹が若干涙目になっているところからして、どうやら見えないところで鉄拳制裁が下されたらしい。

「光紀のは、ただ燈子に虫が寄ってくるのが嫌なだけ――暴力反対!」

 さっと立ち上がり、浹が燈子の背後に避難する。

「燈子アイツ酷い」

「言っておくが、お前の発言もそれなりに酷かったからな」

 釘を刺しつつも、燈子自身も浹と同じように思っているのは否めない。元々低めの声質のせいで、何もしていなくても男と間違われる事が多いのだ。意図的に低い声を出せば、まず女性とは思われない。だから飼い主捜しの窓口になっても問題はないと思うのだが、この男市村ときたらどうあっても燈子を女性扱いしたいらしい。

「そもそも、寄ってくる虫自体がいないっつうのに」

「つまり光紀は虫ではないと――うぉっ!」

 戯言を吐きかけた弟へと放った裏拳は、残念ながら避けられてしまう。

「そっかあ。燈子ちゃん、僕嬉しいよ」

「勝手な解釈はやめろ! 物好きなのはお前くらいしかいないって話だ!」

「つまり光紀は特べ――」

「よし分かった浹、話し合おう」

「いえ結構ですごめんなさいオネエサマ」

 もはや最善までの重い空気はどこへやら、どうしてこうなった、と燈子は小さく息を吐いた。


 *


 それから少しして、まだ幼い子どもを連れた夫婦が子犬を引き取りにやって来た。

 主の匂いを嗅ぎつけた子犬はちぎれんばかりに尻尾を振って、飼い主との再会を喜び――それからちゃっかりと、別れを惜しむ寮生達にも媚を売って、本来の家へと帰っていった。

「ま、近所らしいし。また散歩のついでに寄ってくれるって言ってたし」

 淋しがる綾華を永津子と咲良が慰めている。それを横目で眺めながら、燈子は踵を返した。

「そういやさ」

 管理人室の方へと戻りながら、ふと燈子は傍らの弟を振り返った。

「ん?」

 斜め後ろにいた浹が、ひょっこりと横に並ぶ。

「昔、野犬に襲われたとき、私ら以外にもう一人いたよな?」

「――」

 何気なく発したその問いに、浹が大きく目を瞠った。

「……思い出したん?」

 らしくもなく、少しだけ固い声音で浹が言う。

「思い出したっつーか、。むしろその後のゴタゴタのせいで、あの辺の記憶まとめてストッパー掛かっただけで、そもそもあの頃、思い出しかけてたんだよ」

 だから、うっすらと何となくは覚えている、と言うと、浹はほんの僅かに複雑そうな表情を浮かべた。

「で? 確かにあの時もう一人いたけど、それが?」

「いや、あの子は誰だったんだろうな、と。浹は覚えてるだろ」

「……んーまあ、覚えてるけど。何、気になんの?」

 浹が問い返す。背後では、市村もまたなんとも言えぬ微妙な表情を浮かべていたが、燈子はそちらには気付かない。

「いや、そういや彼女もあの人のやり玉に挙がってたなと思って。あの後、大丈夫だったかと」

「あー、それなら別に………………ん?」

「初対面の時に、綺麗な子だなと思ったって記憶はあるんだが……同じくらいの年だった、よな?」

 後半が唐突に疑問文に変わったのは、目の前で浹が思いきり吹き出したからだ。

「……ぶふ……っ、うん、ああ、そうそう同い年」

 うんうんと大きく頷きながら、浹が返した。そのまま姉に背を向けてくつくつと笑い出す。

「あーうんそうかなるほどそりゃあまあそうか」

 笑い声の合間に何やら意味の分からない間投句が漏れてくる。何かおかしなことでも言っただろうか、と燈子が首を傾げたその時、ぬっと背後から影が差した。

「……燈子ちゃんて意外と面食いだよね」

「ああ?」

 いきなりなんだと振り仰げば、それはそれは良い笑顔を浮かべた市村がこちらを見下ろしていた。

「僕という者がありながら、そんな美少女との思い出を大事にしてるなんて」

「はああ? 寝言は寝てから言え」

「その美少女と僕とどっちがいい?」

「意味がわからん!」

 表情こそ笑顔だが、どこか不機嫌な気配を漂わせて市村が言う。悔しいが、正直言って怖い。

「よし、ちょっとどこかで僕とゆっくり話をしよう。うん、それがいい」

 言うが早いか、がしっと肩を掴まれる。そのままくるりと向きを変えられた。目指す方角は――寮の外だ。

「良いわけあるか、仕事中だっつうの!」

「浹、ちょっと頼んだ」

「……ぶ、ふふ……っ」

 未だに腹を抱えて笑いながら、浹が指先でOKサインをだす。

「ちょっと待て、何なんだほんとに」

「さあ行こうねー、帰りに雨漏り補修用の木材買って帰ろうねー」

「さりげに仕事差し挟んで誤魔化そうとするんじゃない! 肩に手を回すな!」

 抗議しつつ、半ば引きずられるようにして外へと連れて行かれる姉と旧友の背中を見送って、浹ははあ、と息を吐いた。

「なーるほどねえ、そりゃあ気付かんわ」

 小さく呟いたその耳に、微かに子どもたちの《声》が届いた。

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