5月(下)

 翌朝。燈子はいつも通り玄関先の掃除をするため、箒を担いで前庭に足を運んだ。

 日曜は基本的に管理人業務も休業ということになってはいるが、朝の掃除だけは日課のようになっていて、休むと何となく落ち着かない気分になる。

 空はよく晴れて、心地よい薫風が燈子の短い髪を揺らす。今日も気持ちの良い天気になりそうだ、と門柱へと足を進める。そこに、声が掛かった。

「燈子さん」

「寮長? どうした」

 門の外、道路側に人影を認めて燈子は足を止めた。永津子だ。いつも通りのジョギングスタイルだが、常の時間よりも少し早い。

「早いな、もう行ってきたのか?」

 軽く汗ばんだ様子から、既にジョギングを終えたらしいと踏んで、燈子は訊ねる。

「早く起きちゃったんで」

 そう答えた永津子は珍しく硬い表情を浮かべていた。その目に微かに逡巡の色が過る。そして。

「昨日はすいませんでした」

 ぺこりと頭を下げてから、永津子は苦笑を浮かべた。

「あのあとあーやと咲良にめっちゃ怒られちゃいました」

「まあ、そうだろうな」

 なにしろ、寮長自ら新入生歓迎会を潰しかけたのだ。綾華と咲良の機転で大事にならずに済んだし、会の終盤には永津子も平静を取り戻していたが。

「まあ、あの止め方はどうかと思うが」

「ほんとそれっすよね。またあの饅頭が、マジで美味しかったんすよ」

「そりゃあ良かったじゃないか」

 軽口を交わす内に、永津子の表情も段々とほぐれていく。やがて、吹っ切れたような笑みを浮かべると、燈子を見上げた。

「燈子さんも、ありがとうございました」

「私は別に何もしてないが」

「あの子のフォローしてくれたんでしょ」

「フォローってか、話を聞いただけだが」

「それでも。燈子さんがいなかったら、あの子、あの場で孤立しちゃっただろうから」

 そう言って、永津子は傍らの門柱に寄りかかる。

「――私ねー、高2の終わりで陸上辞めたんすよ」

 空を見上げて、独り言のように永津子は言った。

「夏の大会で大会新記録出したせいで、めっちゃ注目されるようになっちゃって。顧問なんかもう目ぇ血走らせちゃって、プレッシャーもんのすごかったんすよね。でもこのまま記録伸ばせれば、大学の陸上部からもスカウト来るかもとかって言われて、そんなら受験も楽かなーなんて思ってたんですけどね」

 実際、入試の免除までは行かないまでも、強豪校や中堅校の監督から声をかけられたりもしていたのだと、永津子は語る。

「でも、秋の大会の前に怪我っちゃって、あんま調子が戻らないまま予選落ちでね。結局、スカウトの話も立ち消えになっちゃったんすよ。もう監督とかうちの親とか、めっちゃへこむし、泣くし」

 苦笑交じりに言って、永津子は視線を空に向ける。

「期待に応えらんなくて申し訳ないなーとは思ったんですけど。それはそれとして、なんかほっとしちゃったんですよね」

「……」

 永津子の様子を横目で眺め、燈子は箒に軽く体重を預ける。

「それで気付いちゃったんですよね。走るのは好きだけど、オリンピックに出たいとか、試合で勝ちたいとか、そういうんじゃないんだよなーって」

 例えば走りながら見える景色とか。走り出したら、余計なことなんか全て忘れて無心になっていく感覚とか。走り終えた後の爽快感も。そういうものが好きで走っていた筈なのに、いつの間にか、競技で結果を出すことが求められるようになっていた。

 期待してもらえることは嬉しくて、でも期待され続けることを心のどこかで重荷に感じていたことに、その瞬間、気付いてしまったのだと永津子はそう言ってからりと笑った。

「だからですかね。昨日、あの子に陸上部入れって言われた時、なんか変に拒絶反応出ちゃって。あんなに熱くなるとは自分でもびっくりっすよ」

 自分ではもうとっくに昇華したと思っていたのに、と永津子は苦笑して、燈子に視線を向けた。

「折角、トールさんが警告してくれてたのに、面目ないっす」

 ヘニャリと眉尻を下げて、かりかりと側頭部を掻く。先日、浹が愛未と遭遇した後、ジョギングから帰ってきた永津子に一連の出来事を話していたのだ。

「ま、そんなもんだろ。心構えがあるから大丈夫って時ばっかりでもないし。却って、心構えがある方が反発する時だってあるんだろうさ」

「いやあ、情けないっすわ。まだまだ未熟だなー」

「学生が何言ってんだか」

 永津子の呟きに失笑しながら、燈子は箒を持ち直した。空の色は青く澄んで、刷毛で掃いたような薄い雲が上空を流れていく。

「ま、せいぜい悩めよ青少年」

「燈子さんだってまだ二十代じゃないっすか。アラサーだけど」

「――大人だろ?」

 ほんの5、6歳程の年の差が、学生と社会人を決定的に分ける。その経験の差はそれなりに大きい――はずだ、と思いたい。

 にや、と笑った燈子の冗談に、永津子が返したのは「えー」という不満の声だった。

「大人って、なんかもっと色気のあるイメージ無いっすか?」

「なんだそれ」

「ほら、なんかこう、スタイルなんかも抜群でボンキュッボンみたいな。で、髪とか掻き上げちゃったりとかして。ほらあれ、怪盗三姉妹の長女みたいな」

 提示されたのは、しょっちゅう男と間違われる燈子とは対極にあるイメージだ。そもそも掻き上げる髪もない。

「――てか、お前イメージ古くないか」

「アラサーに合わせてあげてるんじゃないですか」

「さすがに古すぎんだろ」

「分かる燈子さんも大概だと思いますけど」

「……」

 既に本題から遠く離れたくだらない応酬に、燈子と永津子はどちらからともなく吹き出した。

「ったく。くっだらないこと言ってないで、朝飯食ってこいよ」

「へーい。燈子さんは今日は休みっしょ? みっちゃんでも誘って出かければ?」

「御免被る」

「もう、素直じゃないなあ」

 からからと笑いながら、永津子が踵を返す。

「……その内、あの子ともちゃんと話しときます」

 ぽつりと言ったその背中に、燈子は声をかけた。

「――永津子」

 静かな声に、永津子がゆるりと振り返る。そんな寮長に、燈子はにやりと笑って見せた。

「綾と咲良には萬月堂差し入れとけよ」

 結局、萬月堂の割引券を手に入れ損ね、本気で悔しがっていた彩花の顔を思い出したらしく、永津子が吹き出す。

「うっす。袖の下、ダイジっすよね」

 そう言って寮へと戻っていく永津子を見送って、燈子はふう、と息を吐いた。

「さて、と。とっとと掃除すっかね」

 呟いて、燈子は箒を握り直した。


 *


 燈子が買い出しの帰りに通りがかった公園で、永津子と愛未が話しているのを見かけたのは、それからしばらく経った頃のことだった。

「――なんだ、上手く行きそうじゃないか」

 くすりと笑った燈子の後ろから、風が通り過ぎていった。

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