5月(中)

 問題が起きたのは、その翌週だった。

 その週末、寮では新入寮生の歓迎会が開催されていた。寮生達が新生活に慣れて、少しばかりホームシックにもなりがちな大型連休明けの恒例行事だ。

 夕方から始まった会はビュッフェ形式だった。今年の運営委員の一人、桐邑綾華の肝いりの企画である。食堂と集会室を開放し、各々が好きに飲み食いしながら雑談を交わしたり、運営が企画したクイズやゲームに興じたりしている。

 燈子は食堂の片隅で、寮生達の様子を横目で見ながら自らも夕食を摂っていた。新入生歓迎会は基本的に寮生の自主企画であるため、燈子が関与する部分はほとんどない。せいぜい、綾華が食料を食べ尽くさないように見張るくらいだ。

「燈子さーん」

 パタパタとやって来たのは、2年の島本なずなだった。後ろに数人の新入寮生を連れている。

「どうした?」

「お食事中すいません。燈子さんの誕生日っていつでしたっけ。あと身長」

「は? なんでまた」

「今ちょっと班ごとでクイズ大会してて。班ごとに寮にまつわる問題作って出し合うんです。なんで、マニアックな情報を集めたくて」

 なずなの説明に、なるほどと燈子は頷いた。

「8月11日。身長は174」

 特に隠すような情報ではない。あっさりとした燈子の答えを、なずなが手元の紙に書き込む。

「ご趣味は?」

「見合いかよ」

 苦笑しながら、燈子は箸を置いた。

「木工」

「それ、いつもの床や壁を直してるアレじゃないですよね」

「あれは仕事だけど、趣味の延長とも言える」

 ふうんと頷きながら、さらさらとペンを走らせたなずなは、顔を上げた。

「んー、あとは……そうですね、好きな人のタイプは?」

 唐突な問いに、ぐっと燈子は言葉に詰まった。

「……それを知ってなんか利があるか?」

「うちの班がクイズ大会の賞品をゲットできます。萬月堂の割引券」

 真面目くさってなずなが答える。萬月堂というのは、もっちりとした皮にぎっしり詰まった餡が人気の大判焼き屋だ。寮からほど近く、寮生達のおやつとして長年親しまれている店である。

「綾華先輩が知らない情報じゃないと、勝てないじゃないですか」

 なるほど、大判焼きが掛かっているせいで綾華が本気モードに入っているらしい。

「ったってなあ――」

 と視線を上げた先に、ひょっこりと日本人形のような顔が現れた。

「ふっふふ、なーちゃん。そんな問題、屁でもない」

 ひょこっと背後から声をかけた綾華に、なずながぎょっと目を見開いた。

「綾華先輩、いつの間に……」

「ちっちっち」

 にやりと笑いながら、綾華は人差し指を立てて左右に振る。

「燈子さんの好きなタイプなんて、わかりきってますよ。ねえ?」

「……何を言うつもりか知らんが、お前の憶測は120%間違ってるからな、綾」

 溜息を吐いて燈子は言った。ついでに、脳裏にほんの一瞬浮かびかけた面影を追い払うように首を振る。そんな燈子をよそに、綾華はくふふとおかしな笑い声を上げる。

「むしろ、誰も知らないマニアックな情報と言えば」

「言えば?」

「おい、敵方に情報漏れてるぞ」

 思わず突っ込んだ燈子の言葉は右から左に流された。

「やっぱりトールさんか、みっちゃん関係でしょ」

「……寮の情報だよな?」

「マニアックな」

「そうマニアックな」

 うんうんと頷き合うなずなと綾華は、既に敵チーム同士だということを失念しているらしい。

 それどころか、各班のメンバーも――浹や市村とはまだ会ったことのない新入生を除いて――やけに前のめりになっている。なんなら、説明を受けた新入生達までもが期待に満ちた眼差しをこちらに向け始めたのは、一体どういうことか。

「あいつらは部外者だろうよ……」

「何言ってんですか、我らが寮生活になくてはならない癒やしですよ」

「お前らがそうやって甘やかすから、あいつらが調子に乗るんだ」

 はああ、と燈子が長々とした溜息を吐いた、その時だった。


「はあ? 勝手なこと言わないでくれる?」

 唐突に、酷くとげとげしい声が空気を凍らせた。

 集会室の方からだ。燈子は何事かと声のした方に首を巡らせ――眉を険しく寄せた。

「えっちゃん?」

 集会室の入口辺りに永津子が立っている。いつも朗らかなその顔に、怒りの色を浮かべて睨むように見据える視線の先にいるのは――愛未だ。驚いたように目を丸く見開き、ふるふると震えている。

 しまった、やらかしたか。何よりもまず、燈子はそう思った。先日の一件が脳裏を過る。この数日、なるべく気をつけていたつもりだったが、まさかこの場でとは。それも、燈子が意識を逸らしたこのタイミングで。

 まず間違いなく、愛未は永津子に陸上部への入部を勧めたのだろう。永津子の反応を見る限り、やはり安易に振って良い話題ではなかったようだ。

 とはいえ、今この場で事を荒立てるのはあまりよろしくない。なにしろ、全寮生がいる場なのだ。早めに介入しようと燈子が立ち上がるよりも早く、綾華がさっと踵を返した。

「でも――」

「悪いんだけど、正直余計なお世話だよ」

 何かを言い募ろうとした愛未の言葉を遮るように、永津子が言った。

「あんたの自己ま――」

 冷ややかな声は、しかし途中でもごもごとくぐもった。さっと駆け寄った綾華が、手にしていた饅頭を永津子の口に突っ込んだからだ。

「えっちゃんえっちゃん、ちょっとこの饅頭美味しすぎ、食べとかないと損ですよ」

 永津子の口に容赦なく饅頭を詰め込んで、綾華が笑う。その止め方はどうだろうと、その場にいた全員の思いが一致したことは間違いない。

「もがががもごもももまがが」

「もっと食べたいと! ならばあっちへ!」

 明らかに文句を言っている様子の永津子を半ば無理矢理に引っ張って、綾華は食堂へと戻ってくる。入れ違いに、燈子が集会室に向かう。とりあえずもう一人、回収しなくてはならない奴がいる。

「あらまー、寮長さらわれちゃったねー。じゃあとりあえず七海がリーダーやって。それからそっちのグループは、瑞姫よろしく」

「はーい、じゃあみんな次のネタ探しに行くよー」

 集会室では和久井咲良が、永津子と綾華のチームの2年生にリーダー代行を指示している。まるでトラブルなど起きていないというような、さらりとしたその対応に、戸惑いながらも1年生達が動き出す。

 その流れの片隅で茫然と立ち尽くしたままの愛未に、燈子は声をかけた。

「愛未、ちょっとおいで」

 肩を押して廊下に出ると、そのまま玄関脇の寮監室へと連れて行く。外から見えにくいように窓口のロールカーテンを半分下ろしてから、燈子は愛未に座るように促した。

「何か飲むか?」

 燈子の声に、愛未が小さく首を横に振った。それを見やり、燈子は壁に軽く凭れかかる。安物のオフィスチェアに腰掛けた愛未は、見るからに意気消沈した様子で自分の爪先辺りに視線を落としている。

「――」

 今このタイミングでは何を言っても野暮になる気がして、燈子は黙ったままその様子を眺めた。敢えて説教しなくても、永津子から明確に拒絶されたことが何よりの薬になったはずだ。

「なんでですか」

 愛未が小さく呟いた、独り言のようなその言葉に燈子は片眉を上げた。

「何が」

 短い問いに答えは返らない。溜息を吐いて、燈子は言葉を綴る。

「こないだも言っていただろう、寮長が自分で決めたことなんだからって。いくつもの選択肢の中から一つを選び取った以上、それなりの理由があったはずだろ。それは選んだ本人にしかわからんさ」

 そう言うと、燈子は俯いたままの愛未を見やる。

「そもそも、なんでそんなに寮長を走らせたがる?」

 燈子の問いに、答えはすぐには返らなかった。

 窓口の片隅に置かれたデジタル時計が、無言の時を計り続ける。

「……私、中三の頃、あんまり学校行ってなかったんですよ」

 ぽつりと愛未が独白を漏らしたのは、時計が7分ほども経過した頃だった。

「クラスの子達と上手くいかなくなって、学校行っても一人だったから、行きたくなくて」

 前方に投げ出した自分の爪先を眺めながら、言葉を綴るその声はとても暗い。

「そんなときに、陸上の大会に行ったんですよ。イトコが出るからって、親に無理矢理連れてかれて。そこに木島先輩も出てて」

 スタートの合図で一斉に走り出した選手達の中、誰よりも速くトラックを駆け抜けていったのが永津子だった。そのずば抜けた早さに、目が釘付けになった。2回戦では、そのしなやかで無駄のないフォームに息を呑み、気付けば名前と所属する高校を確認していた。

「その時の大会は、先輩、準決勝で敗退しちゃったんですけど」

 ほんの僅かな差で勝ちを逃した永津子は、試合が終わった直後だけ、なんとも悔しそうな表情を浮かべ――しかし、背後からチームメイトに話しかけられた瞬間、がらりと表情を変えて笑ったのだという。その笑顔が鮮烈な印象を残したのだと愛未は言った。

「だって、さっきまでほんとに悔しそうだったんですよ。なのに、そんなの全然見せなくて、ああこの人、すごく強い人なんだって、すごいなあって思ったんです」

 それから、愛未は陸上選手の従兄から情報をもらっては、足繁く陸上大会に足を運ぶようになった。

「先輩が走ってるところ見ると、元気になれるっていうか。私もあんな風に悔しくても笑ってられるようになりたいって思って。それで、学校にも行くようになって、だから」

 先輩には走っててほしかったんです、と蚊の鳴くような声で愛未は呟いた。

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