5月(上)

※7/25 次回更新の分量の関係上、続きの部分を書き足しております。



「はあ?」

 思わず出た声は、自分で思っていたよりも詰めたく、鋭く響いた。

「勝手なこと言わないでくれる?」

 まずいと思いながらも、波立った気持ちは容易に収まらず、止めるよりも先に言葉が零れる。

「でも――」

「悪いんだけど、正直余計なお世話だよ」

 何事かと、周りの視線が集まる。さっきまでざわざわと騒がしかった室内が静まりかえったことに、これは本気でまずいと思うのに、止められない。

「あんたの自己ま――」

 だが、永津子が感情のままに言い募ろうとした言葉は、唐突に口の中に突っ込まれた饅頭によって阻まれた。

「えっちゃんえっちゃん、ちょっとこの饅頭美味しすぎ、食べとかないと損ですよ」

「――」

 ぎゅうぎゅうと口の中に饅頭を押し込んでくる綾華は、それはもう満面の笑みを浮かべていて。

 思わず「あんた空気読めてる?」と発した言葉はしかし、口内の饅頭によって「ふがふが」という謎の音の羅列にしかならなかった。


 *


 国内が行楽に沸いた大型連休の最終日。五月晴れの澄んだ空が、早朝から爽やかな風を運んでくる。

「燈子さーん、おはようございます!」

 玄関先を掃除していた燈子は、その声に顔を上げた。見ると、寮の玄関から木島永津子が出てくるところだった。

「ああ、寮長か」

「燈子さん、早いっすねー」

 そう言う永津子も、休日の学生としては十分早起きだろう。

「毎日、よくやるな」

「梅雨に入ったら走れなくなるし、今のうちにと思って。じゃ、行ってきまーす」

 そう言い残して、永津子は外へと駆け出していく。日課となっているジョギングだ。高校までは陸上部に所属していたという永津子は、晴れている日はほぼ毎日のように、朝食前に走りに行っている。

 軽快なリズムで遠ざかっていくその背中を見送ると、燈子はまた掃除に戻――ろうとして、再びその手を止めた。

 寮の玄関に、人影が佇んでいる。見れば、それはこの春に入寮したばかりの1年生だ。

「どうした?」

 声をかけた燈子に、その新入寮生はピクリと肩を揺らす。

「あ、あの」

「ん? 何かあったか?」

 竹箒を片手に近づいた燈子に、新入生――佐藤愛未あみ、確か教育学部の1年生だったはず――がちらりと上目遣いで表情を伺う。

「木島先輩は――」

「ああ寮長に用があったのか。一時間もしたら戻ってくるから、朝食の後にでも声かければいいよ」

 永津子のジョギングコースは決まっているらしく、毎日ほとんど同じ時間に戻ってくる。などと言えば何ということもないようだが、言うは易く行うは難し。それだけペース配分が安定しているということで、走る趣味など毛頭ない燈子から見れば、大したものだと思う。

「あの、寮監さん。木島先輩、なんで陸上部に入ってないのか、訊いてますか?」

 内心で寮長に感心しつつ掃除に戻りかけた燈子に、愛未が声をかける。固い語調とやけに前のめりな姿勢に、燈子は表には出さず内心で首を傾げた。

「さあ。大学の部活なんか、そもそも必須でもないしな」

「でも! 木島先輩みたいな人が部活に入らないなんてもったいなさすぎます」

「……なんだ、寮長のファンかなにかか?」

 唐突な熱弁に訝しさを覚え、燈子は僅かに上体を引いた。入寮からひと月あまり。この寮生とはこれまであまり話したことがなかったが、どうやら思い込みの強いタイプのようだ。

「はい!」

「……」

 含みを込めたはずの問いに元気な声が返る。あちゃー、と燈子は表面上はそのままに、心の中で頭を抱える。だがそんな微妙な反応にも気付かず――あるいは気付いていても気にしていないのか、だとしたら大物だ――、愛未は両手を握りしめて語り始めた。

「木島先輩ってすごい人なんですよ! 女子短距離の県内最速記録持ってて高2のときには県の強化選手にも選ばれてるんです!」

「……ほお、そうだったのか。なんだあれか、おまえも陸上部だったわけな」

「いいえ! あ、今は陸上部のマネージャーやってます!」

「お、おう、そうか」

 何というか、会話のテンポが――いや熱量が釣り合わない。いやそもそも向いている方向自体が違う気がする。

「私ほんとは、先輩と同じ高校に入って陸上部のマネージャーやりたかったんですけど入れなかったんですよでも大学来たら木島先輩がいてしかも同じ寮で! 私感激しちゃってだったら先輩はきっと陸上部だろうから今度こそって思ってマネージャーになったのに木島先輩部活やってないみたいで!」

「………………ちょっと待とうか。一旦、落ち着け」

 嘆息と共に頭を抱えたい衝動をどうにか堪え、燈子は愛未に掌を向けて制止する。

 今、途中から完全にノンブレスだったよな、読点あったか? いやなんなら句点もなかったよなと内心で呟く己を戒め、これはちょっと――いや大分――手強そうだぞと直感が囁くのもついでに抑えて、燈子は努めてゆっくりと口を開いた。

 トラブルの予感がひしひしとこみあげる。とりあえず、情報を整理しておいたほうがいい。

「つまり、寮長の熱狂的なファンなわけだ。この大学に来たのは偶然、でいいのか?」

「はい! 先輩ならきっと陸上の強豪校に進学してると思ってたので!」

「寮に入ったのも、偶然と。ちなみに、大学以前に寮長と面識は?」

「いつも大会で見てました!」

「いやそうじゃなくて。話したり、自己紹介したりとか」

「ありません!」

「……あー……」

 今度こそ、額に手を当てて燈子は天を仰いだ。これはかなりまずい展開かもしれない。

「……まさかとは思うが、入部を勧める気じゃなかろうな?」

「もちろん勧誘しますよ。だってもったいないじゃ――」

「やめとけ」

 皆まで言わせず、燈子は言った。当然のこととして熱弁していた愛未がきょとんとした表情を浮かべて燈子を見上げる。

「お前の熱意はよく分かったが、それを本人にぶつけるのはやめた方がいい」

「何でですか」

 予想すらしていなかったのか、心底不思議そうな声音で愛未は訊ねた。その表情には、うっすらと憤慨したような色も見える。

 頭をがしがしと掻いて、燈子は小さく息を吐いた。

「理由はいくつかあるが、そうだな。まず寮長は3年で、もうすぐ就活に向けた準備に動き出す時期だ。もう丸2年陸上部とは無縁だったんだ、今から入部してもブランクを取り戻す前に就活が始まって部活どころじゃなくなるだろう」

「大丈夫です! 大会で結果を残せば、企業のオファーだってあります!」

「いやだから、ブランクがあるだろうよ」

「大丈夫ですよ、だって毎朝走ってるじゃないですか」

「んんー……」

 だめだ、話が通じていない。果たしてこれは、どうしたものか。ついに、燈子の眉間にうっすらと皺が刻まれた。

 ファン心理、というやつだろうか。口調からして、永津子が愛未にとって高校時代の憧れの的だったということは、それはそれでよく分かる。そんな相手と同じ寮で暮らすようになって、つい気持ちが浮ついてしまうのも、まあ――少々度を過ごしているきらいはあれど――理解できないことではない。

 けれど、それとこれとはまったくの別物だ。

 少なくとも燈子は、永津子がここに入寮したばかりの新入生の頃から、彼女が大学で陸上部と接触したという話は聞いたことがない。毎朝、日課のジョギングをしているのは知っているし、高校までは陸上選手だったというのも聞いたことはある。だが、それだけだ。

 毎日走るくらいだから、走ること自体は好きなのだろう。けれど――だからこそこの2年間、一度も陸上部と関わってこなかったことがひっかかる。

 愛未が言うように、記録を保持しているほどの優秀な選手だったのならば、なおさらだ。

「たとえば、だぞ。怪我をして競技をやめたっていう可能性だってあるだろう」

「そんな話聞いたことないですし、もし怪我してたとしても、今は走れてるんだし」

「………………」

 会話がかみ合わなすぎて、そろそろ叫びたくなってきた。そんな思いを抑え込み、燈子は眉間をもみほぐす。

 軽いジョギングはできても競技に耐えないということだってあるだろう。いずれにしろ繊細ナイーブな問題だ。触れられるのは、ごく近しい距離の者か、百歩譲って高校で同じチームに所属していた者くらいだろう。そのいずれでもない、ただのファンが安易に触れていい話題ではない。

 とにかく、このまま愛未が永津子本人に突撃する事態だけは回避したい。だが、何と言えばこの娘に通じるのだろうか。

 眉を寄せて考え込む燈子は、視界の端に何か動くもの――裏庭の方へと駆けていく少年の姿――が映ったことにも気付く余裕がなかった。


 そこに。

「――どーかしたんー?」

「うお!?」

 俯き加減で言葉を探していた燈子は、顔のすぐ脇から、唐突ににゅっと顔が生え――いや、覗き込んできたことに驚いて軽くのけぞる。視線の先では、自分と同じ顔がこちらを見つめていた。

とおる

「おはよー」

 二卵性双生児の弟は、にやりと人の悪い顔でそう言うと、愛未へと視線を向けた。

「あれ、初めましての子だね。新入生?」

 浹が問うが、その声は耳に届いていない様子で、愛未は目の前に並ぶ二つの顔を見比べるのに忙しい。ひとしきり眺めた後で、得心がいったように大きく頷いた。

「寮監さん、双子だったんですね!」

「あ、ああ。弟の浹だ」

「どうもよろしく!」

「弟さんですか! てことは寮監さん、元は男性の方だったんですね」

 ぽん、と手を打ちそうな勢いで飛び出した言葉に、燈子はとうとう頭を押さえた。

「………………なんでそうなる」

「だって、同じ顔ってことは一卵性ですよね、あ、もしかして弟さんの方が元女性ですか」

「あはは、何この子。めっちゃ失礼だね?」

 続けざまに放たれる愛未の暴言に、浹がにこやかに返す。表情こそ満面の笑みを浮かべているが、声には隠しようのない険がある。

 まずい、と慌てて燈子は口を挟んだ。

「残念ながら、二卵性だよ」

 このまま浹に対応させていてはいけない。この弟は基本的に快活ないわゆる「陽キャ」だが、自分や周囲の者に無礼を働く相手は完膚なきまでに叩き潰す男だ。

「トール」

 燈子の声に、浹がちらりと姉を見やる。

「……はいはい、仕方ないなぁ」

 わざとらしく溜息を吐くと、浹は改めて燈子と向かい合う。

「で、何か深刻そうな顔してたけど、どうしたん?」

「いや――」

 わし、と前髪を掻き上げて燈子は言葉を濁す。寮生のプライバシーにも関わる問題だ、弟といえど、部外者に漏らすわけに――

「木島先輩に陸上部に入ってもらうにはどうしたらいいかって話してました!」

「………………ぅぉおい」

 なぜ初対面の相手に軽々しく説明してしまうのだ。しかも既に若干歪曲されている。

 今度こそ、がっくりと膝から崩れ落ちた燈子に哀れみの籠もった眼差しを向け、浹は肩を竦めた。

「木島さんねえ。何でまた」

「先輩はすごい選手なんです!」

 両手に拳を握り、愛未が立て板に水のように説明を始める。いい加減黙ってくれと言いたいのをぐっと堪えつつ、その暴走を止めんと燈子が立ち上がったところで、浹が口を開いた。

「で? だから?」

「――え」

 息継ぎの僅かな隙に差し挟まれた、その冷ややかなひと言が、場の空気を凍らせた。

 まずい、と燈子は弟の顔を見る。見上げた弟は、それはそれは良い笑顔だった。

「木島さんが高校時代に優秀な選手だったのは分かった。で、それが今の彼女に何か関係ある?」

「だから――」

「君のは、個人的な感情を他人に押しつけてるだけでしょ。はっきり言って迷惑だね」

 にこやかな笑顔からブリザードのように冷え切った言葉が飛んでくる。その落差に、愛未もさすがに唖然とした様子で浹を見上げた。

「な――なんで、そんな酷いこと言うんですか」

 それでも口を閉じないのは、もはや意地なのか。恨みがましい視線を向ける愛未に、浹は小さく溜息を吐いた。

「大学生ってさ、もう成人だよね」

 軽く肩を竦めて、浹が続ける。

「投票権だってある。それって要は、自分で物事を判断して意思決定できる大人だってことでしょ。陸上部に入るかどうかは、『大人』である木島さんが自分の意思で決めたことだ。なら、赤の他人がああだこうだ言うようなことじゃないと思うけど?」

「……」

 ふるふると――いや、わなわなとか――握った拳を震わせながら、愛未が浹を睨み上げる。睨み合う両者を眺め、燈子は頭を抱えた。

 ああ、やってしまった。何とか穏便に収めたかったのに、これでは収まるものも収まるまい。

 案の定、愛未は目を怒りに潤ませた。何か言いたげに口元をもごもごと動かす。だが。

「……もう、いいです!」

 結局、ぷいっと顔を背けてそう言い捨てると、愛未は寮へと戻っていく。その背中からは怒りのオーラとしか言いようのないものが立ち上っていた。

「…………浹」

「あー、ごめん」

 じとりと睨む姉の視線に、浹が苦笑交じりに頭を掻いた。だが騙されてはいけない。これは少しも悪いと思っていない顔だ。

「どうしてくれるんだ。何とか丸く収めようと思ってたのに」

「アレは無理っしょ。人の話聞く気がこれっぽっちもないし」

 これぽっち、と示した右手の親指と人差し指はぴったりとくっついていた。ゼロ以下かよ、と溜息を吐いて燈子はガリガリと頭を掻く。

 どう考えても、この先こじれる予感しかしない。どうしたものかと唸っているところに、永津子がジョギングから帰って来た。

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