4月(下)

 翌日の昼前、燈子はさっと身支度を調えて外に出た。寮生達はほぼ出払っており、宅配便が届くといった話も聞いていない。早めの昼休憩として小一時間程度留守にしても問題の無い時間帯だった。

「――燈子、こっちー」

 ぶらぶらと散歩がてら歩いて近所の公園にさしかかったところで、聞き慣れた声が耳に届く。その方向を見やると、遊歩道沿いのベンチから浹が手を振っていた。その隣には、市村の姿も見える。

 この辺りでは比較的敷地面積の広い公園だ。子ども向けの遊具の置かれたエリアの脇には、高いフェンスで囲まれた球技用の砂地エリアがあり、さらに奥の方には小規模な芝生エリアもある。敷地全体をぐるりと取り巻くように走る遊歩道は、さくらの並木が今や見頃を迎えていた。

「時間通りだねー。さすが燈子」

 向かい合うベンチの間に設えられた木製の机の上には、スーパーで購入したとおぼしき惣菜が並べられている。

「何で酒まで買ってきたんだ。昼だぞ」

「花見と言えば酒でしょ。俺ら今日は予定ないもん」

「……この自由業どもめ」

 唸りながら、燈子は手提げ鞄からタッパーを取り出した。

「お、美味そう。燈子の手作り――じゃないね」

「うるさいわ」

 見た目のバランスも美しく詰められた中身に、浹がにやりと笑う。

 実際、これは食堂に勤める調理師一同からの差し入れである。朝方、朝食の準備を手伝いながら、何気なく花見の予定を話したところ、いつの間にか準備されていた一品だ。冷蔵庫の余剰食品で作り直したとは思えない立派な仕上がりに、むしろ申し訳ない気持ちすら沸き起こる。お返しに何か和菓子でも買って帰ろうと燈子は秘かに決意を固めた。

「燈子の料理はなんていうか、漢の料理って感じするもんね」

「繊細さがなくてわるかったな」

「え、でも燈子ちゃんのご飯、味は美味しいよ?」

「……光紀、それはフォローのつもり?」

「え、あれ?」

 口々に好き勝手なことを言い交わしながら、飲み物を手に取り――燈子はやむなくソフトドリンクを選んだ――乾杯を交わす。

「いやぁ、しかし見事だねえ」

 缶ビールを一気に呷って、浹が頭上を見上げた。よく晴れた青空に、薄桃色の花弁が映える。遊歩道に沿って一定の間隔で並んだソメイヨシノはどれも満開で、さわりとそよ風が吹く度、梢が風の通り道を可視化する。

 数ある桜の種の中でも、ソメイヨシノは江戸時代に作られたといわれるクローン種だ。同じ時期に一斉に咲いて散る、その光景の華やかさ故に明治以降、河川敷などの醸成時に好んで植えられるようになり、いつしか桜の代名詞となったという。

 今こうして見上げていても、満開の花弁が春の空を埋め尽くすその光景は、感嘆符なしには語れないほどの美しさだ。

 視線を巡らせると、他にも何組か、同じようにベンチに座って花見をしている人々がいる。平日の昼間ということもあって、母子連れ、高齢者のグループが多い。いずれも、頭上を一心に見上げたり、梢にスマートフォンを寄せて写真を撮ったり、ひらひらと散る花びらを追いかけたりと、思い思いに花見を満喫している様子だった。

「燈子は今夜も花見なんだっけ?」

 浹の言葉に、燈子はいや、と首を振った。

「寮生連中の花見に寮監が参加しないだろ」

 管理側の人間が入ることで彼らに気を遣わせるのもどうか――実際に遣うか否かはさておき――というのは建前で、若い連中のノリに合わせるのは疲れるというのが本音である。

「……なー光紀―。うちの姉貴がどんどん老成していくんだけど」

「燈子ちゃんはそういうところが可愛いんじゃない」

「燈子ー、光紀の目がおかしいんだけど」

「それはいつもだ。あと、お前はそろそろ大人になったらどうだ」

 缶ビール1本で酔ったのか、それとも空気に酔ったのか。いつにも増して緩い雰囲気を醸し出し始めた弟に冷たい視線を送り、燈子はペットボトルの緑茶を飲み下す。

「俺は十分オトナですぅー。それはそれとして、夜桜も良さそうだよねー。裏庭の桜、立派だもんねー。山桜系だよね、多分」

 浹の言葉に頷きかけて、燈子ははた、と首を傾げた。

「昨日も思ったが……、なんでお前裏庭の桜の存在知ってんだ」

「………………あ」

 姉の問いに、浹が動きを止める。視線が小刻みに左右に振れ――救いを求めるように隣に座る市村へと向けられる。

「いや、僕に助けを求められても」

「……さてはお前、こっそり裏庭に入ったな?」

 姉の声が一段低くなるのを聞き取るや、浹の視線がさらに泳ぐ。誤魔化すように両手を顔の前に掲げてぶらぶらと振り始める実弟を、燈子は胡乱げに見やる。

「違うって! あー、えーと外から塀越しに見えるんだって」

「残念ながら、桜の背後は山だ。外からは見えん」

 容赦ない燈子の追い打ちに、浹はあわあわと言葉にならない音を発する。

「あー、ええと、うー……光紀―!」

「だから僕に助けを求めるなよ」

「冷たい! 燈子、こいつ冷たいよ!」

「知らん」

「こんな時ばっかり息ぴったり! この仲良しカップル!」

「仲良くはないし、断じてカップルではない!」

「ええ、酷いなあ」

「うるさいわ」

 それぞれが好き勝手なことを言い合いながら、口々に食べ物を摘まみ、飲み物を口にする。もはや花見という当初の目的は失われてはいるが、それをつっこむ者ももはやいなかった。


 *


 穏やかな夜だ。

 澄んだ空に浮かぶ十六夜の月が、銀色の光を地上に投げかける。その真下には、濃淡の影も色鮮やかに満開の桜が枝を揺らしている。

「ま、こんなとこか」

 時刻は21時半。時間通りに花見の宴をお開きにして片付けを終えたとの報告を受けて、様子を見に来たところだ。ざっと見たところ、ごみも落ちていないようだし、後は明るくなってからでも十分だろう。

 見上げると、月光を透かした桜の花びらがさわさわと揺れる。濃紺の夜空にくっきりとしたコントラストを描く花びらは、日中とはまた異なる色合いに光って、美しい。

「――綺麗だねえ」

「ああ……………………うぉ!?」

 傍らから聞こえた声にナチュラルに応じてから、違和感に気付いて傍らを振り返り――燈子は頓狂な声を上げて飛び退いた。

「な、なななんでお前が?」

「ん?」

 同様のあまり上擦った声に小首を傾げたのは、市村だった。ここにいるはずのない人物の出現に文字通り跳び上がるほど驚かされたわけだが、咄嗟に声を絞った事だけは褒めてもらいたい。

 近隣住民の皆様にご迷惑をおかけしない。寮監の鉄則である。

「浹がこっちだろうって言うから、探しに来た」

「探しに来たって……こっちに入って来んなよ」

「建物には侵入してないよ」

「敷地内にはちがいなかろうよ」

 大体こちら側には、寮生達の部屋の窓が向いているのだ。今はまだ、ほとんどの寮生が集会室で二次会と称した懇談会を続けているから、灯りの点っている窓はないけれど、もし誰かが窓を開けでもしたら大問題が勃発するではないか。

 そう言うと、市村は軽く眉を上げてから意味ありげに微笑んだ。

「大問題って、僕と燈子ちゃんのロマンスが噂になっちゃうってこと?」

 ふわりと視線が絡む。くらりと揺らぎかけた空気を、燈子は首を振って交わした。

「――アホか。減数分裂からやり直せ」

「……減数分裂って」

 ぶは、と市村が吹き出した。苦し紛れに吐いた捨て台詞がどうやらツボに入ったらしく、声を殺して爆笑し始める。その様子に溜息を吐くと、腹を押さえてひいひいと苦しそうな音を上げる男の腕を燈子は掴み、ぐいと引いた。

「ほら行くぞ」

「ちょ、待って待って」

 まだ笑いが止まらないらしく、腹を抱えながら追ってくる市村を引きずるように、燈子は足を速めた。


 その背後にぼんやりと、桜を見上げる一人の――いや、何人かにも見える――女学生の姿が浮かび上がり、そしてその横を半ズボンを穿いた少年の姿が駆け抜けたことに気付いた者は誰もいなかった。

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