6月(上)

 とんてんかん、と釘を打つリズミカルな音が辺りに響く――と、それが不意に崩れて止まった。

「だあぁーっちいなあもう!」

 流れ落ちた汗が目にしみる。それを乱暴に拭って、燈子はぼやいた。

 蒸し暑い。とにかく蒸し暑い。気温はそこまで高くないはずだが、じんわりと身体にまとわりつくような湿気が鬱陶しい。ましてや通気も悪く埃臭い屋根裏とくれば、不快指数も突き抜けるというものだ。

 溜息を吐いて、燈子は屋根を眺めた。膝を突いた状態の燈子の目線と同じ高さに、雨漏りで腐りかけた屋根材がある。視線を移せば、同じような状態の箇所があちこちに見えた。

 数日前に九州が梅雨入りし、この辺りももういつ何時、梅雨入りしてもおかしくない。とくれば、老朽化の進んだこの寮における最優先事項は、雨漏り対策である。何しろ、普段から降雨時にはどこかしら雨漏りの起きる建物だ。長雨ともなれば、全ての部屋が使用不可能となっても不思議はない。

「……ったって、こんだけ腐ってちゃあな」

 屋根材が腐って穴の空いている箇所は、とりあえず腐った部分の木材を外し、中に防水シートを広げ入れてから、新たな木材を打ち付けて時間稼ぎをする。さほどダメージが深刻ではない箇所は、打ち付けた釘から垂らした紐を小さなバケツの中に入れ、さらにバケツの中に吸水シートを入れて凌ぐことにした。

「ほんとは業者呼んだ方が良いんだけどなあ」

 雨漏りのそもそもの原因は屋根本体の老朽化だ。築100年以上とも言われる寮の屋根は、古式ゆかしい天然スレート葺きである。プレート様に割った天然の岩石を連ねた屋根は、本来であれば防水性と耐久性に長けるといわれている。実際、明治時代に建設された文化財建築の天然スレートを見れば、それらが今なお健在である事は一目瞭然だ。ただしこの寮の場合、まともにメンテナンスをせずに長い月日が経過してしまったせいで、ところどころ石が割れ、その隙間から雨水が浸入してしまうのだ。

 本来ならば、きちんと足場を組んで根本的な修繕をするべきだ。建築を学んだとはいえ、実地の経験に乏しく、作業を分担する仲間もいない燈子一人ではできない作業もある以上、業者を呼んできちんと修繕してもらう方が良い。

 だがセメントを使った化粧スレートやガルバリウム鋼板の屋根が普及した昨今、天然スレート葺は修理するにも吹き替えるにもコストが掛かる。ましてこれほど野地の木材が腐っている、一般家庭よりも広い建物となれば、修繕費用は推して知るべし。実際、過去に一度だけ見積もりを取ったこともあるが、それを添えて大学事務に提出した書類はあっけなく突き返されて終わりだった。

 それ以降、梅雨や台風の度に、こうして燈子が屋根裏に上がって応急処置を施しているというわけだ。

「まあ、もうあと10ヶ月ほどだし、なんとか凌ぐしかない、か」

 どうせ来年の春にはお役御免になる建物である。もしかしたら文化的な価値が見直されて修繕のち再活用される可能性もないではないが、この感じだと取り壊しが決まっているのだろう。ならばなおさら、修繕のコストなど掛けはすまい。

「まったく世知辛いこった」

 単純に建築時期や造りだけ見れば、文化的な価値の高い建造物なのだ。けれどその維持にはコストが掛かる。いっそクラウドファンディングでも提案するか、など半ば現実逃避のようなことを考えながら、燈子は金槌を握り直した。


 *


「とーうこさーん、どこですかあー」

 大きな声が聞こえてきたのは、それから小一時間ほども経った頃だった。二階の東側はひとまず応急処置を終え、一度休憩するかと思っていたところだ。

 屋根裏から出て、タオルで汗を拭きながら声の主を探す。

「とーうこさーん」

 どうやら外から聞こえてくる声は、綾華のものだ。珍しいなと思いながら、燈子は階段を降りて外へと向かう。

「どしたー?」

 外履きをつっかけて前庭に出る。走る少年の《記憶》の脇をすり抜け、角にさしかかったところで燈子は急ブレーキを掛けた。

 その足音に、こちらに背を向けていた綾華が振り返る。

「あ、燈子さん!」

 こちらを向いた綾華の腕の中のそれに目が釘付けになる。同時に、思わず足が半歩後ずさった。

「ちょ、待て、綾、なんだそれ」

「犬! 子犬!」

 片言になる燈子に対し、綾華もまた、それはそれは良い笑顔とともに、片言で答えた。同意するように、腕の中のそれ――おそらくはゴールデンレトリバーの子犬だろう――がワン!と吠えた。

「犬なのは見りゃ分かる! なんでここにいるんだって訊いてんだ」

 そう返して、燈子ははっと息を呑んだ。

「まさか食う気じゃ」

 この春には寮に迷い込んだタヌキを捕まえて食べようとしていた娘だ。ころころとした子犬を見ておやつだと認識した可能性も捨てきれない。

「いやさすがに犬は食べませんよー。そりゃチャンスがあれば人生で一回くらいはとは思いますけど」

「食う気じゃないか」

「こんな可愛い子は食べませんて。ほら、見てくださいもっふもふー」

 と、綾華は両腕を伸ばし、ずずいっと子犬をこちらへと差し出した。

「ちょ、ま、おい」

 綾華の両手の中に収まった子犬の小麦色の毛並みはふわふわと豊かに風にそよぎ、それは触り心地が良さそうな気配を見せている。まだ月齢も低いのだろう、小さな身体と短い足は全体のフォルムを丸っこく見せているが、それとこれとは話が別だ。

 ずいっと目の前に差し出された子犬は、目をきらきらと輝かせて燈子を見上げた。小さく濡れた鼻先をひくひくと動かしながら、燈子の顔に向けて興味深げに首を伸ばす。

 ひっと引き攣った声が出そうになる。それを押しとどめたのは、ひとえに意地だ。寮生達に、犬が苦手だなどと知られてなるものか。その一心で、燈子は下がりかけた踵を引き戻す。

 だが。

「待てといっとろーが!」

 少し大きな声を出した瞬間、ワン!と大きく子犬が吠えた。もともと腰が引けていたこともあって、その瞬間、反射的に後ずさりかけた燈子の足がもつれる。

「う、わ!?」

 た、た、とステップを踏むように踏ん張った両足は、しかし三歩目で砂に取られてじゃり、と滑った。

 ぐらりと上体が傾いだ。まずい、と転倒を覚悟する。

「……?」

 だが、勢いよく倒れかけた身体は、とん、と軽い衝突感とともに止まった。ふわりと爽やかな香りが鼻先でそよぐ。

「――大丈夫?」

 頭上から降ってきた柔らかな声に、燈子は恐る恐る背後を振り仰いだ。

「……いちむら」

 倒れかけた燈子の身体は、どうやら市村の腕に抱き留められる形で止まったらしい。

 なんたる不覚と、ひくりと頬を引き攣らせながら、燈子は傾いだままの上体を起こした。

「ありゃ、桐邑さん。その子どうしたの」

 綾華に抱かれた子犬を見て、市村が声を掛ける。

「迷子ですー。さっき道ばたを歩いてたので、危ないので拾ってきました!」

「へえーかわいいねえ」

 さらりと燈子の前に出て、市村が子犬を撫でる。気持ちよさそうに、犬が鼻先をその手にすり寄せる。犬にまでモテるのかこのイケメンが、と心の中で毒吐きつつも、犬との間に距離ができたことに燈子はほっと息を吐いた。

「どうしてそう気安く動物を拾ってくるんだ。小学生か」

「だって燈子さん、保護しなきゃ事故に遭うかもですよ」

「……それはまあ、そうだな」

 見るからに幼気な子犬は、放っておいたらあっという間に車にひかれそうではある。

「それにほら、この子首輪してるんですよ。絶対飼い主さん探してますって」

「まあ犬種的にも、野良って事は無いだろうしねえ」

「それはわかるが、で、どうするんだよ」

「ケーサツには届けたので、飼い主さんが出てくるまで飼って良いですか!」

「却下! 警察に届けた上でなんで連れて帰ったんだよ」

 即座に返した燈子の答えに、綾華がぶ、と頬を膨らます。

「だって、交番じゃ面倒見られないから、保健所に引き取ってもらう形になるって言うんですもん……」

「あー、そうなると、飼い主捜しが難航した場合はアレかあ」

 眉尻を軽く下げ、市村が言う。そうなんですよ、と綾華がぶんぶんと首肯した。

「ったって、その子犬なら飼い主も必死に探すだろうし、期限内に見つかるだろ」

 保健所の保護期限は地域によって異なるものの、大体1週間程度だと聞いている。これだけ血統の良さそうな子犬なら、それほど日数は掛かるまい。

「でも万が一って事もありますよ! それこそ飼い主が病気で入院しちゃったりとか!」

「どういう状況だよ……」

 はあ、と溜息を吐いて、燈子は頭をがしがしと掻いた。ちらりと投げた視線の先では、綾華に抱かれた子犬が真っ黒に輝く目でこちらを眺めている。

 心なしか、きらきらしいエフェクトが掛かっているような気がする。あざとい。

「…………はぁぁー」

 深い溜息とともに、燈子は目を伏せた。ややあって、目を上げる。

「世話は自分ですること。寮内には入れずに裏庭につないでおくこと。飼い主が見つかりやすいように情報発信すること」

 これ以上は一ぽたりと譲るつもりはないと、強めに言った燈子に綾華がぱああっと目を輝かせた。

「あいさ! 燈子さん大好き!」

 言うが早いか、子犬を抱いて裏庭へと駆けていく綾華の背中を見ながら、燈子はもう一度溜息を吐いた。

「――いいの?」

 確かめるような問いは、燈子の犬嫌いを知っているからだ。

「死なれても寝覚めが悪いだろ」

 苦虫を噛みつぶしたような表情で吐いた台詞に、市村が苦笑する。

「そういうとこ、ほんと燈子ちゃんだよね」

「うるさいわ」

「褒めてるんだよ。好きだって」

「…………」

 胡乱げに睨み上げた燈子の視線を受けて、ふふ、とそれは嬉しそうに市村が笑う。以前からその毛があるのではと思っていたが、やはりこの男はM気質なのではあるまいか。

「大体、なんでここにいる」

「遊びに来たら、君の切羽詰まった声が聞こえたので」

「切羽詰まってはなかったし」

「子犬に吠えられて転けたのに?」

「転けてない!」

「もう、意地っ張りだなあ燈子ちゃんは」

「うるさい、帰れ!」

 完全に揶揄われている。

 くつくつと笑う市村を睨むと、燈子は綾華の後を追った。

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