2月(下)

「そういや、ここ潰れるんだって?」

 寮監室の奥。寮生からは見えない生活スペースのこたつに足を突っ込んで、自分が持ってきた土産の饅頭を囓りながら、とおるが言った。雪下ろしを終え、一息ついているところだ。

「言い方。まだ寮生には言うなよ。新年度になってから通達するらしいから」

 あけすけな物言いに溜息を吐いて、卓上の急須に湯を注ぐ。

「あ、俺も」

 遠慮という言葉を知らない弟に無言で抗議の視線を向けるも、全く意に介した様子もなくにっこりと笑顔で返される。

「……ったく」

 思えば、幼少期からこの弟に勝てた試しはない。両親が離婚して浹は父に、燈子は母に引き取られて数年間を別々に過ごしたが、大学に入ってから再会しても浹は浹のままだった。そのことに、当時の燈子は酷く安堵したことを覚えている。

「寂しくなるねー」

 寮へと続く部屋の方を眺めながら、ぽつりと浹が言う。残念ながら、もしゃもしゃと饅頭を頬張りながらの発言には内容に準ずる切なさらしきものは微塵もない。

「寂しい? おまえが?」

「じゃなくて、燈子が。学生対応も寮の運営管理も、結構性に合ってたじゃんね?」

「あーうん、まあな……」

 弟の当を得た指摘に、燈子はガシガシと髪を掻き上げる。そんな仕草が照れ隠しだと知っている浹はふふんと笑って二個目の饅頭の包装を剥がした。

「ここに来てから、久々に生き生きとしてたもんね」

「……そんなに違ったか?」

 苦笑混じりに問い返すと、浹はうんうんと大きく頷く。

「最初の仕事辞める前後なんかもう、ゾンビかと思ったよね」

 その言い様に、当時のことを思い出す。大学を卒業して最初に就職したデザイン事務所がいわゆるブラックな職場というやつだったのだ。セクハラ、パワハラは当たり前、法定制限を遙かに超える労働時間に残業代の不払い。見た目が女性らしくない燈子はそのことを擦られることも多く――全く気にしてはいなかったが――、にもかかわらず、女だからと補助的な仕事しか与えられず、たまに上げた業績も全て他人の業績として扱われた。期待して入った業界だったから失望も大きく、半年で退職した後はしばらくアルバイトで食いつないだ後、たまたま紹介されたこの学生寮の寮監に収まって、早三年。

「まあ、居心地はよかったな」

 どことなくしんみりとした口調になってしまった燈子の横顔をちらりと眺めてから、浹は窓の外へと視線を向ける。

「寂しいのは、燈子だけじゃないかもね」

「?」

「この土地も、学生がいなくなったら寂しいんじゃない?」

「ああ――」

 浹の言わんとするところを悟って、燈子は頷いた。

「色々、染みついてるからなぁ」

 苦笑交じりに、天井を見上げる。

「そんなに多い?」

「そりゃあ、百年近くの間、ひっきりなしに人が生活してたんだからな。それも若い奴らが」

 人が生活すれば、そこには思い出が生まれる。良いものも悪いものも、楽しいものも悲しいものも、記憶に残るほどの強い思いは、人だけでなく場所にも焼き付けられるものだ。

 燈子には、その場所に焼き付いた《記憶》が視える。たとえば空き部屋で静かに涙を流す者、裏庭の桜の横で花見でもしているらしく、楽しそうに笑う者。時折管理人室に座っている老婦人は、いつかの時代の寮監だろうか。この寮内だけでも、あちらこちらに《記憶》は染みついている。

 それが本当に《記憶》なのか、たとえば霊のようなものではないのかと訊かれたら、燈子には答える術がない。正直なところ、燈子にしか視えないそれの正体など、誰にも確かめようもないのだから。ただ、生きている者の姿もよく見かけるから、経験的に《記憶》だと判じているだけだ。

「青春だもんね。酸いも甘いも、大事な思い出かぁ」

 しみじみとした表情で呟いて、浹が新しい饅頭――これで何個目だ――に手を伸ばす。自分で持ってきた土産を自分で食べ尽くす勢いの弟に、ふと浮かんだ疑問が口の端に上る。

「おまえは? 聴こえてるのか?」

 子どもの頃は、浹にもよく似た能力があった。燈子には《記憶》が視え、浹にはその声が聴こえる。

「んー、俺はもうほとんど聴けなくなったなぁ。たまーに聴こえるくらい?」

「そういや子どもの頃から、チャンネルの切り替えが上手かったよな」

「聴覚だからね。全部聴いてたらうるさすぎるし。生活雑音だと思ったら段々気にならなくなって、そしたら段々聴こえなくなってた」

 あっけらかんとそう言って、浹は姉を見やる。

「燈子はまだしっかり視えてるもんね。視覚は切り替えにくいよね」

「区別は何となくつけられるようになってきたけどな」

 音が――声が聞こえるか否かが、《記憶》を判別する材料だ。それでも雑踏の中や、他の物音に気を取られている時には、目の前の人物が実在するのかどうか、一瞬分からなくなる時もある。

「でも――そうだな。確かにこの土地も寂しがるかもな」

「うっかり誰かと波長が合って、怪談化しちゃったりして」

「それは今でもたまにある」

「……あるんだ?」

 常には余人に視えない《記憶》も、時に人の目に映ってしまうことがある。おそらくは《記憶》と同調する思いを抱いている者、その出来事が起きた日時と同日、同時刻。そういうちょっとした条件が一致する時、うっかり《記憶》を視聴きしてしまう者がいる。

「特に今は空き部屋が多いからな。誰もいない部屋から人の声がするって言われて見に行ったら――なんてのもよくあるよ」

「どーすんの、そういう時」

「適当に言いくるめる。どうせ、しばらくほっとけば沈静化するからな。収まらない時は、盛塩とかしてそれっぽく」

 ただ、そんなことをしている内に「寮監には霊能力がある」などという噂が立ってしまったのだけは、いただけないが。それでも、寮内の平穏を保つことが燈子の職責だ。

「鰯の頭もっていうだろ。納得さえできればいいんだよ」

「なるほどねー」

 わざとらしく頷く弟を横目に、燈子は立ち上がる。そろそろ昼飯時だ。寮では基本的に朝夕の食事しか出さないが、休みに入ったこの時期は、調理師達が朝食の残り物を流用できるようにしてくれていることが多い。食べたい者が食べられるように、冷蔵庫から料理を出しておくのは燈子の仕事だ。

「あ。そういえば、あとで光紀が来るって」

 後ろから飛んできたその言葉に、燈子の眉根が寄せられる。

「は? 何のために」

「そりゃま、燈子の顔見にじゃない? なんか心配してたよ」

「何を」

「ここが潰れた後の燈子の行き先」

「……だから、言い方」

 はぁぁ、と溜息を吐いて燈子は額を抑える。

「そろそろデレたげればー?」

「ざけんな」

 揶揄い交じりの弟の声に罵声を返して、燈子は寮内に抜ける扉を開ける。

市村ヤツが来たら、追い返しとけよ」

 言い置いて向こうへと消えていった姉の背中を見送り、浹はくすりと笑う。

「ほんっと、素直じゃない姉さんだねぇ」

 その声に応えるように、けらけらと笑う子供達の小さな声がどこかから微かに聴こえてきた。

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