2月(中)

 一晩明けてみれば、窓の外は真っ白な雪景色になっていた。

「寒いと思ったら……」

 呟きながら、燈子は手早く身支度を調え、外に出た。

 朝日を反射した積雪がとにかく眩しい。寮の前を通る道は、アスファルトがうっすらと轍を残す程度には雪が溶けているようだが、敷地内は一面の雪だ。確かに天気予報で寒波が来ると言ってはいたが、よもやここまで積もるとは思ってもみなかった。

「こりゃあ……大変だわ」

 頭をガシガシと掻いて、燈子はぼやいた。玄関前に道を作るのが先か、屋根の雪を下ろすのが先か――いや、この雪では食堂の担当者も来られないかもしれないから、朝食の支度が先だろうか。

 色々と脳内でシミュレートした結果、とりあえず門柱から玄関までの雪かきを決行することにした。期末試験も終わり大半の学生が春休みに突入した今の時期、ただでさえ少ない寮生はさらに数を減らしている。よもや、早朝から起きてくる者もいないだろう。

 長靴を引っ張り出してくると、まずは雪を踏み分け――まっさらな新雪に足跡を付けるのは、なぜこんなにも胸躍るのだろうか――スコップを取りに庭の隅の物置小屋に向かう。

「さてと、やりますか」

 玄関から門柱まで、約30メートル。まあ出入りする人間は少ないだろうから、人が一人通れる幅があれば十分だろう。

 雪をスコップで掬い上げては左右に避ける。スコップの重みに雪の重さが加わり、慣れない前傾姿勢も相俟って、あっという間に額に汗が滲み出る。

 たかがこの程度で音を上げるなんて、情けないとは言うなかれ。雪国出身者でもないこの身には、たった15センチ程度の積雪でも十分に過酷だ。並の女性に比べて身長も筋力も体力もあると自負する燈子だが、幅50センチの道ができあがる頃にはすっかり腰と背筋が悲鳴を上げていた。

「……はぁ」

 溜息を吐いて背後を振り返る。バキバキと鳴る背骨を伸ばしがてら寮の建物を見上げた途端、意図せぬ溜息が漏れた。

「屋根も……やばいな」

 切妻屋根の上にも、もっさりとした雪が積もっている。既に降雪はやんでいるのだから、放っておけば溶けていくだろう――と楽観視できないのは、建物自体が一世紀以上経過していると噂される築年数不詳の木造建築だからだ。

 雨漏りが日常茶飯の屋根に雪が積もれば、どうなるかは言わずもがな。なんなら雪が溶けるまでの数時間で屋根が抜けないとも限らない。

「雪下ろし、なぁ」

 建物の維持管理という職責から言えば、先に対処しておいた方が良いのだろう。だが経験のない雪下ろしをするのと、雪が溶けた後で補修をするのとどちらがより確実かと問われれば、後者に軍配が上がる。

「……とりあえず様子見るか」

 小さく首を振って、燈子はできたばかりの道を戻った。


 朝食の支度を始めようかと材料を吟味しているところに、食堂担当の調理師達が到着した。本来のシフト担当者が数名、電車の運休で来られなかったそうで、急遽、近所に住んでいるメンバーで駆けつけてくれたらしい。ありがたく業務をお願いすると、燈子は物置から脚立を担ぎ出し、再び玄関先へと向かった。

「燈子さーん! おはよーございます」

 靴を履いているところに、外から声をかけられる。視線をやった先では寮生が二人、こちらに手を振っていた。

「早いな」

 食堂でバタバタしている間に起き出してきたのだろうか。まだ全員眠っているとばかり思っていた燈子は軽く瞠目して外に出る。

「いやだって、雪ですよ」

 そう言うのは木島永津子だ。つい先日の寮生会で、来年度の寮長に選出された国文学科在籍の現2年生である。

「これだけ降るの、珍しいですよねー。何かめっちゃテンション上がる」

「子どもか」

 はしゃぐ永津子にそう返すものの、ふぅわりとした吹きだまりはまるで生クリームのようで、童心が刺激される気持ちは分からなくもない――と思った矢先に、永津子が積雪の上に思い切りダイブした。

「……おぉい」

「うっわ、冷た! めっちゃ冷た!」

「……」

「永津子さん、子どもじゃないんですから」

 全身を雪まみれにしながら騒いでいる永津子に、もう一人の寮生が冷めた目を向ける。教育学科1年の依田七海だ。どちらが先輩なのか分かったものじゃないと、燈子は内心苦笑した。

「ところで燈子さん、それ」

 と、七海が燈子を見上げる。

「脚立って、もしかして屋根ですか?」

「ん、ああ。ちょっと様子見ておこうかと思って」

「慣れてない人がやると危ないですよ」

「そうか、七海は北陸出身だったな」

 永津子と比べて冷静なのは、豪雪地帯で育ったからだろう。燈子の言葉に、七海は頷く。

「去年、いとこの彼氏が東京から来て、張り切って手伝おうとしたんですけど。屋根から落ちそうになって大騒ぎでしたよ」

 慣れている地元住民ですら、怪我をする人が出るものだと七海は言う。

「……だよなあ」

 忠告はもっともだと頷きながら、燈子は屋根を見上げてポリポリと頭を掻く。

「ただなあ、ほっとくと屋根が抜けそうでさ」

「ああ……確かに」

 同じように屋根を見上げて、七海も遠い目をする。

「抜けないまでも、溶ける途中で雨漏りくらいはしそうですよね」

「だろ。今ある程度下ろすのと、雨漏り覚悟で雪が溶けてから修繕するの、どっちが楽だと思う?」

「うーん……濡れると木が腐りますもんね」

「そうなんだよ。それはそれで面倒だしなぁ」

 残り1年あまりでお役御免となる建物とはいえ、その最後の1年くらい、なるべく快適に過ごしたい。

「とりあえず、屋根裏の方に上ってみるか……」

 呟くように言った燈子の視線が、すっと右手の方角に動く。何かを追うようなその視線の動きにつられ、七海もその方向に視線を流す。だが、そこにはただ、降り積もった雪と敷地を取り巻く土塀があるだけだ。

「燈子さん?」

「ん? ああ、すまんどうした?」

「いえ、別に」

「ま、んじゃちょっとばかり屋根裏の方に上がってみるかねえ……」

 よっこいせと脚立を担ぎ直し、燈子が踵を返そうとした、その時だった。

「おっはよー」

「あ、とーるさんだ。おはようございます」

 門柱の向こうに顔を覗かせた人物に、永津子が雪まみれになったまま手を振る。

「……木島さんは何やってんの?」

 その様子に笑いを堪えながら尋ねた男の名は柿崎とおる。燈子の実弟である。時折こうしてふらりと姉の元にやって来るせいで、古株の寮生達にはすっかり認知されている。

「雪を堪能してまっす!」

「そうなんだ、犬っぽくていいね」

「あざーっす!」

 どこかずれたやりとりを交わす永津子と浹に溜息を吐いて、燈子は肩から脚立を下ろした。それを見た浹がにやりと笑った。

「その脚立。雪下ろしするつもりだった?」

「いや――素人がするのは危ないと諭されたからな。下ろすのは諦めて、床下から様子を見てこようかと思ってた所だ」

「懸命だね。んじゃ、俺が代わりに雪下ろししたげるよ」

「……できるのか?」

「ほら、高校の頃、父さんが秋田に赴任してたじゃん。あの時結構やらされたからね」

「そうか。なら、頼む」

「はいよー。じゃ、それ貸して」

「一旦、裏に回って荷物置いていけよ」

「わーかってるって」

 燈子の手から脚立を受け取ると、浹は寮の裏手へと回る。そちらには、寮監の個人的な生活スペースの玄関がある。先代をはじめ、過去には既婚者が寮監を務めていた時代も長かったため、家族の出入りや同居は認められている。

「それにしても、相変わらずそっくりですよね」

 角を曲がる浹の背中を見送り、七海が燈子を振り返った。

「同じ服着たら、もう見分けがつかなくなりそうです」

 その言葉に、燈子は苦笑した。幼い頃から頻繁に言われてきたことだ。なんなら実行したことだってある。

 燈子と浹は二卵性双生児で、性別だって違う。けれど女性にしては背が高く骨太な燈子と、男性としては細身の浹は、幼い頃から良く見間違えられたものだ。それは成長しても変わらなかった。燈子の声がハスキーなせいもあるだろうが、相変わらず初対面の相手には二人の判別がつきにくいらしい。

「人当たりが良い方が浹だと覚えとけば問題ない」

「燈子さん、自分でそれ言います?」

 ぴょこぴょこと雪を蹴りながら永津子が戻ってくる。頭の先から全身雪まみれだ。

「まあ事実なんだから仕方なかろ」

 軽く肩を竦め、燈子は答えた。

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