2月(上)

 今しも小雪の舞い出しそうな分厚い雲の下、静かな昼下がりの公園。

 暦の上では春と言いながらも未だ寒々しい曇天の公園には、親子連れどころか一帯を根城にしているはずの野良猫の姿すらない。

 その人気のない公園の隅、大きなケヤキの下のベンチに腰を下ろして空を見上げる。まさに今の自分の心境そのもののような暗雲に、自然と溜息交じりの声が出た。

「あー………………」

 他に誰もいないのを良いことに、篠蕪燈子しのぶとうこは公園のベンチに思い切り凭れたままぼやいた。

「……まいったなぁ」

 呟く声は、無人の公園に思いのほか大きく響いた。

「まーさーに、青天の霹靂ってか」

 ひとしきりぼやくと、燈子は一転、黙り込んだ。

 分厚い雲の隙間から僅かに日光が差し込むのをぼんやりと眺めていると、またしても長々しい吐息が漏れる。


 雇い主から呼び出された時点で、嫌な予感はしていたのだ。

 用件はつまるところ、雇い止めというやつで。

 仕事自体は性に合っていたし、この上なく好条件だったから率直に言ってショックが大きい――いやもう取り繕うのはやめよう――かなりデカい。


 とはいえ、こうして公園でぼやいてみたところで、事態が変わるわけでも誰かが助けてくれるわけでもない。結局のところ、いい歳をした大人としては、我が身に降りかかった問題は自力で解決するほかない訳で。

「まぁ……しゃあない、か」

 ため息とともにやるせない気持ちをかなぐり捨てる。言葉に出すと、何となく気分も切り替わるものだ。ベンチに凭れて思い切り背中を伸ばし、燈子は思い切り勢いを付けて起き上がった。

「――まだ一年以上あるし、なんとかなる……かねえ」

 自分の取り柄は前向きな性格だと自認している。ここは、かなりの時間的猶予をもらえただけでも御の字だと思おう。


 うだうだ悩むのは性に合わない。

 先行きを不安に思うより、まずは今なすべき仕事をこなすことだ。


 そう自分に言い聞かせたその時。

「あれ、燈子とぉこちゃん」

 背後から聞こえた声に、立ち上がりかけていた燈子はピタリと動きを止めた。

 相手に背を向けているから顔を見られる事はないが、おそらく今の自分は苦虫をありったけ口に詰め込んで咀嚼したような表情をしていることだろう。

「どうしたの、こんなとこで」

 心の中で「帰れ」と繰り返し唱える。だが、そんな燈子の内心も知らず、サクサクと軽い足音はゆったりと近づいてくる。どうあっても放っておいてはくれないらしい。

 燈子はこっそりと深く深い溜息を吐――こうとして、ビクリと上体を反らした。にゅうっと目の前に顔が現れたからだ。

「んー……、何かあった?」

「……なっ、んだよ、いきなり!」

 前触れもなく、人の顔前に顔を突き出した男を睨みつつ、僅かに腰をずらして距離を取る。

「何って。反応がないから、具合でも悪いのかと思って」

 にこやかに、それはもうにこやかに男は言った。人好きのする笑顔は、モデルのような整った顔立ちと相俟って、見る者にこの上ない好感触を与える――ただし、燈子にその効力は及ばない。

 市村光紀みつき。学生時代の同期だ――といっても、学部も違えばサークルなどで一緒だったこともない。それどころか、そもそも在籍した大学自体が違う。当然、同じ講義を履修したこともあるはずがない。なのに、初めて会ったあの日から何故かつきまとってくるストーカー予備軍である。女子がこぞって黄色い声を上げるその顔も、燈子から見れば胡散臭い以外の何者でもない。

「――別に」

 お前の顔を見たせいで具合が悪くなった、とまではさすがに言わないし、言うつもりもない。だが、その意図が伝わっているはずの男はそれを華麗に受け流してにっこりと微笑んだ。

「そう? よければ肩を貸そうか? それともお姫様抱っこ――」

「アホか! 歩けるわ!」

「それは残念」

 反射的に言い返した燈子にわざとらしく眉尻を下げて見せると、市村は彼女がベンチの脇に置いていた木材を肩に担ぎ上げ、歩き出す。呼び出されたついでにと、帰り際に購入した物だ。

「ちょ、おい」

 慌てて立ち上がり、後を追う。その気配に、市村が肩越しに振り返って笑った。

「重いでしょ。寮まで運ぶよ」

「んなもん、自分で運べる」

「うん、知ってるー」

 笑いながら足を進める市村の背を追いながら、なら渡せ、と言いたいのを燈子は堪えた。減らず口に言い負かされると分かっているからだ。学生時代から、この男に口で勝てた試しはない。

「で、何があったの?」

 木材を担いだまま、肩越しにこちらを振り返ると、市村が間延びした口調で話を蒸し返す。

「何も! ない!」

「ふーん、そう?」

 うんうんと大仰に頷きながら、ちらりと燈子の方に視線を流す。

「とうとう寮が取り壊しにでもなるのかと思ったけど」

「――な! ち……っ!」

「あれ……嘘、まさかの図星?」

 ぐっと言葉に詰まった燈子を眺め、市村はわずかに眉尻を下げた。この反応は想定外だったようだ。

「いつ?」

「……来年度末」

「約1年後かぁ。どうするの?」

「どうもこうも、次の仕事を探すしかないだろうよ」

 良い条件の転職先が見つかるかどうかは、神のみぞ知る。ただ時間の猶予だけはあるから、なんとかなる――と、思いたい。

「もし、いざとなったら僕の所に永久しゅ――」

「し・な・い!」

「つれないなあ。僕はずっと待ってるのに」

 ワンブロック延々と土塀の連なる路地を歩きながら、市村が拗ねたように呟く。二十代も半ばを越えた男がそんな顔をして見せたところで、かわいさなど欠片もないというのに。

「うるさいわ、ストーカーが」

「えー、人聞き悪いなあ」

 ぼやきながら角を曲がったところで、市村は足を止めた。


 目の前には、古びた木製の門柱。ここをくぐれば、燈子の職場にして現在の住居でもある英藍女学院大学学生寮である。敷地に入って正面には年代物の二階建て木造建築が鎮座しており、その正面玄関の横に、美術館のチケットブースのような受付窓がこちらを向いているのが見える。その窓よりも奥に入れるのは女性のみ。男性はたとえ親兄弟といえども、一歩たりとも建物の中には踏み込めない――ということになっている。一応。

 一応、というのは、その規定があくまで表向きの建前で、実際には色々と例外規定もあるからだ。開寮からの長い年月、例外を作らなければ運営が成り立たなかったという話でもある。

「中まで持っていく?」

「いや、いい」

「――じゃあ、はい」

 とりあえず、今日に関しては例外規定が適用されるわけではない男は、木材を燈子に渡す。

「ん、ああ。ありがとう」

 差し出された木材を受け取ると、燈子は言った。気に食わない相手だとはいっても、ここまで荷物を運んでくれたことには違いない。

「……燈子ちゃんの、そういうところなんだよね」

 なぜか苦笑交じりに市村が言う。

「あ?」

「いーえ、なんでもありません」

 何が言いたいのかと聞き返した燈子に、市村は曖昧な微笑みを浮かべて首を横に振った。

「何だよ、気持ち悪い。で?」

「で、って?」

「なんか用があってきたんじゃないのか」

 その問いに、市村は「ん?」と軽く眉をあげてからにっこりと小首を傾げる。

「ただ燈子ちゃんの顔が見たくなっただけ」

 にこにこと笑う市村とは裏腹に、燈子は眉根をぐっと寄せた。

 この男は毎度毎度こうなのだ。不必要に整った甘いマスクで、甘ったるい砂糖のような台詞を平然と吐くのだから始末が悪い。そのせいで勘違いをする女性たちのいかに多いことか。目があっただの、心配してもらっただのと言っては、もしかしたらと大騒ぎする女性たちの様子を、燈子は学生時代から散々目の当たりにしてきた。

 だがあいにく、燈子は甘党ではない。世の女性たちが軒並み倒れようと、この男にだけは屈しまい。むしろ学生時代に散々、勘違いした女子達の標的にされ――返り討ちにしてきた日々を思い出すだに、この男の口車になど決して乗ってやるものかという思いはいや増しに増すばかりだ。

「顔はともかく、口の方はなんとか矯正できないものか」

「いやだなあ、本心なのに」

 平然という男の顔を、燈子は無言で睨み付けた。そういう、心にもないことを平然と垂れ流すのをやめろといっているのに。

「いやむしろ回復不能なまでに顔面の骨格を変えてしまったほうが」

「それはやめて」

 口元に手を当て、真剣な表情で呟く燈子に困ったような表情を浮かべ、市村は小さく息を吐いた。

「とにかく、何かあったら相談に乗るよ」

「自力でどうにでもなる」

「強情だなあ」

 苦笑を漏らす市村を横目に、燈子はふん、と鼻を鳴らす。市村でなくとも、誰かに頼って生きるつもりは毛頭ない。

「自分の食い扶持くらい、自分で何とかできるっての」

「燈子ちゃん一人くらい、養えるのにー」

 未だに戯れ言を垂れ流す男を無視して、燈子は角材を肩に背負い上げる。

「じゃあな」

「はいはい。またね」

 くるりと踵を返した燈子の背中に、市村の声が柔らかく当たった。

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