3月(上)
年度の変わり目に入ると、燈子の仕事は急激に忙しくなる。
学年末試験と卒業判定を無事に乗り切った四年生が退寮に向けた準備をするのを横目に見ながら、こちらも新入生を迎えるための準備をしなくてはならないからだ。
空き部屋の掃除と備品チェック、傷んだ床や壁、屋根などの補修。その合間にも早めに退寮していく卒業生を見送り、空いた部屋の損傷具合を確認して修理の手筈を整える。暖かくなる前に、虫対策もしておかねばならない。山が近いだけに、何しろ多いのだ――ヤツらが。
「――はい、では明日。お願いします」
頷いて、燈子は電話――驚くべき事に、古式ゆかしい黒電話だ――を切った。風呂場のボイラーの調子が悪いので、業者に点検を依頼したところである。次はその旨を大学側に連絡しておかねばならない。何しろ歴史だけは古い女子大の寮のこと、専門業者とはいえ男性を敷地内に入れるには手順を踏む必要がある。
「――っくし!」
くしゃみをひとつして、燈子は眉を寄せた。鼻の奥にツンと刺激される感覚がある。
「……あーもう花粉飛んでんな」
山裾に近いこの寮には、この時期、背後の山から花粉が降り注ぐ。風が吹く度に黄色い粉がぶわりと舞う様子は、中蓋を外した胡椒のびんでも振っているかのようだ。そのせいか、ここに住み始めてから花粉症の症状が酷くなったような気がする――いや間違いなく、酷くなっている。
あちこち傷んだこの建物は、隙間風が入り込むせいで、屋内でも全く安心できない。この時期はマスク着用の上、掃除の時には廊下や壁を水拭きする作業も必要になる。こればかりは困ったものだと思いつつ、燈子は大学に連絡をしようと受話器を上げた。
「燈子さーん! こっち来てー!」
大学への連絡も終え、受話器を置いた瞬間、廊下をドタバタと騒がしく駆けてくる足音が響いた。この声は国文学科の木島永津子だろう。数日後には寮長になるというのに、相変わらず騒がしいことこの上ない。気は良いし人望もあるのだが、いかんせん動きががさつなのが欠点で、今いる寮生の中で最も頻繁に床を踏み抜くのもこの娘だ。
「こら、廊下は走るなと――」
「それどころじゃないって! 壁の穴からタヌキ入ってきたんだけど!」
「はぁ? いくら何でも、それはなかろうよ」
「ほんとだって! いいから、こっち!」
「こら、走るな……」
永津子は小言を言おうとした燈子の腕を掴み、食堂へと引っ張っていった。
夕暮れ時の食堂には、出汁の良い香りが漂っていた。奥の厨房では、調理師達がせっせと働いているのが見える。学生の日常生活を支えるのが寮監の仕事だが、食事だけは専門の業者に外注している。
「ほら!」
厨房とは反対側の壁を永津子が指さす。その先には、数名の寮生に囲まれた茶色い生き物が――いた。
「……タヌキ」
「でしょ!」
壁際に追い詰められて縮こまっている茶色い生物は、確かにどう見てもタヌキにしか見えない。自分を囲む人間たちに向けて怯えた様子で威嚇している。
ここに住み込みで働くようになって数年たつが、タヌキが入ってきたのははじめてだ。
「で――何やってる?」
タヌキの周囲、半径1メートルくらいの範囲に集まっている寮生達を眺めて燈子は言った。
「何って、捕まえるんですよ」
当然だという口調で言ったのは、和久井
――野生動物を餌付けするんじゃない
「かわいいですよね~、ねえタヌ吉」
と言いながら、調理場からもらってきたらしい油揚げを振っているのは、家政学部新2年の島本なずなだ。
――名前をつけるな。床に滴った油は、後で掃除するんだろうな?
「たぬき汁!!!」
「ちょぉっと待て今何つった!?」
とんでもない一言を発したのは、英文学部3年の
「……野生動物を餌付けするな。不用意に触るな、ましてや喰うな」
思わず頭を抱えたくなるのを抑えて、代わりにため息をつく。
「元いたところに返してきなさい」
完全に拾ってきた猫のような物言いだが、向こうから侵入してきたのだとつっこむ者はいない。
「えー、責任持って飼うからさ」
そう言ったのは永津子だ。おまえもか、と言いたいのを抑え、燈子は今度こそ頭を抱えた。
「あのなぁ新寮長。野生動物には病原菌も多い。法的なあれこれも――よくは知らんが、多分ややこしい。面倒なことになる前に野生にお帰りいただけと言ってるんだ」
「タヌキ汁!」
「喰わん!」
「――あっ」
大声を出した拍子に、ビクリと飛び跳ねたタヌキが駆けだした。
「夕飯!!」
慌てて虫取り網を振り回す綾華の脇を素早くすり抜けると、タヌキは反対側の壁に空いた穴から外に飛び出していく。
「あーあ、逃げちゃった」
「タヌキ汁がぁ~」
口々に言いながら、寮生たちは三々五々、捌けていく。綾華だけはタヌキ汁を諦めきれないようで、窓に張り付いてタヌキの行き先を確かめていたが、やがて肩を落として食堂を出て行った。
「……騒がしくてすいません」
厨房に近づいてそう告げると、煮物を小鉢に取り分けていた調理師の1人がこちらを向いた。
「いーよいーよ。タヌキ汁はちょっと衛生的に作ってやれないけどね」
「作らなくていいですよ」
からからと笑うのは、田中という名字の50絡みの女性だ。この寮に派遣されている調理師のリーダー格で、もう10年以上も寮生たちの胃袋を掴み続けているベテランである。
「この辺り、タヌキなんて出るんですね」
知らなかったと燈子が言うと、田中はまたからりと笑う。
「まあ、山裾だからねえ。タヌキもいるし、イノシシもたまに見かけるよ」
「たしかに、イノシシはたまに見ますね」
「昔は野犬なんかも出たもんだけど。最近は見かけなくなったねえ」
「野犬……」
「いつだったかねえ、この辺で子どもたちが野犬に襲われることがあって。それ以来、定期的に保健所が巡回するようになったんだよね」
しれっと恐ろしい話を聞いた気がする。苦笑する燈子に、そういえば、と田中は声を潜める。
「例の件、聞いたかい?」
「あ、ええ」
取り壊しの一件だろうと、燈子も声を潜めて頷く。
「私たちはそのまま契約続行ってことだけど、あんたはどうするんだい?」
少し心配そうに訊ねる田中に、燈子はわずかに眉を上げて肩を竦めた。
「まあ、時代の流れには逆らえませんし。まだ1年ちょっとありますから、次の仕事を探しますよ」
「そうかい、残念だねえ」
「……とりあえず、また何か入ってきたら困るので、暗くなる前に壁を塞いできます」
「ああ、そうだね。夜中にゴミでも漁られたら大変だ」
頷くベテラン調理師に軽く会釈して、燈子は食堂をあとにした。
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