第3話 私の名前が決まったようです(1)
カラン、カラン……
軽やかに鍵が開く音と共に、窓が開き、ぶわりとカーテンが宙を踊る。
一つの人影が音もなく床に降り立った。
「お。」
面白がるかのような声が、その人影から発せられる。
「!!、誰だ⁉」
ジュードがとっさにソファーから飛び退く。寝ていたリリーも、その声でバッと起きた。鋭い目で声の主を睨んだジュードの手には、すでに鈍く光る白銀色のナイフが構えられていた。
「まあまあ、そう固くならないでヨ~」
「「……」」
人影から、先ほどに続き、少年のような声が飛び出た。まだ声変わりのしていない男児の声だ。だが、その人影が纏うのはほの暗く鋭い殺気。人間だとは思えないほど、とらえようのない不気味な気配を放つ。
それにジェードとリリーはさらに身を固くするだけだった。
人影は、背の低い少年のような姿のシルエットをした、黒い靄だった。
靄は、ふわりと不規則にシルエットを揺らす。それと共に、月明かりで床に落ちた影も揺れた。
沈黙が続く。ジェードの背に一筋の汗が流れる。
(……全く隙がない。)
人影に部屋に入られるまで、ジェードはこの気配に気づくことができなかった。
「ふ~ん。…二人はこの家のアルジより、よっぽどユーシューなんだね。ま、知ってたけどネ♪」
人影は首をかしげながら、パチパチと軽やかに拍手をする。
リボンのようにシュルシュルと不気味な気配が収まってゆく。それと共に、黒い靄が濃くなり、人影はだんだん色を採っていった。
リリーはさらに身構えた。すでに相手の殺気がなくなっていることに気づいたジェードは警戒を軽く解く。だが、その眼の鋭さは変わらない。
あくまでも、悪いものではない、とジェードの経験が語っていた。
「う~ん……ゴメンネ?試すようなことをしちゃって!」
気づけば、人影は、黒いフードに身を包む、十三ぐらいの少年になっていた。少年が笑いながら舌を出す。
さらにリリーが眉をひそめた。警戒するかというよりは、訝し気な目だ。ジェードは目を細める。
再びの沈黙に、少年が慌てだした。
「……二人は何で固まってるノ?ここで、あってるのよネ……?」
何かつぶやきながらフードの中をごそごそと漁る少年。彼の黒い髪が揺れる。
長い髪の下に隠れていたものを見て、ジュードとリリーは目を丸くした。
「ん~……まあ、あってるネ。うん、はじめましテっ!」
少年は笑いながら、ぺこりとお辞儀をした。
「いっただきまーす♪……ん~~~‼ゴクンッ、おいしーネ‼さすが侯爵家だネ。うん、この喉越しの良さ。何よりクリームが美味。やっぱり
人影だった少年は、先ほどまでジェードとリリーのいたソファーの上にちょこんと座り、出された1ピースのショートケーキを、まるごと(上に乗ってたイチゴごと)フォークで持ち上げ、ぺろりと一口で飲み込んでしまった。
いきなりの
「えーっと……その人がジェードさんで、あの人がリリーさんだよネ?」
少年が首をかしげながら二人を順番に指さす。もうすでにその頭からフードは外されていて、黒い髪には月明かりがグラデーションのようにゆらゆらと掛かっていた。
「ああ。君は?」
「おっと。」
少年が慌ててバッと立ち上がり、ピシリと立った。
リリーはいまだにいぶかしげに少年を睨んでいたが、シェードが警戒を解いているため警戒する必要もなく、しぶしぶと紅茶を注いでいた。
「申し遅れました!ボクはナナシ。ナッチャンとかナナチャンってよばれてるネ!」
「
「……ところで、あなたは、何をしに来たんですか?」
さらに眉を顰め、つっけんどんな態度をとるリリー。
「まあまあ、そう焦らないでネ。」
首をさらに右にかしげるナナシ。
「ボクは、仕事をしに来たのヨ。」
「……ケーキを食べるという?」
「その通…いや、食べたかったけど、違う!そんな、ネ?」
半目のリリーに、ナナシはあわてて傾いていた頭を戻し、口を尖らせ、口笛を吹いた。ナナシはリリーの視線をよけながらふたたびソファに腰を鎮める。
「まーまー、もう少しくらいこの紅茶も堪能させてほしいネ。あーおいしっ。」
「ダメだな。早く要件を言え。」
「ええ……そんな口悪くていいノ?あなた、執事だよネ。」
「客じゃない奴に礼儀はいらん。」
ジュードに即答されて、ナナシはため息を吐いた。
「ボクだって立派なお客さんだというのに、しっかたないネ……」
「ひどいほどの殺気をふりまきながら窓から入る客がいるか。」
「ここにいるネ。僕はいつも挨拶代わりにそうしてるんだヨ。そこら辺のスパイと比べたらわかりやすいデショ?」
ジュードにぎろりと睨まれて、ナナシは肩を竦めた。そして、もう一度ナナシがごそごそと、フードを探り、今度は丸めた一枚の紙を取り出す。
「えーっと、ボクは、ただの伝書鳩だネ。決して怪しいものではありませんノ。」
「今さらだな。で、要件は?」
ナナシは笑う。
「ジュード様宛の手紙だヨ……じゃ、読みあげますネ。」
「ああ。」
「『拝啓、ジュード・ミュレ様。
ご機嫌よう。お忙しいところ失礼します。
お困りになられていると思いまして手紙を送った所望であります。……』」
ナナシは言葉を朗々と読み上げた。
ジュードもリリーも、ピクリとも動かずその話を聞いていた。
「『…。』と。よし、これで終わりだネ。」
声を発せず、動かず目を見開いているだけの二人に、ナナシは笑った。口角はさらに上がり、その黒髪からのぞく純白の瞳はおもしろそうに細められていた。
「この手紙、確かに届けたということデ。」
いつの間にか静まっていた風が、その言葉と共にふわりと立ち起き、カーテンを揺らす。ケラケラと笑ったナナシはだんだん空気に溶け、黒い靄に姿を変えていった。
「いいヘンジを待ってるヨ。あ、ケーキ美味だったネ。ありがとネ!」
ひょいと窓枠に乗り、月に人影が重なった、と思ったら。その影は一瞬で消えた。
ジュードとリリーは、しばらくその光景を呆然と見ていた。
まぶしい。
「……お嬢様。」
お嬢様?だれだろう……はっ、もしかしてこれは私の夢⁉ついに念願が!!
きっとそうだ!いやぁ、どんなに転生したいと願ったことか、というか今日何曜日なんだっけ。あれ、今日の学校なんの授業だっけ。
あれ?
「お嬢様ー。朝ですよー。」
ぐへへへ、わたしがお嬢様か……金持ちの娘で確かにそうだけど、メイド含めて誰一人私のことをそう呼んだことないなぁ。ぐへへへ。お嬢様って呼ばれたい人生。これから誰か一人でもいいから読んでほしい。
きっと、私は超絶美少女で、聖女かなんかなんだよ、きっと。ああ、この夢が一生醒めなければいいのに……
「お嬢様ー。おねむですか?」
あれ、リリーの声だ。
ん?りりー?
ぱっちりと瞼を開く。まどろんでいた脳は完全に覚醒した。
「おはようございます。お嬢様。昨日はお疲れでしたね。よくおねむりになられていました。」
新緑を描く窓から吹き込んだ風で、リリーのやわらかいヘーゼルナッツの髪が揺れていた。
そうだ……今の私はアモレティーナ(仮)。乙女ゲー『あくなの』で絶対に死ぬ悪役的モブ。ただいま名無しの0歳数か月。
ああ、神様。私はどれだけあなたを恨めばよいのでしょうか。
夢の中で見た神様に少し苛立って、布団を蹴った。
「
「あらら、今日もお元気ですね。」
リリーが笑いながら私を抱き起した。
視界がいきなり高くなることに、転生してから最初の方は吐きそうになっていたけれど、これも段々と慣れてきた。
「お嬢様、昨日はお守りできずにすみません。」
「ばぅっ。」
「私がついていながら、あの最底辺クソ貴z…コホン、名前をいただくことができませんでした。」
「ばーばっ!」
昨日の、アモレティーナのお父様がやばい人だった話かな。
確かに『漆黒の瞳』が嫌われている話は作中でも結構出てきたけれど、そんなにひどいんだな。
でも、魔法が使えるってすごいじゃないか。しかも、超強力なものが使えるなんて。
まるでゲームに出てくるウィザードとか、聖女とか、勇者とかみたいだ。
この世界にそういう人はいない設定だったし……ヒロイン達は勇者もどきはしていたけれど勇者もいなかったし、転生者とかでもなかったし。
どうしてこんなにも嫌われたのだろう。
ゲームやってる間はあまり気にならなかったけれど、いざ当事者になると不思議だ。
……というかお父様から名前をもらわなくて済むってことは、私はアモレティーナにならなくて済むかもしれないってこと!?
『アモレティーナ』にならなければ、平和に過ごせるかもしれない。
そもそも魔法だってリリーたちに師匠をしてもらえればいいし……!
でも……
「お嬢様。実は、名前を付けるあてができました。」
リリーが真剣な顔で目を見つめてきた。その緑の目には、きょとんとした顔の私がいた。
「ジェーンが心配ないと言っています。ただ、私には信用できませんが。」
リリーの眉が寄せられる。名前を付けるあて、か……
『漆黒の瞳』の持ち主に名前を付けたい権力者なんているのだろうか。
でも、そうじゃないと生きにくいし、名前は欲しい……
「今夜、
「なので、その時にお嬢様、ジェード、私の3人でそのあてに飛びます。」
ほうほう、父の目を盗むという事か……
って、え?
今、「飛ぶ」っていった?
「ジェードが今、転移の陣を用意してくれています。お嬢様は、ついてくるだけでいいんです。ええ。」
転移⁉転移だと⁉本当に⁉
「お嬢様。あなたは私が守ります。愛しい奥様…友の、大切な形見ですから。」
ああ、そうか。私は気づく。
リリーは私のお母さんに小さい頃から、仕えていたんだ。
確か、前世を思い出す前、それをおぼろげにも聞いたような記憶がある。
オソロシイ記憶力。
リリーが私をぎゅっと抱きしめる。リリーの顔が見えない。でも、ちょっと震えていることがわかった。
何にそんなに震えるのだろう。
「だぁっ!」
リリー、大丈夫だよ!いざというときはこの魔力でなんとかするよ!
腕を伸ばしてぺちぺちと背中をたたく。
残念ながら小さい手はリリーの脇にも届かない。
「ああ、お嬢様‼」
「ゔっ」
さらに強く抱きしめられた。
ちょっと痛いけれど、どうじにその暖かさにも安堵した。
そうだ。……いくら死ぬモブだといっても、私はゲームのアモレティーナじゃない。
私は成金の娘でオタクの高松瑠美。
数々の深く濃い青春と修羅場を駆け抜けてきたのだ。
濡れ衣を着せられて死ぬなんて絶対に嫌だ。
あと何よりあの女神の顔をしばらく見たくはない。
とりあえず、名前をもらわなきゃ、はじまらない。
確かこの世界でも言葉に魔力が宿るっていう話が定説だった。
だから、貴族たちのミドルネームが長くて、前世『あくなの』オタクの間では、攻略対象のフルネームを覚えるための歌とかが生まれていたのだけれど。
私はもちろん全部言える。自慢じゃないけど。
ぐっとこぶしを握る。リリーの服のしわが目に入った。
私、0歳侯爵令嬢。転生者。
フフッ。見ていなさい、女神。私絶対に生き延びてみせますわ!
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