第20話

 目が覚めると、暖かくて柔らかい何かに体が包まれていた。起き上がろうとしたら、そっと肩に手が添えられて押し戻される。


「まだ起きちゃだめよ」


 清らかな声の方に目を向けると、リビングの床に膝を立てて座る先輩。瞬時に眠りに落ちる前の記憶が蘇った。


 ――そうだ。僕は風呂場で先輩に眠らされて……風呂場?


 はっとして股間を見るが、しっかり上下の寝間着が身についている。引き上げられた時や体を拭かれた時に全部見られたのだろうが、これは気持ちの問題だ。

 前髪に指で触れるとまだ湿っている。となると、このソファーに寝かされてからまだ時間は経っていないということ。

 膝を抱えて体操座りする先輩に顔を向ける。


「どのくらい寝てましたか?」


 先輩は膝の間から顔を上げ、壁の時計を指さした。アナログの針は十一時を示している。


「二時間くらい。ぐっすり寝てたわ」

「そうですか。……夕食は食べました?」


 ふるふると首を交互に振られる。


「血も吸ってないんですか?」

「……寝てる時には吸わないって決めてるの」

「じゃあ、研究施設で吸った血以外は何も……?」


 すると、先輩は気まずそうに目を逸らした。そちらを向くと、白い手首についたいくつもの傷跡。普通なら即座に再生する筈なのに、と首を傾げた時、それらが全て血を吸った後にできる噛み傷だと気づく。


「先輩、それ……」

「っ」


 制服の袖がさっと傷を覆う。まさか、と思った。


「昨日から何も……? でも、施設には輸血された血が……」

「……」


 目を逸らしたまま、先輩は小さく首を振る。その回答に、不安と同時になぜか場違いな怒りが登ってきた。


「……なんでですか? 血はあったんですよね? 吸わないと死ぬんですよ?」


 先輩はだんまりを貫く。余計に苛立ちがつのる。


「まさか、『味が好みじゃない』とか言い出すんじゃないでしょうね。もしそうだったら……怒りますよ?」

「違う」

「じゃあどうして?」

「……」


 再び黙ってしまった。理由を言うつもりはないらしい。それとも、話せない程に疲弊しているのか。

 ソファーから降りて、隣の床に腰を下ろす。肩を寄せると、中身が抜けた人形のように体がゆっくり倒れた。鎖骨の辺りで受け止め、その軽さに驚きながらも寝間着の襟を伸ばす。


「昨日の二食と、今日の三食分です。好きなだけ吸ってください」

「……ありがと」


 かぷりと牙が刺さる感触。高ぶる感情が血液と共に吸われていく。

 いつもの倍くらいの間吸血した後、先輩はゆっくりと顔を上げた。老廃物を殆ど出さない吸血鬼は汗も流さず、故に体臭も無い。施設のシャンプーの香りのみが空間をふわりと漂う。


「……」

「まだ足りないって顔してますよ」


 僕が言うと、先輩ははっと口元を抑えた。たらりと一筋、白い肌に赤い線が走る。

 酸っぱい海のような匂いをたぶん纏いながら、先輩の頭の後ろにそっと手を回した。


「遠慮しないで。吸われてない分、血の量も戻ってますから」

「でも……」


 口では拒否しながらも、おもむろに口を開く先輩。牙の先が肌に触れかけたところで、慌てたように頭を離す。


「やっぱりだめ。このままじゃいたちごっこよ」

「それでもいいんですけど。先輩はいつも無理しすぎですから」

「無理なんてしてない。今日だって、相手の居場所と異能を見誤って……それに、私は昨日も」


 珍しくぐずぐず言葉をこねる先輩。罪悪感が先に来るが、ひとまずあのことについては説明を要求したい。


「昨日って、僕にあれしたことですか」

「っ……うん。そのこと」


 昨晩から心のどこかが違和感を叫んでいたが、その本能は正しかったらしい。大体、「血を吸われたい」なんて本気で思うはずないのだ。精々「おいしく吸ってくれたらいいな」くらいのはず。


「……魅了の能力って、あんなに心身を支配されるものなんですね」


 思い出しながら言うと、先輩は困ったように眉尻をきゅっと下げる。予想通りの反応で思わず笑ってしまった。


「なんで笑うのよ……体を支配されてたのに」

「いえ、別に嫌だったわけではないので。それに、先輩が魅了をかけてくれていたお陰で、僕はあの吸血鬼に支配されずに済んだんですよね?」

「そうだけど……」


 再び膝を抱えてもごもご言う先輩。恐らく魅了から醒めた僕が怒るとでも思ったのだろうが、僕だって理由も無しに先輩がこんな事をする筈ないことくらい分かる。昨日から苦虫を嚙み潰したような顔をしていたのだから猶更だ。


 真夜中のリビングを、オレンジの電球が薄い膜をかけるように照らしている。

 先輩の方に少しにじり寄り、小さく声を掛ける。


「先輩」

「……なに?」


 顔を上げた先輩の瞳はうっすら潤んでいた。見つめながら、頭を深く下げる。


「ありがとうございました。助けてくれて」


 ふらふら黒髪の先を揺らしながら先輩は答える。頭を上げると、おろおろ狼狽える珍しい姿を拝むことができた。


「……別に。無事ならいいのよ」

「そうさらっと流されても……何かお礼をしたいです」

「要らないわ」

「そこをなんとか」

「要らないって」

「なんでもしますよ?」

「……!」


 ぴく、と猫耳のように先輩の眉が動いた。瞳が監視カメラのようにスライドして、じりじり体の各所に視線を感じさせる。


「……言っておきますけど、そっち系は禁止です」

「……ふん」


 つまらなさそうにそっぽを向く先輩。やはり期待していたのか。


「何か欲しいものがあれば買いますし、行きたいところがあれば一緒に行きます。無茶さえしなければ、なんでも要求してくれてかまいません」


 先輩は即答した。


「一日瑞希の首に噛みつく権利。行きたいところは吸血街」

「アウトですね」


 因みに吸血街とは人でいうホテル街のようなもの。つまり年齢的にも法律的にもダメ。


「じゃあ吸血量を三倍。お風呂」

「ミイラ化した水死体とか洒落にならないので。却下」


 殺す気か。マスコミのネタにはなりそうだけど。


「む……」

「それ以外に何があるの? みたいな顔しないでください。常識で考えればいいんですよ」

「常識……」

「そう。一般常識。慣習」

「ルールは破るためのものなのに?」

「馬鹿ですか?」


 食物連鎖の頂点はこう考えるらしい。人間でも大体同じだよね。


「先輩に対してその口の利き方はなに?」

「馬鹿だな、と思ったまでですよ」

「いいわ……その口、二度と開けないようにチャックを付けてあげる」

「……やっぱり先輩って馬鹿ですよね?」


 とりあえず、先輩に人間社会と言うものを教えてあげようと思いました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先輩は吸血鬼 アラタ ユウ @Aratayuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ