第19話

 轟音を立てて窓ガラスを破ったのは、墨のように真っ黒な何かだった。浴室の床に降り立ち、翼のような黒いものを背から周囲に放つ。触手のように蠢くそれは、あっという間に浴室の壁を黒塗りにし、隔絶された空間を作り出した。


「何者だ!」


 霧の吸血鬼が緋袴を翻らせて叫ぶが、黒い塊は何も答えない。代わりにどろりとたまご形の塊が溶け、中身が明らかになった。


「先輩⁉」

「……ごめんなさい。遅くなったわ」


 制服姿の先輩は、腕を一振りしただけで体を覆っていた塊を吹き飛ばす。


「影で飛んできたけど、加減を間違えたみたい」


 それを見た霧の吸血鬼が低い声で言う。


「お前が……月神の娘か」


 先輩は「影」を手のひらに纏わせて答えた。


「ええ、そうよ。月神夜。薔薇水家のことは父から聞いているわ。「力を取り戻しに来る不埒者がいるかもしれない」と」

「っ、貴様!」

「施設の方であなたの足取りを追わせてもらっていたの。昨日から五件ほど、銀髪の着物姿の吸血鬼が目撃されているのよね」

「……」

「あなた、やっぱり爪が甘いわ」

「っ!」


 白銀の髪を残像に、霧の吸血鬼が動く。数メートルの距離を瞬時に移動し、霧を纏わせた手刀で先輩に切りかかる。


「――!」

「……あなたじゃ私は倒せない。自分でも分かっているでしょう?」


 漆黒の闇が、純白の刃を軽々と受け止めている。じわじわと侵食する「影」と揺れ動く霧。どちらが強力なのかは明白だ。


「……早く離れなさい。死ぬわよ」

「………」


 霧の吸血鬼は離れない。その背中しか僕には見えないが、小刻みに震えているのだけは分かった。

 先輩が地面から新たな影を呼び出し、蛇のように宙にくねらせる。


「……仕方ないわね」


 ぐわん、とその身をたわませ、霧の吸血鬼をぐるりと巻き取る。彼女は無言で抵抗したが、霧の刃は寄ってきた「影」に全て喰われてしまう。

 浴室の中に投げ込まれた小さな体から、ぼきりと嫌な音がした。先輩はそれを冷たく見下ろし、再び「影」を呼ぼうと片手を上げる。


「瑞希に手を出した以上、許すわけにはいかないの。……苦しませないように終わらせてあげる」

「――待ってください、先輩」


 霧の触手で拘束されたままの僕を向き、先輩は首を傾げる。無邪気な瞳には、底の見えない虚無。


「止めても無駄。私、怒ってるの」

「……でも」


 殺すのはだめだ、と続けようとした時、浴槽の中から勢いよく煙幕のような湯気が噴き出した。同時、腕を縛っていた霧が大気に溶けるように消える。浴室を覆う白の中、支えを失った僕は空っぽの浴槽に落ちた。


「……逃げられたわね」


 ホワイトアウトさながらの状況、割れた窓から気圧差で吸い出される霧。「影」を放射状に放ち、壁の上半分を覆う窓をまるごと塞ごうとした先輩だったが、密封される前に霧は消えた。


「すばしこいやつ」


 そのままポケットからスマホを取り出し、呼び出し音が鳴るままに耳にあてる。ぷつ、ぷつ――っ、と切れた電子音ののち、聞き覚えのある声。


『――夜様』

「鳥羽、逃げられたわ。異能の特性上風下に向かう筈だから、可能なら追って。手は出さなくていい」

『――了解しました』


 車のエンジン音が聞こえた瞬間、通話はぶつりと切れる。

 腕を下ろし、スマホをスカートにしまう先輩。浴槽の中に倒れ込んだ僕に向き直ると、壁一面に広がった「影」も跡形もなく消える。


「…………」

「――先輩」


 呼んでみるが、冷たい無表情は変わらない。

 白い浴槽の床に膝をつき、先輩はじっと僕の瞳を覗き込む。暗い穴に吸い込まれるような、抗い難い魅力を感じた。


「……私のこと、許さなくてもいいから」

「何のこと――」


 言いかけた瞬間、漆黒の瞳が赤く染まった。海底に咲くウミユリのように、ゆらゆらと虹彩が不定形に変化する。


 頭の中が貧血を起こしたように真っ白になった。 

 星のようなスパークが飛び交い、気絶一歩手前の所まで意識が遠のく。

 瞼を閉じる直前に見えたのは、やはり悲しそうに目を伏せる先輩の表情だった。

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