第18話

「お待ちしておりました、瑞希様」

「すみません、遅くなって」

「構いませんよ」


 鳥羽さんは持っていたスマートフォンをポケットにしまった。運転席に乗り込み、僕が後部座席に乗り込んだのを確認すると車を出す。


「…………」

「…………」


 昨日と同じ帰路を進む車内は、どこかピリピリした空気に包まれている。進む道も、路地などは避けてなるべく大通りを通っているのが分かる。一昨日のテロ事件を警戒しているのだろうか?


 吸血鬼居住区を囲む森に入ったところで、鳥羽さんは車の速度を上げた。でこぼこした地面をタイヤが擦り、車内にも振動が伝わってくる。


 マンションの前まで着くと、鳥羽さんは言葉少なめに一礼する。僕が降りると、車を加速させて何処かに去っていってしまった。


「やっぱり昨日、何かあったのか……?」


 マンションの中に歩を進める。

 警備員に通行証を見せ、エレベーターに乗って階を昇り、預かっている先輩の家の鍵で中に入った。

 同時にその時、ぞくりと背筋に寒いものが通り抜ける。


「……」


 この感覚。


 首筋にレーザーポインターを当てられているかのように、誰かの視線を感じる。


 確か、今朝からだったな。この気持ち悪い現象が始まったのは。


 そう思い、ばっと後ろを振り返ってみるが、誰もいない。あるのはいつもと同じこの家の玄関だ。


 ……何か、入ってきた? いや、それは考え過ぎか。


 荷物を先輩の寝室に置かせてもらい、手洗いうがいの後にリビングで学校の課題に取り組む。早めにやっておかないと、先輩が帰ってきた時に困ったことになる。


「……」


 しばらくシャープペンシルを動かし、三十分ほどで一通り課題を終わらせる。

 先程の強烈な違和感は、まるで僕に気が付かれたことに焦ったかのように、それきり出現しなくなっていた。



×



 夕飯にはカレーを作り、軽い家事などは済ませておいた。やることはやっておかないと、吸血されたあとに泣きを見る事になる。


 そうして大方の事が終わった今、この一日で溜まった疲れを癒すべく、たっぷりのお湯に肩まで使っている。


「あー……」


 体から力が抜けていく。毛穴という毛穴から、見えない疲労の塊が流れ出ているような気がした。今日は雛数さんに散々弄られたから、思った以上に疲れているのかもしれない。


 浴室に備え付けられたデジタルパネルを見ると、時刻はもう八時。研究施設に行った先輩は、大体いつも十時ごろに帰ってくる。もう少し待たなければならないだろう。


 大きく伸びをして、白い天井に立ち昇る湯気を眺めた。そういえば昨日、霧のような何かを見たような気がする。不定形で、風のように形を変えて……


 そう思った時、突然浴室の明かりが消えた。


「っ!」


 とっさに浴槽の端を掴んで立ち上がろうとするが、何かに押されて湯の中に戻される。廊下から漏れる照明で、それが真っ白な何かだという事だけは分かった。


「やめっ――おい! 何するんだ!」

「――」


 白く冷たい何かが伸びてきて、首元に絡みつく。更に腕を細い何かで縛られ、宙に吊り下げられた。


「っ」


 頬を撫でられる感触。


 首を取り巻く何かが、うねうねと軟体生物のように肌を滑る。


「ひっ」


 背筋に寒いものが走った。これはヒトの感触じゃない。


 手足をばたつかせ、拘束から逃れようとするが、一層相手は締め付ける強さを増す。

 せめて姿くらいは確認しなければと目を凝らしたが、腰がくびれた女性的なフォルムというくらいしか判別できなかった。


 ――すっ、と、湿った空気のような腕が伸ばされる。


 頭を振って逃れようとするが、あごを掴まれて無理矢理前を向かされる。霧でできたような人影が、ゆっくり顔を近づけてくる。


「――お前が、月神の子の吸血対象どれいだな?」

「っ!」


 ――月神。先輩の苗字。真祖の系譜。


 思わず生唾を飲むと、霧で構成された人型が激しく波打った。まるで気体の衣を纏っているかのように、各所から霧の細筋が渦巻いては消える。


「そうか、そうか。昨日取り逃がしたのは、やはり月神の者だったというわけか」


 くつくつくつ、と霧の人型は笑った。


 ――いや、笑っているように見えた。


「ようやく――ようやく見つけた。いやはや、夜道の声掛けは無駄では無かったな」

「お前――っ」


 冷えていく体を奮い立て、目の前の敵を睨みつける。こんな輩がまともである筈は無い。


 縛り上げられた腕に力を入れ、振りほどこうともがく。

 しかし、それは水のように腕にまとわりつき、決して離れようとはしなかった。


 霧の人型が、馬鹿にしたように鼻で笑う。


「暴れても無駄だ。それは私の異能。かつて真祖の力を帯びていた、霧の一族の力だ」


 なんだ、それは。真祖だって? 霧の一族? くそっ。吸血鬼だってこと以外、全然分からない。


「お前は……なんなんだ」


 すると、霧はまた高々と笑った。


「私か? 私が誰かなどどうでもいい。強いて言うなら……そうだな、月神を屠るための刃、とでも名乗っておこう」

「っ……」

「怖いか? 怖いだろうな。……だが、お前の主人の先祖はこれより酷い事をやったぞ?」

「何を言って――」


 その時、霧の手のひらで口を塞がれる。叫びながらもがくが、強制的に上を向かされ黙らせられた。


 霧の顔がゆっくりと近づき、見えない眼窩が覗き込んでくる。


「大丈夫だとも。傷をつける予定はない。お前は月神の子をおびき寄せるための生餌なのだから」

「っ!」

「しかし心の方は……どうだろうな?」

「……」


 無言で睨むと、奴はにやりと口角を上げた。

 瞬間、冷たい突風が浴室内に吹き荒れ、思わず目を瞑ってしまう。


「っ……!」


 しばらくして風が止んだ。恐る恐る目を開ける。


「え……?」

「どうした? 怖気づいたか?」


 目の前に仁王立ちしていたのは、緋色の袴姿の美女だった。

 艶やかな銀糸を腰まで流し、瞳はオパールのように幻想的な灰色。豊かな胸部を覆う着物は、何物にも穢されぬ純白。


 巫女装束の吸血鬼。


 それが僕を捕えたものの正体だった。


「……」


 何も言えず呆然としていると、彼女は妖艶に微笑む。


「さて、と。早速始めようか」

「……始めるって、何を」


 恐る恐る聞くと、霧を周囲に従える彼女はこちらを鋭く睨んだ。


「奪うのだ。お前から、月神の子を」

「僕から、先輩を……っ、何をする気だ!」


 返事の代わりか、彼女はゆっくりと僕の目を見つめた。虹の虹彩はオーロラの如く、見えない吸引力で視線を惹きつける。


 目を逸らしたら負けと睨んでいた僕だったが、ふと、その瞳の灰色が赤く染まりつつあるのに気づく。


 ゆらゆらと、灯のような何かが揺れる。しかし、綺麗だという感想以外何も浮かばない。


「…………」

「………?」


 ぱちりと瞬きして、霧の吸血鬼は再び僕の目を覗き込む。


「……」

「……何故だ。どうして魅了が効かない?」


 魅了? それって、確か昨日先輩が…………あれ? 昨日、そんなことあったか?


 記憶の糸を辿るが、途中ではぐらかされるように思考が拡散する。まるで考える事を禁じられているかのように。


 ――そういえば、今朝からだったよな。この変な感覚。


 そう、今日の朝からだ。先輩がいないことに気が付いて、昨日の事を思い出そうとした時――


 その瞬間、ぞわりと空気が変わった。


「ふむ……魅了が効かないと慣れば、致し方ない。手足をもいでおくか」

「っ!?」


 手足をもぐ? 何を言ってるんだ、この吸血鬼は。そんな野蛮なこと、許されるはずが……


「穏便に済ませようとしたが、抵抗するからには容赦はできん。姿も見られてしまったことだしな」


 ……いや、逆に吸血鬼だからこそ、こんなことが言えるのか。こいつにとって僕は、ただの食糧の塊にすぎないのだ。


「……僕を傷つければ、お前はこの国に居られなくなるぞ」

「構わん。元より薔薇水家を存続させるためだけに生きている。私が死のうと、家は続く。月神が消えれば、の話だがな」

「お前……っ」


 狂っている。家を続けさせるためだけに、命を溝に捨てるなんて。そんなの――


「それでは再開しよう。……案ずるな、一瞬で終わらせてやる」

「っ」


 霧に纏われた腕が振り上げられ、手刀の形を取った。思わず顔を背け、目も固く閉じる。身体中の筋肉が硬直するのが分かる。


「―――」


 放たれた殺気が最高潮に達した時、僕は小さく声を上げていた。


「――助けて、誰か」


 刹那、世界が漆黒にひっくり返った。

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