第16話
昼休みが終わって五限、六限と授業は続いたが、あまり手に付かなかった。なんだか心の奥が熱っぽく、自分のものではないような感じがして気持ちが悪かったのだ。
教室に戻る途中で見た、あの仄かな霧のようなものも気になっている。一体あれは何だったのだろうか。
ノートにひたすら黒板の内容を書き写す作業を終え、その後の清掃も上の空のままこなした。終礼での担任の言葉も耳に入らず、流されるがままに解散する。
秋が鞄に荷物を詰めながら、心配したような顔で話しかけてきた。
「お前、やっぱり今日は変だぞ。なに言っても適当にしか返さねえし……熱でもあんのか?」
「ああ……そうかも」
「だったら早く帰って寝ろ。そして忘れろ」
「……分かったよ。そうする」
僕は立ち上がり、中の教科書で重くなった鞄を肩に下げる。秋に軽く挨拶して別れ、昇降口まで行って上靴をスニーカーに履き替えた。
その瞬間、声が降ってくる。
「天谷君」
「……?」
靴ひもを結ぶためしゃがんでいた僕は、聞き覚えのある声に反応して上を見上げる。
すると、昼間と同じく大きくて丸い二つの――ではなく、穏やかな雛鶴さんの微笑があった。
「こんにちは」
目線を合わせるように彼女は中腰になる。
ゆるりと横で結んだ髪の毛が流れるのを見とどけ、僕は小さく会釈した。
「どうも。お昼ぶりです」
「うん」
彼女はそれだけ言って、僕の顔をじろじろ眺めまわす。黒水晶の瞳に落ち着かず目を逸らすと、くすりと小さく笑われた。
「……なんですか」
「ううん。ただ、確かに夜が気に入りそうな子だなーって」
「どうしてここで先輩の話が出てくるんですか?」
「だって、私と君の繋がりなんて、夜ぐらいしかないじゃない」
「それはそうですけど……」
なぜ突然に絡んでくる? ……まさか、僕と先輩の本当の関係を知っているのか?
少しだけ警戒心を上げ、雛数さんの整った顔を見返す。真っ白な肌にはシミ一つ見当たらず、すっと通った鼻筋に載る二つの目は海のように静か。
「ふふ……」
じいっ、と、対抗するように彼女は僕の瞳を覗き込む。悪戯っぽく細められた目には、挑発するような光が宿っているような気もした。
そして、そのしぐさはとある人物を連想させ、僕に視線を外すことを余儀なくさせる。
雛数さんは楽しそうに笑った。
「目、逸らしたね。私の勝ち」
「別に勝負してた訳じゃないですよ」
「そう?」
「そうです。それに、もし勝負だとしても先に見てきたのはそっちですから、お相子です」
「うわっ、面倒くさっ」
「あなたに言われたくないんですけど……」
どうもこの人は相手するのに疲れる。見抜かれているような気がするというか、年上の余裕を突き付けられているというか……
「……あーあ。こんな初々しくて可愛い後輩、夜一人にはもったいないなぁ」
……ほら、こういう所。平気な顔で歯が浮くような言動をしてくるから、なぜか身構えてしまう。自然体でいられないのだ。
「……」
「……どうしたの? そんな蛇に睨まれた蛙みたいな顔して」
僕はできるだけ皮肉っぽく見えるよう口の端を上げた。
「正にそんな気分でしたから。代弁していただきありがとうございます」
「えー。私が蛇ってこと?」
「そうなりますね」
「ということは、天谷君にとって私は天敵なんだ」
「ですね。とても相性がいいとは思えませんし」
「そっか……ちょっと悲しいな」
「……」
少し目線を下げると、雛数さんはくすくす面白そうに笑う。
「嘘だよ。うそ。そういうちょろい所もずるいなぁって思ったりはするけど」
「……ちょろくないです」
「赤くなったね」
「…………赤くなってません」
本当に苦手だ。この人。もうとっとと帰りたい。帰って先輩に言いつけてやりたい。そして先輩に……
思考の渦に吞まれそうになった時、ぽんと右肩が叩かれるのを感じた。知らぬ間に俯いていた顔を上げると、打って変わって申し訳なさそうな表情をした雛数さんが。
「ごめんね。ちょっといじりすぎたみたい。反応が面白くて、つい……」
「え。いや、僕は別に……」
お構いなしに、彼女は僕の手を掴んで立ち上がらせる。
「なんだか様子も変。少し熱っぽいみたいだし。……もしかして、顔が赤かったのはそのせい?」
「えっと……」
「――とにかく、途中まで送る。早く帰ったほうがいいわ」
「あの、雛数さん?」
「先輩先輩って、ずっとうわごとみたいに言ってたから。夜に心配かけるのも悪いし、ベッドで横になった方が良いと思う」
「え――?」
うわごと? 僕が? しかも先輩のことを……?
「あの――」
僕が雛数さんを呼び止めようとした時、既に彼女は歩き始めていた。
「さあ、行きましょう」
「はあ……」
一体どういうことだ? ていうか、どうして雛数さんはこんなに親切にしてくれるんだ?
そんなことを思いつつ、校門前まで行って彼女の横に並ぶ。先輩以外の女性と帰るのは初めてだった。
「……?」
ふと、悪寒のようなものがして振り返る。
「…………」
透明な何かに、後ろからじっと見つめられているかのような。そんな気配を首筋に感じた。
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