第12話

 先輩は即座に反応した。


「——敵襲ですって?」


 言いながら僕の首根っこを掴み、後部座席の隙間に押し込む。抵抗する間もなく上から押し付けられ、呼吸が一瞬止まった。


「じっとしてて」

「で、でも」

「いいから」


 先輩は僕の頭を抑えたまま、運転席に身を乗り出す。自然僕は下から見上げる格好になり、スカートの奥の暗闇を覗きそうになった。慌てて目を逸らすと、運転手さんの緊張した声が降ってくる。


「周辺の森から吸血鬼の匂いがします。異能を使っているようです」


 吸血鬼? それに異能だって?


「街での異能の使用は原則禁止。ということは……」

「なんらかの敵意がある、もしくは気まぐれで異能を使っている、という事になります」

「後者はあり得ないわね」


 つい今朝方異能を使っていたのは……いや、今はそんな事を気にしている時じゃない。


「先輩」

「なに?」 


 後部座席に戻ってきた先輩が振り返る。底冷えするような無表情に少しひるんだが、思い切って今朝に秋から聞いた話を口に出した。


「昨日、吸血鬼による誘拐事件らしきものがあったそうです。もしかすると、それに関係しているのかも」

「誘拐事件?」

「はい。昨日の夜中——」


 僕は事件の一部始終を要約して伝えた。


 異能を使った戦いがあったこと。

 切り落とされた腕が落ちていたこと。

 引きずられたような血の跡が残っていたこと。


「…………」


 先輩は少し考え込み、こくりと頷いた。僕を抑える力は緩めないまま車窓ににじり寄り、周囲を見回す。こちらからも、外に広がっているのが吸血鬼居住区を囲む森林だという事がすぐにわかった。黄昏と月明かりに照らされ、白く濃い霧が立ち込めている。


「――夜様、いかが致しましょう」


 前から運転手さんの声が聞こえる。どうやら外に出ようとしているらしい。


「まだダメよ。敵の姿も見つけて無いじゃない。それに、こっちに二人いると分かっていて敵意を向けてくる輩が、まともなはずないわ」

「……仰る通りです」


 先輩はともかく、運転手さんの様子は声でしか伺うことができない。しかし彼女も僕と同じく不安と恐怖に支配されているようだった。冷静な思考を残しているのは先輩だけだ。


「……先輩。一体どうして、僕らが狙われるんですか」


 出た声は自然と震えていた。

 人間の僕が襲われれば、抵抗すらできずに殺される。自分の弱さを十分に自覚していたが故の問いだった。

 先輩はこちらを向き、安心させるように微笑む。


「そうね。確かに、瑞希と出会ってからはこんな事なかったし、怖がるのも無理はないわ。だけど……」


 それから先輩は短い話をした。

 とても短い話だ。


 真祖の血を受け継いだ吸血鬼の家がどうなったのか。そして、その血が吸血鬼にとってどれほどの価値を持つのか。

 先輩はその二つを吸血鬼の歴史になぞらえて語り、真祖の血を受け継いだ家系がどのような運命を辿ってきたのか、丁寧に説明してくれた。


 真祖の血は貴重。そこから得られる力はもっと貴重。そして、吸血鬼はより強い力を求める生き物。


 先輩の話は、いわゆる吸血鬼が吸血鬼から力を奪う、共喰いの話だった。


「……つまり、真祖の力を奪うために、沢山の吸血鬼が今でも先輩とその家族を狙っている……本当なんですか?」

「本当よ。だけど、今まで誰一人として力を奪われた家族はいない。私たちは真祖の血が濃くて、必然的に力も強いから。この街に私が越してきたのも、吸血鬼の管理が徹底されて比較的安全な場所だったから」

「でも……そんな事」


 今まで一度も話してくれなかった。毎日の生活でもおくびにも出さなかった。僕は先輩の吸血対象パートナーなのに。


「ごめんね。話したかったけど……話したら、瑞希は怖がって、私の側から離れてしまうかもしれないって思ったから」

「そんな事、しません」

「うん……そうよね。やっぱり、私が悪かったわ。瑞希の全てを信じ切れていなかった」

「……それを言うなら、僕にもまだ先輩に話せていないことがあります」

「……」

「……」


 なんとなく、お互いに黙り込んでしまった。別にどちらが悪いという訳ではないのに。

 先輩は僕を怖がらせないように話さなかっただけで、僕も先輩に気を遣わせないように家族の話をしなかった。たぶん、先輩が魅了の力について今まで話さなかったのも、同じような理由なのだろう。


 吸血鬼と人間は相容れない存在だ。僕達はその壁を乗り越えて、パートナーになったと思っていた。

 喰う喰われるという関係は、生半可な信頼関係では成し得れない事だったから。先輩は僕に、完全に心を許してくれていると思っていた。


「まだまだですね……」


 ぽつりと言葉が零れる。それを聞いたのか、先輩も小さくあごを下げて頷く。

 その時だった。


「――っ! 瑞希!」


 突然覆いかぶさってきた先輩に、言葉を放つ間もなく床に押し付けられた。

 背骨から嫌な音が響き、かはっ、と肺から空気が押し出される。水のような湿った何かが顔を撫でた気がした。


「……っ」


 苦痛の中で薄く目を開けると、視界を塞ぐ先輩の紺のブレザーと、吹き込む風に煽られて鼻を掠める赤いリボン。波打つ絹糸のような黒髪が、神話に登場する蛇の怪物に変えられた女神のように頭上で渦巻いている。


 ……いや、待て。どうして車の中に風が?


 そう思った時、「車を出します!」と前から声が掛かり、強烈な加速で体が後ろに引っ張られる。同時にドアが閉まる音。

 纏わりつくような生温い何かの気配は、一瞬にして闇の彼方に遠ざかって行った。


「………」

「………」


 砂利を掻き分けるタイヤの振動。

 車内に灯る電灯。

 僕と先輩は寝そべった体制のまま、じっと沈黙を貫き続けていた。お互いの体がぴったりと密着して、動こうにも動けない。


「…………」

「…………」


 湿った吐息が鼻にかかる。口の中の鋭い牙が、陰になっている中でもよく見えた。こちらを見据える真っ黒な瞳に、ちろちろと蝋燭の炎のような赤色が見え隠れした気がする。


「……先輩?」


 怖くなって呼びかけると、彼女は目を閉じてふるふると首を振った。大きく深呼吸する気配。


「……大丈夫。何でもない」

「……」


 もう一度先輩の目を見ると、先程の興奮した虎のような雰囲気は消え失せていた。穏やかな湖面の瞳に戻っている。


「……無事で良かった」


 先輩が呟いて言うので、僕も頷く。いつもの距離感に戻ったような気がして、思わず口元が緩みかけた。が、直後に気のせいだった事を悟る。


「……」

「……」


 すっ、と先輩が目を逸したのだ。ごく自然に、何事も無かったかのように。


 それだけなのに、僕にはたまらなく寂しく感じられた。繋がっていた絆を、強制的にハサミで断ち切られたかのようだった。


「……ごめん、瑞希」

「……っ」


 離れていく先輩に、何故だか強烈な焦がれを感じる。このままどこまでも着いて行きたかった。そして早く血を——血を、


 熱くなっていく体温とは対照的に、先輩の目は冷ややかで、なんの感情も読み取れなかった。その手を借りて起き上がっても、隣り合って座っても、いつもの緩んだ雰囲気は微塵も感じられない。


 ……一体どうしたのだろう。何か僕は嫌われるような事をしただろうか。先輩に見放されるようなことだけは、絶対にしたくないのに。


 そう思いながら、微動だにしない先輩の側にもたれかかる。


 ……あ、やっとこっちを向いてくれた。


「……先輩」


 呼びかけると、先輩は微笑を浮かべて言った。


「……ごめんね。やっぱり少しだけ、眠ってて貰える?」

「え……?」


 とんっ、と音がした。首の後ろに鈍い衝撃。体から全ての力が抜ける。


 最後に視界の端に映ったのは、悲しげにこちらを見つめる先輩の潤んだ瞳だった。









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