第11話


 それから十分ほど互いの近況を語り合いながら迎えを待っていると、朝に来たものと同じ黒いハイヤーが僕らの前に止まった。自動でドアが開いたので、先輩から僕の順で乗り込む。予定の到着時刻を過ぎていたからか、運転手さんが頭を下げて謝罪してきた。


「お待たせして申し訳ありません。夜様、瑞希様」

「構わないわ。お迎えありがとう」


 外行きモードの先輩がさらりと答える。僕もそれに追随して頷くが、運転手さんは頭を上げた後も厳しい表情を崩さなかった。


「恐縮です。しかし、まだ私がドライバーとして未熟な事は確か。月神家のご令嬢の命を託されている以上、これからも粉骨砕身して精進させて頂きます」

「……そこまで責めていないわ。それと、令嬢とかお嬢様とか呼ぶのは辞めて。家のことを出されるのは嫌なの」

「は……」


 運転手さんが今度は顔を青くしているので、流石に可哀想だと思って助け舟を出す。


「先輩、そんなにキツい言い方をしなくても」

「そんなに強かった?」

「少し驚くくらいには」


 家の話をされるのを先輩がきらっているのは知ってるけど、まだ数回しか会ったことのない人にそれを求めるのは酷だろう。

 先輩はあごに手を当てて考えて、納得したように頷いた。運転手さんの方を向く。


「……ごめんなさい、少し言葉が足りなかったわ」

「そ、そんな。滅相もありません」

「少し気を付けてくれるだけでいいから。安心して仕事に励んで」


 言われた彼女は今度こそ安心したようで、ほっとしたように頭を下げた。


「……承知致しました。以後気をつけます」

「ええ」


 そのまま先輩はこちらを向き、「これでいいでしょ?」とばかりにドヤ顔をしてくる。そんな顔をされれば頷くしかないが、なんだか子供に説教した後の母親のような気分だった。





 しばらく車は進み、夕方の混雑した大通りを縫うように通り抜ける。学校は学園都市の中心付近にあるので、高層ビルや人混みも多い。地区上は東京都に分類されるこの都市だが、吸血鬼と人間が手を組み自治権を持たせた離島という扱いになっていて、区画分けされた地域には様々な特色がある。


 例えば、いま僕たちがいる区域は行政区だ。街の自治を行う都市庁や、国内や海外から進出してきた様々な企業のビルが存在する。ほとんどの学校もこの中に存在していて、学園都市という名称の由来ともなっている。因みにこの島の正式名称は「東京都第25区」で、学園都市というのは愛称だ。既にこの名で定着してしまっているが。


 他にも、吸血鬼について研究する大学施設や研究所が集まった技術区、都市の治安維持を担当する警察の庁舎が存在する警備区なんてものもあるが、ほとんど行政区と融合している。だから、学園都市の内部構造は主に行政区ともう片方の二つに分けられるのだ。


 と、そこで運転手さんの声が思考に割って入る。


「もうじき民間区に入ります。寄って行きたい場所はありますか?」


 民間区。その名の通り民間人が住む区域だ。娯楽施設やショッピングモールなどはこちら側にあり、生活の全てを完結させられる。行政区が仕事などを行う都会なら、民間区は生活を行う郊外と呼べるかもしれない。また、ここは行政区と対をなす区画で、都市のドーナツ化現象を意図して作り出したものとも言われている。


「ねえ瑞希。寄るの?」


 先輩にちょんちょんと脇腹を突かれたので、僕は慌てて運転手さんの質問に答える。食材のストックにはまだ余裕があった。


「今日は大丈夫です。また今度お願いします」

「了解しました」


 頷いた彼女は、天井のルームミラー越しに柔らかい微笑を見せる。微笑み返すと、むっとした顔の先輩にぺちりと今度は二の腕を叩かれた。運転手さんに聞かれたくないのか耳元に小声で囁いてくる。


「それ、禁止だから」

「何がですか?」

「他の吸血鬼と仲良くなるの」

「別に仲良くはなってないと思いますけど」

「いいから、言う通りにして。取られたくない」

「…………」


 何を? と聞こうとして、当然ながら吸血対象である自分の事だと気が付いた。微妙に胸の奥がむず痒くなる。


「僕、そんな簡単に取られませんよ」

「口だけだったらいくらでも言えるわ。けど、魅了の力を使われたら一発だから」

「え、でも、その力って相手がいる吸血対象には効果がないんじゃ……」


 魅了とは、吸血鬼が人間を誘き寄せるために使うフェロモンのようなもので、そこまで強い効果はない。しかも吸血鬼に一度でも血を吸われた人間にはなおさら効果が薄い。

 出会ったばかりの頃に能力の説明を受けた時、そんな事を先輩に言われた気がする。血を吸われた僕には、先輩も含めて他の吸血鬼からの魅了は効かないのだと。

 それを説明すると先輩は急に押し黙り、そわそわと瞳を彷徨わせはじめた。


「その……魅了が効かない存在には二種類あるの」

「二種類?」

「同じ吸血鬼と……あとは、吸血鬼に魅了をかけられた人間」

「魅了をかけられた……それって、僕は該当しないんですか?」


 すると先輩はさらに目を泳がせて、なにか言いたげに口をぱくぱく開いたり閉じたりさせる。しかし結局何も言わずに俯いてしまった。


「先輩?」

「ちょっと、頭の中整理させて」

「はあ」


 僕が首を傾げていると、先輩は口元に手を当てて何事か考え出した。眉に皺を寄せ、どういう訳か少しだけ頬を赤らめている。一体何が問題なのだろうか。


 車は既に見知った道に入っている。もうすぐ行けば僕たちの住むマンションを囲む森が見えてくるだろう。


 数十秒ほど彫像のように固まっていた先輩は、しばらく「うぅ」とか「あぁ」などと呻きのようなものを漏らしていたが、最後に「よしっ」と気合を入れるように言って顔を上げた。


「終わったわ」

「よく分かりませんけど、お疲れ様です」


 ねぎらいの言葉をかけると、先輩はへらっと子供じみた笑みを浮かべる。珍しい表情だった。


「えっとね、説明する前にまず瑞希に謝っておかないといけないことがあるの」

「謝る……?」


 何か後ろめたいことでもあるのか?


「……私、瑞希に黙って吸血鬼の魅了の力を使ったの。多分、学校の生徒ほとんどに」

「…………」


 そういう事か。確かに、今日だけでもそこそこ演技のボロを出していたのにも関わらず、誰一人違和感も覚えていないのはおかしいと思っていた。ましてや昼時に毎日いなくなっているのだから、普通は誰かが綻びに気がつくだろう。


 僕は今日の朝、先輩の声ひとつで僕を「月神夜の中学時代からの後輩」だと信じきってしまった生徒たちの事を思い出した。あの時も先輩はかなり強引な事をしていたのに、周囲は殆ど反応を示さなかった。才色兼備と称えられる人間がしていい行いじゃなかった筈なのに、だ。


 だけど、そうなればまた別の問題が出てくるように思う。


「先輩、魅了の力は「有って無いようなもの」なんて昔言ってたと思うんですけど」

「うん、それも嘘ついてた。ごめん。……本当は、魅了の力っていうのは人間相手には凄く良く効くの。……もちろん、吸血対象になった人間にも」


 なるほど。だから先輩はあんなに躍起になって止めてきたのか。


「魅了された人間はどうなるんですか?」

「思考が捻じ曲げられたり、魅了をかけられた吸血鬼に強い信仰心を抱いたりするようになるわ」

「昔聞いた戦争の話で、人を操る力を持つ吸血鬼の将軍がいるって聞いた事がありましたが……そういう事なんですね」

「うん。だけど、力の差によって魅了の効き目にも個人差があるの。大半の吸血鬼は人一人を従わせることも難しいわ」

「なら、先輩は——」


 どうしてそんなに力が強いんだ、と聞こうとして、その前に気が付いた。そうだ、先輩は真祖の系譜だと今日聞いたばかりじゃないか。

 先輩も僕の顔を見て、何を考えているのか悟ったらしい。


「そうよ。私の家は散らばった真祖の家系。全ての吸血鬼の根源の直系。だからこんなにも力が強いの」

「ちょっと強すぎやしませんか?」

「私の強さなんか、家の中でも下から数えた方がはやいくらいよ」


 それは……まあ、父親や母親もいるだろうしな。他の吸血鬼の能力を間近で見た事など無いが、多分別格なのだろう。

 ……それもいいとして、だ。


「……だけど先輩、まだ分かってないことがあるんですけど」

「ええ」

「先輩の話なら、血を吸われた経験がある吸血対象であっても、魅了の力にかかる事になると思うんですが」

「………」

「それってつまり——」


 言葉を濁した僕に、先輩は真っ直ぐな眼差しを向けてくる。もしそれが真実であれば、僕と先輩の短い関係もこれで終わりになるだろう。真実でなくても、僕がその事を疑ったという事実は先輩の心に少なからず傷を負わせることになる。どちらに転んでも、関係の変化は避けられそうになかった。


「……瑞希、落ち着いて聞いて。今から私が話すのは、嘘でもなんでもない」


 車の後部座席で体を寄せあったまま、先輩は僕の耳に囁く。小さく頷くと、彼女は僅かに潤んだ瞳を震わせて言葉を続ける。


「私はね、本当は本気であなたの事を——」


 しかしその時、銀のナイフで裂くように鋭い声が響いた。


「——夜様。敵襲です」




















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