第9話

 体育の時間が終わった後、着替えてすぐに校舎の一階に向かった。行き先は保健室。


 当たり前だが、学校側は先輩が吸血鬼だという事実を知っている。学園都市の学校の中には、多様性だと謳って吸血鬼の情報を勝手に開示するような酷い所もあるので、このような高校の存在は貴重だ。


「失礼します」


 挨拶して、少しガタつく横開きの扉を開ける。保健室特有の消毒の匂いと、快適な温度に設定された空調。体育で火照った体が心地よく冷えていく。中に入り後ろ手に扉を閉めた。


「ああ、天谷君。月神さんはもう来てるわよ」


 デスクで書きものをしていた養護教諭、高梨香織たかなしかおり先生が顔を上げてこちらを見る。白衣に黒縁の眼鏡といかにも厳しそうな外見だが、中身は生徒想いの良い先生だ。僕は彼女に頷いて、いつも吸血の時に使っているベッドに歩み寄った。


「……先輩?」


 カーテンの隙間から中を覗くと、だらしなく寝転がってスマホゲームに勤しむ先輩の姿。捲れたスカートからは白い脚が剝き出しになっている。


「……はぁ」


 ため息を吐いて先輩の横に回り込むと、くつろいだ表情で彼女は顔を上げた。


「……瑞希、遅い」

「これでも急いだんですよ」

「お腹空いたんだけど」

「はいはい……」


 相変わらず話を聞かない人だと思いつつ、僕はベッドの端に腰かける。適当に散らばった先輩の上履きをかき集めて、自分の靴と共にきちんと揃えた。


「保健室だからって、少し油断しすぎじゃないですか?」


 釘をさすが、先輩は画面から目を逸らさずに答える。


「いいでしょ。瑞希とあの人しかいないんだし」

「家での習慣が駄々洩れです」

「む……」


 眉をひそめて上半身を起こす。それから捲れたスカートに目をやり、脱いでほったらかしにされた靴下を見つめた。何も言わずにゲームに戻る。


「正す気は無いんですね……」


 僕が言うと、先輩は面倒そうにひらひら手を振る。


「そんなに言うなら瑞希がやってよ」

「僕は母親じゃないんですけど」

「お世話係ではある」

吸血対象パートナーに一体何を求めているんですか……」 


 とりあえず、このだらだら星人をゲームから引きはがそう。話はそれからだ。

 思い立った僕はブレザーを脱ぎ、ネクタイも外してワイシャツ一枚となる。上からぷちぷちとボタンを外している途中、予想通りに勘づいた先輩が顔を上げた。


「……美味しそうな匂い」

「それ、言われる側からするとかなり怖いですからね?」


 言いながらボタンを全て外し終わって、着替えやすいように肩だけ露出させる格好になった。正直、誰が来るかも分からない公共の場で服を脱ぐというのはかなり恥ずかしい。


「ほら、早く吸ってください」

「ムードがないなぁ……」

「注文が多い人ですね」


 外気に晒された肌がぞくぞくして寒い。吸うなら吸うで早く済ませて欲しいのだが。

 手のひらで肌を擦り温めていると、先輩がすすっと近寄ってくる。首筋にひんやりとした手が置かれ、そこから背骨を伝うように撫でられた。思わず声が出る。


「うひゃっ⁉」

「お、いい反応」

「先輩!」

「わわ。ごめんごめん」

「あ……すみません。大きな声出して」


 気を取り直して前を向くと、先輩が背中にゆっくりのしかかってきた。人間より少し体温が低いが、ぬるま湯に包まれているようで心地よい。うなじの辺りが今日の吸血ポイントのようで、狙いを定めるように先輩はあちらこちらに顔を動かしている。


「まだですか?」

「……瑞希、どの部分も美味しそうだから。どこから血を吸うか迷う」

「一気にがぷっとしてくれた方が楽なんですけどね……」


 いつ牙が肌を貫いてもおかしくない状態というのは怖いし、不安になる。輪ゴム鉄砲を顔の目の前に突きつけられている気分だ。

 食べる側の事情はよく分からないが、食べられるこちらの気持ちも少しは気にかけて欲しい。


 そう思った時、ぬるりと冷たいものが首の一点を撫でる。先輩の舌が、牙を突き立てる場所の滑りを良くしているのだ。

 直後、「いただきます」という声と、つぷり、と鋭いものが肌の中に侵入してくる感触。痛みは殆どないが、代わりに首筋が焼けたようにかっと熱くなる。僅かだが、麻酔と催淫効果のある成分が唾液に混じっているのだ。


「…………」

「…………」


 こくり、こくりと、ゆっくり血が吸われていくのが分かる。こぼれそうになったのを、先輩の舌が丁寧に舐めあげていく感触も。溢れんばかりの極上のワインを前にしたように、先輩は夢中で僕の血を吸い続ける。


 ……ふと、ずっと昔にどこかの本で読んだ話を思い出した。食物連鎖の話だ。


 サバンナのシマウマがライオンに生きたまま食べられている時、彼らは痛みよりも快感を感じているのだという。死の間際にいることで脳内のホルモン分泌が活発化し、快楽成分を伴う物質が大量に体中を巡るのだとか。生物が死の恐怖を少しでも和らげるため、発達させてきた仕組みなのだそうだ。


 となれば、今の僕が感じている感覚もたぶん似たようなものなのだろう。

 吸血鬼という捕食者に命を吸われ、だんだんと近づいてくる死に対して体が準備している過程。その中には恐怖と共に快楽がある。 

 自らを吸い殺してくれと吸血鬼に懇願する人々は、この愉悦とスリルから抜け出せなくなった依存症患者たちの成れの果てなのだろうか。


 だんだんと頭に霧がかかってきた所で、するりと牙が抜かれる感覚。針の先ほどの小さな穴から盛り上がる血を、先輩は勿体ないと言わんばかりに残らず吸い上げた。


「ごちそうさま」


 離れていく体温に若干の名残惜しさを感じつつ、僕は首を縦に振る。そのままベッドに仰向けに寝転がり、血濡れた口元をぺろりと舐める先輩を見上げた。


「美味しかったですか?」


 先輩は頷く。


「いつも通りにね。でも、少し元気がないみたいだった」

「元気って、僕の?」

「うん」


 ……血の味でそこまで分かるのか。恐ろしいほどの正確さだな。


 だけど、今は誤魔化しておくのが適当だろう。


「たぶん、朝に沢山血を吸われたからだと思います」


 すると眉尻の下がった顔で頷かれた。


「……そっか。大丈夫?」

「はい」


 先輩に隠しごとなどしたくは無かったが、秋との会話すべてを話すと言うのもなんだか違う気がする。これはたぶん、僕の中でじっくり考えていかなければならない問題だと思うのだ。

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