『深淵の果てに』②

 「! やべ、考え事をしている内に、出口? 発見……って、何だあれ」


 甘くほろ苦い紫煙と懐かしい思い出に浸っていた最中。

 いつのまにか、隠し通路の奥で燃える光源の影を発見した。

 闇に揺らめく炎の灯りがあるということは、この先に人間がいる。

 正体は探し求めている獲物石井、もしくは他の誰か共犯者なのか未知だが。

 黒沢は腰帯ベルトから取り出した拳銃を握る手へ力をこめた。

 野虎のごとき忍び足で着実に前へ進んでいく。

 しかし、通路の左角に曲がる寸前、暗い地面で青白く光る"物体"に気付いた。


 何だあれは。まさか、石井の落とし物か?


 青白く輝く物体――機械端末の正体を確かめるべく、黒沢は体を前屈させて目を凝らした。

 途端、黒沢は心臓へ氷柱が突き刺さるような驚愕に双眸を見開いた。

 黒沢は土で汚れた無機質物を震える指で操作し、三次元画面を宙闇へ投映させるた。

 電源の著しい消耗を訴える音声案内と共に、半透明の画面に表示された、使用者ユーザーのID番号と氏名に――黒沢の背中へ嫌な汗が流れた。


 「……冗談だろ。よりによっての……蛍の警察端末じゃねえか!」 


 黒沢と親友にとって、最もかけがえのない存在の所持物が、何故こんな場所に落ちているのか。

 蛍ほどの刑事官が、重要な仕事道具を落とすという初歩的な失態ヘマを冒すとは到底思えない。

 まさか、蛍も既にこの場所を突き止めて、ここで――。

 持ち主を失って虚しく点滅する警察端末を手に、呆然と立ち尽くす黒沢の心へ"最悪の顛末シナリオが浮かんだ。

 全身の血が暴れ狂うような焦燥から始まり、憤りへ変容していく感覚に背中を押される。

 黒沢は銃口を前へ構えた姿勢で地面を勢いよく蹴った。


 「蛍、どこにいる!? 俺が来るまで絶対に待っていろよ――!」


 あの蛍が一刻を争う窮地へ陥っている可能性。

 居ても立っても居られるはずもない黒沢は、深淵の闇を抜けた光の先へ最初の一歩を踏み入れた――。


 「――」


 突如、鼓膜を震わせた声源は闇を抜けた場所の直ぐ目の前か、それとも背後斜めからだったか。

 唯一鮮明なのは、右側頭部へ走った凄まじい鈍痛と生温かく濡れた感触。

 隙を突かれた、と気付いた頃には既に遅かった。

 黒沢の体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 かび臭く濡れた地面へ伏せた黒沢の意識は、遠ざかる朧月さながらじわりと薄れる。

 行方と安否の不明な蛍、今頃彼女を心配している光、そして仲間達を案じる中、腹立たしい焦燥と鈍痛に苛まれる。


 「暫く、お前には退してもらう――『計画』の邪魔にならないように――』


 親友の照れの混じった不愛想な面。

 隣で少女のように微笑む蛍。

 大切な二人の姿が黒沢の脳裏に優しく浮かぶ。

 けれど突如、再び耳朶を舐め上げるようか声に邪魔され、親友達への意識は掻き消されそうになる。

 おぞましいほどに美しく、けれど胸糞の悪くなるほど甘ったるく気配ニオイだ。

 石井とは決定的に異なる佇まい。氷菓子さながら甘くも、底冷えする声を鍵盤ピアノのように流麗に奏でた声。

 自分を後ろから殴りつけてきたこの男の危険性は、声と気配だけで本能的に感じ取れた。


 蛍――逃げろ――"この男"は危険だ――。


 この男こそ、まるで――。

 冷たい麻薬のように甘美な危険を孕んだ――関わる人間の全てを糸も容易く"狂わせる"存在だ。



 *


 誰かに呼ばれている――。


 ――……! ……! ……たる……! 蛍……。


 一瞬、最も鮮やかな記憶に浮かんでは霞に消えた"あの人"かと錯覚した。


 「――蛍……! 聞こえているか……? 俺が分かるか……!?」


 あまりにも悲痛な呼び声に鼓膜を激しく揺さぶられた蛍は即座に悟った。


 「……ひ……かる……?」


 虚白の微睡みへ沈んでいた蛍の意識は、光の呼び声によって現実世界へ"生還"した。

 意識は未だ白く霞みにかかり、体は沼のように重く怠い。

 重いまぶたへ力を込めて薄っすらと上げた蛍の視界へ真っ先に入ったのは――医療室らしき真っ白い壁と天井。鼻を突く消毒液の匂い。

 そして、胸を引き裂かれたような悲痛の面持ちへ、安堵の色を浮かべた光の姿だった。


 「……私……? どうなって」

 「馬鹿野郎! 一人で無茶するなとあれほど言っただろ! 心配かけやがって!」


 自分の現状を全て把握しきる間も与えられず。

 目覚めた蛍の体を光は痛いほど強く掻き抱く。

 光の広い胸のぬくもり、懐かしい彼の匂い。

 力強い両腕から微かに伝わってくる震え。

 ぶっきらぼうで少々乱暴な物言いだが、光らしい不器用な愛情と優しさが滲み出ている。


 「光……心配かけて、ごめんなさい」


 きっと、心配性で優しい光のことだ。

 医務室に眠る自分の意識が戻るまでの間、恐怖と焦燥、寂しさに独り耐えながら、健気に傍で待っていてくれたのだ。

 蛍を抱きしめて離さない光に対し、蛍は無茶を冒した反省と小さな罪悪感が湧いた。

 同時にもう一度生きて光と会えたことへの深い安堵に、蛍の瞳の奥も自然と熱くなる。


 「でも、、無事で……俺は……っ」


 一方、徐々に明瞭へ戻りつつある頭の中、蛍は意識を奪われた直前の記憶を辿る。

 エクリプス区の地下で、私は壁の奥に隠されていた秘密の空間――石井容疑者が逃走経路に使ったと思しき闇の通路を潜っていた。

 しかし途中、通信不良にあったはずの警察端末へ行方不明だったはずの「深月義兄さん」から、突如謎の通信が入った。

 予想外の事態に動揺しながらも、蛍は状況を確認しようとした。

 しかし、義兄は蛍を案じながらも意味深な台詞を残して通信を一方的に切って、それから――。

 剛腕の感触と不愉快な低い声しか記憶に残っていないが――の怪しい輩に背後から襲われ――そこから記憶は途切れている。

 危険な巣窟の中枢にて、正体不明の怪しい男に身動きも意識も封じられた瞬間。

 蛍は無念と共に己の"終わり"を確信していた。

 しかし、現実に蛍はルーナ警察署内の医療室の寝台にいる。

 幸い、体には目立った異常も外傷もないらしい。

 蛍の恋人である光も何事もなかったかのように傍にいる。

 まさに、隠し通路での不可解な一連の出来事は全て"悪夢"だったのか、と薄気味悪い錯覚すら覚えた。


 「本当に心配したんだ、蛍。お前、眠っていたんだ。医者は、"薬物"の影響だと言っていたが」


 蛍を抱きしめたままの光が不意に零した言葉に、蛍は軽い衝撃を覚えた。


 光が医師から聞いた話曰く。

 恐らく隠し通路で襲ってきた男が嗅がせた薬物の影響で、私は丸三日間も眠っていた。

 薬物の正体は、最近になって一般市民の間にも出回っている『安眠薬ドラッグ』の類らしい。

 蛍の意識を奪ったのは、短期間の少量であれば人体への悪影響は少ないが、多量服用だと軽く吸うだけで瞬時に深い眠りへ引き摺り込まれる「カモマイルC」のと推定されている。


 「……そういえば、光。はどうなったの? それに私はあの時」


 エクリプス区潜入から既に三日も経った現実を呑み込めた蛍は、"あの後"の石井の現状を問う。

 途端、光は口をつぐんで瞳を伏せた。

 口下手な光が言葉を逡巡しているというよりも、答えることを躊躇ちゅうちょしているのを窺えた。


 「光……私は大丈夫だから、おしえて? 私の意識のない間に、一体何が起こって……「詳細はから説明しよう」


 蛍と光の二人きりで仕切られていた医務室へ粛然と入室してきたのは、浜本副部長だった。

 再会を喜び合う二人を気遣ったのか、直ぐ外で待機していたのだろう。

 今回の協働捜査班の責任者リーダーでもある浜本。

 彼には「潜入捜査」で事件トラブルに巻き込まれた蛍からの報告を聴き取り、事件の進捗状況を説明する義務と責務がある。


 「藤堂刑事官は、暫し席を外してくれ」

 「だが……っ」

 「これは"命令"だ」


 伊達眼鏡越しの瞳には普段と変わらない理知的な光が宿っている。

 しかし、一文字に固く結んだ唇と鋭い眼差しから、浜本自身もやるせなさを堪えているのが窺えた。

 命令だ、と厳しい口調で促す様子から、彼は今の光の心中を察しているからこそ。

 浜本なりの気遣いを察した蛍は真剣な眼差しで光へ「大丈夫だから」と微笑む。最初は難色を示していた光は、後ろ髪を引かれる様子で退席した。


 「具合の方はどうだ? 櫻井刑事官」


 浜本と二人残された瞬間、医務室に張り詰めた空気から、蛍は既に胸騒ぎを覚えた。

 寝台で上肢を起こす蛍に対して浜本の第一声は、彼女の体調を案ずる事務的な声だった。

 「大丈夫です」、と冷静に答えた蛍に、浜本は珍しく柔らかな色、というか安堵を浮かべていた。

 それでも蛍の眼差しからは不安の色も胸騒ぎも消えなかった。

 先程退室した光だけでなく、目の前の浜本からも"事件の話題"へ触れる事自体を躊躇して見えるからだ。

 当の浜本は慣れた手付きで、自身の警察端末を操作している。

 事件の報告書を検索しているのだろう。


 「浜本刑事官。失礼ながらお伺いたいのですが。あの後、何かあったのですか。『朧月』……石井は、捕まえることはできたのですか」

 「石井の件も説明しよう。だが、その前にお前本人から直接訊きたい。大体のあらましは、お前を発見した藤堂と望月達からも聞いたが、"あの隠し通路"で何を見た?」


 猛烈な胸騒ぎと焦燥のせいか、冷静な蛍らしからぬ催促に、浜本は神妙な眼差しを向けてきた。

 さらに物申したい事があるらしく、今までにないほど眉を深くひそめている浜本から咎めるような気配も感じた。


 「それに……冷静沈着な櫻井刑事官あろうものが、

 「……事を急いていたとはいえ、"単独行動"へ走ったのは、捜査の合理性を欠いた軽率な判断でした。誠に申し訳ありません」

 「まったくだ。まるで、"死に急ぐように"単独で無茶ばかりの新人時代へ戻ってしまったのかと心配したぞ」

 「返す言葉もありません」


 今度こそ石井を逃がさない執念は仲間も同じだった。

 とはいえ、蛍は仲間との連絡手段と安全の確保を怠った挙句、独走行為で自らを危険へ晒した。

 幸いにも、奇跡的に無傷で帰還が叶った理由と経緯に謎は残るが。

 しかし結果として、蛍は仲間へ多大な心配と迷惑をかけてしまった。

 今回ばかりは己の力を過信した判断ミスを猛省した。


 「まあ、いい。冷静沈着なお前のことだから、単独追跡を選んだ"それなりの理由"があるのだろうな?」


 氷のように凛とした仮面を崩さない蛍の珍しく沈んだ表情。

 非の打ち所がない刑事官と署内で謳われる蛍の落ち込んだ姿など、滅多に見れるものではない。

 浜本は不謹慎ながら芽生えた親近感を誤魔化すように、壮大な溜息を露骨に零した。

 しかし、厳格な眼差しと呆れた口調には相手をさりげなく案じる色を感じるせいか。

 蛍は申し訳なさこそあれ、不思議と胸が温かくなった。

 刑事部随一"厳しい"副部長は、部下の失態や非礼へ強く苦言し、激励しつつも気にかけてくれる"良き上司"だから。


 「ではまず、石井に関してだが……"二つだけ"伝えておかなければならないことがある――」


 さっそく本題である情報の報告と共有に入る際。

 浜本は先程まで心に堰き止めていたモノを零したような重苦しい表情へ変わった。

 不穏な予感に身構えた蛍を前に、浜本は意を決した眼差しで毅然と告げた。


 「石井を追っていた隠し通路で気を失っていたお前を我々が発見した時――既に


 蛍は双眸を凍りつかせて暫し言葉を失った。

 やりきれない悔しさと不甲斐なさに、浜本が舌打ちを必死に堪えているのがひしひしと伝わってきた。

 浜本ですら意識せねば冷静ではいられない衝撃的な事実に、先程の光の反応と理由を悟った。

 蛍も呼吸と瞬きを忘れたまま、浜本の顔と端末から照射された報告書画面を凝視した。


 「石井が遺体なって発見された件は『猟奇殺人事件』として、第一と第二と共に引き続き捜査すると決まった」


 蛍ですら予測し得なかった結末を現実として理解するのに暫し時間を有した。

 あの石井が――一体"誰"の手によって?

 エクリプス区の秘密の地下街に、身を潜ませていた石井。

 彼の不自然な言動や狼狽ぶりから窺えたのは、斬殺された佐々木被害者への確固たる憎悪。

 協働捜査班の全員は、石井をほぼ『黒月』だ、と断定しきっていた。

 ところが、追跡から逃げ延びたと思われた石井は呆気なく発見された。


 無残な"惨殺死体"となって――。


 結局、石井本人から情報を聴き出す前に、事件の真相は彼の死と共に葬られた。

 石井には"共犯者"の存在と可能性も示唆されているが、確固たる痕跡も手がかりもないのが現状だ。

 一度は身柄を確保した被疑者をみすみす逃がした末に、被疑者自身が殺害された。

 蛍達の失態はルーナ警察署とICT安全監視装置への信頼と面子を失墜させかねない痛手となるだろう。


 「……それでは、"二つ目"の報告は、何でしょうか」


 しかし、「石井被疑者死亡」の知らせは"序章"に過ぎなかった。

 蛍と光にとっては、さらに残酷な現実が彼らを"絶望の淵"へ突き落とす羽目となった。


 「あの時、逃走した石井を探すために我々が地下街で別れて以降――""になった――」


 心臓を氷柱で貫かれたような衝撃に、薄氷の瞳に動揺の亀裂が走った。

 報告した浜本自身が居た堪れなさそうに視線を逸らした仕草は、明確な事実を示唆していた。

 "あの夜"と同じ感覚が蘇る――。

 現実も時間も全てが虚ろに凍結していく感覚――に味わった底冷えする絶望感が――。


 『蛍――俺の親友を――光のこと、マジでよろしくな!』


 蛍を現実世界の温もりへ帰してくれる記憶は、"三人"で過ごした時間。

 黒沢に茶化されて不貞腐れつつも、若干の照れと親しみに微笑む光。

 生真面目な弟を揶揄からかって愉しむ、面倒見の良い兄貴のように笑う黒沢。

 互いを認め合う兄弟のように言葉を交わす仲睦まじい二人の姿。

 そして、光との交際を決めた自分に向かって、黒沢が晴れやかな笑顔と共に贈ってくれた"祝福"の言葉。

 黒沢との思い出は走馬灯のように蘇ってくる。


 「っ――ちくしょうが……」


 一方、医務室の外で蛍を待ち詫びる光の脳裏にも熱く蘇っていた。

 壁に背を預けている光は血が滲むような悔しさを独り零しながら。

 無力で不甲斐ない己への苛立ちを燃やして。

 現在も何処か影から他者自分達を翻弄してほくそ笑む"黒幕"。


 石井を無残に殺害し、親友の黒沢を攫ったと思しき"真犯人"は、必ずこの手で捕まえてみせる――。


 今度こそ、"守って"みせる――親友も、蛍も。


 己の無力と悔しさへ気の済むまで打ちひしがれた後の光は、確固たる決意を拳へ込めた。



***次回へ続く***


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