Interval③

 斎賀家の子どもになった蛍。

 実母との同居時代では想像に及ばないほど、ひどく穏やかな日々を過ごしていた。

 この家では、誰かを罵ったり、存在を否定したりする者は誰一人もいない。

 たとえ、蛍が笑顔一つも見せずに口を噤んだままでも。

 この家で暮らす誰もが、穏やかな微笑みと優しい言葉をかけてくれる。

 温かいご飯も寝床もお風呂も自室ですら、蛍に必要以上の全てを惜しみなく与えてくれる。

 太陽は恵みの光を万人へ注ぐのと同じように。

 静かな秋日向のぬくもりに似た愛情と優しさは、傷ついた蛍の体も心も徐々に、確実に癒していった。

 それでも、幼い蛍の胸には正体の分からない"不安と恐怖"常に纏わりついていた。

 蛍の心に巣食った"過去"の闇は、彼女へ惜しみなく注がれる愛情の陽光を時折遮っていたからだ。

 世に生まれた瞬間から、血の繋がった母親に存在を否定され、無視され、殴られ蹴られ、唾を吐かれて。

 暗くて、寒くて、臭い、凍った泥沼みたいな場所で母と共に沈むように生きていた蛍。

 しかし、今の蛍は血の繋がりもない他人に歓迎され、惜しみない愛情を注がれている。それも無条件に。

 当時の蛍にとって到底信じられない、どこか非現実的なものであった。

 新しい家族による無条件の愛とぬくもりに期待することも。

 自分を産んでおきながら、後に全てを否定した実母のように――いつか自分を突き放す可能性を想像することも。

 蛍には耐えがたい葛藤と苦痛だ。

 そのせいか、当初の蛍は斎賀夫妻へ"子どもらしく"上手に甘えることも、心開くのにも時間を有した。

 二人の優しさに報いることができていないくせ、誰かに再び捨てられる恐怖に苛まれている自分が"欠陥品"のように感じた。

 温もりに包まれても、心だけは独りぼっちなままの蛍にとって唯一つの救いだったのは――。


 「やぁ、蛍。また来てくれたね」


 斎賀夫妻が出勤中の間、この家に残るのは幼い蛍と義理の兄の深月のみ。

 或る日、両親を見送った後に自室で手持ち無沙汰になった蛍は「書斎」を訪れた。

 小さな魔法図書館さながら、彩りの物語や研究記録、古文書などの本に溢れた書斎。

 書斎へ足を運ぶと、臙脂色えんじいろのベルベッドソファに腰掛けて本を読む義兄と必ず顔を合わせた。

 幼い義妹に気付くと、深月は必ず顔を本から離してから穏やかにあいさつをした。

 淡い雪のような微笑みを降らせながら。

 冬の太陽を彷彿させる静かで温かな声に歓迎された、蛍は幼い瞳を丸くしながらおずおずと頷く。

 すると、深月は何事もなかったかのように視線を本へ戻す。

 冬の静謐せいひつに似た雰囲気に再び包まれる書斎。

 夜の深海色、厚皮の真紅、森の深緑色、妖艶な紫色まで、優雅な濃色。

 多様な本が整然と並ぶ本棚を見渡しながら、蛍は読書中の深月へ時折視線を注いだ。

 書斎を初めて訪れた時もそうだったが、義兄は幼い義妹の蛍に対してはいつも優しくて…… 冷たかった温かかった

 矛盾した表現なのは自身も承知だが、義兄の独特な雰囲気を示すのに最も適している気がするのだ。

 愛情豊かな夫妻と同様、義兄も常に物腰柔らかな人間だが、唯一異なる点もあった。

 深月は家の中にいる蛍を瞳で視認すると、決まって穏やかに微笑みながら名前とあいさつを零す。

 しかし、それ以上は会話らしい会話も詮索もしなかった。

 蛍が書斎でどう過ごしていても気に留めない。

 幼くか弱い義妹を拒絶することも、自分都合な干渉や無関心もない――ただ、蛍の好きにさせる。

 まるで、互いは部屋の椅子のように当たり前、空気のように受け入れていた。

 深月に独特な"静謐の距離感"は、蛍にとってひどく心地良かった。

 そのせいか、斎賀夫妻や他の大人と接する時に生じる不安や緊張が、深月に限っては不思議と湧いてこなかった。


 「『ヴォルスンガ・サーガ』……古エッダの伝説物語だね」


 しかし、二人の静かな関係に"変化"が起きたのは、或る秋の昼間での書斎。

 普段通り、彩りの本の表紙と題名を呆然と眺めるだけだった蛍は、"或る一冊"の本を手に取ってみた。

 すみれ色の夜空を映したような濃い紫色の表紙で覆われた本。

 題名は煌めく銀の刺繍で綴られている。

 頁の縁に一枚ずつ塗られた銀の色彩は、本を閉じると銀の帯を成す。

 煌びやかな美しい本へ、幼心にも魅了された蛍は本をそっとめくってみた。

 しかし、普段にはない好奇心に輝いていた蛍の顔は、一瞬にしてしかめっ面へ変わった。

 本は外国語の古い文学書だった。

 日昇国では、一般言語の日昇語と英語を就学開始時から並行に学べる。

 しかし、幼稚園も通ったこともなく、義務教育すら開始していない蛍には当然読めない。

 幼い蛍には理解不能な単語の羅列ばかり瞳へ映り込む。

 それでも、蛍は本を持つ両手を一向に離さない。

 美しい本に綴られた世界を覗きたい、という想いに諦めがつかないのか。

 無駄と知りながらも次の頁を捲った矢先に、いつの間にか深月が背後で微笑んでいた。


 「その本、気に入ったのかい?」

 「あの……っ」


 音も気配もなく近付いていた義兄の姿に、蛍の幼い心臓は早鐘を打った。

 蛍には到底読めない本の題名を、歌うような流暢さで唱えた深月。

 そんな義兄の高い語学力と美しい声に、蛍は幼心にも嘆息する一方で驚きと戸惑いを隠せなかった。

 今までの二人は、共同生活に必要最低限の言葉しか交わさなかった。

 しかし、蛍の心に踏み込もうとしなかった深月は今初めて、蛍へ関心らしい関心を示した。

 深月の視線は蛍の手にしている本へ静かに注がれている。


 「でも、蛍にはまだ難しい本だね」


 深月は幼い蛍ですら分かり切った事実を、柔らかくも淡々とした声色で零した。

 途端、惨めな羞恥に近い居心地の悪さが蛍のから一気に沸き立つ。

 一瞬、今すぐここから消えてしまいたい、と思った。


 「っ……ごめん、なさい……私……」


 何に対してなのか、蛍自身も漠然としたまま咄嗟に俯いて謝った。

 勝手に本へ触れたことか。

 それとも"見た目が綺麗"、という理由だけで手に取った難解な本を生意気にも知りたがった己の幼く浅はかな好奇心か。

 一方深月は、床に座ったまま消沈する蛍の前へ膝をついた。


 「……主神オーディンの血を引く父シグムンドから生まれた、大英雄の名は『シグルズ』……」


 俯いていた蛍の鼓膜を震わせたのは、大人びた青年の美しい朗読の音色だった。

 蛍が床を見つめていた視線を恐る恐る上げると、静穏に微笑む深月と目が合った。

 深月は蛍を映す冬空色の双眸を穏やかに細めると、すみれ色の本の頁へ視線を戻した。

 ピアニストさながら優美な白い指で本の背を支え、銀に縁取られた美しい頁を優しく捲った。


 「選ばれた者のみが手にする、名剣グラムの使い手であるシグルズ。竜の隠し持つ宝を手に入れるために、勇気を燃やしたシグルズは、邪竜退治へ赴いた――」


 清雅な冬風さながら響き渡る青年の涼やかな旋律の声。

 次第に、秋の夜長さながら静かなぬくもりをなびかせる声色へ移ろいゆく。

 花びらのような淡い唇から流麗に奏でられるのは、『ヴォルスンガ・サーガ』の"生と死"、"愛と哀"の物語。

 幼い蛍も無意識に聞き入る中で、初めて深月の威容を瞳へ焼きつけた。

 一目見た瞬間から蛍を惹きつけた日昇人離れの髪色は、やはり白銀の月さながら美しい。

 叡智を静謐に秘めた眼差しは哲学者にも慈悲の神様にも見える。

 どこか神秘的な美しい雰囲気を醸す朗読姿から目を離せない。

 ああ、そっか――幼い蛍はようやく気付いた。

 難しい古英文を読めない蛍のために、深月は物語を読み聞かせてくれているのだ。

 幼い蛍にも分かり易い表現へかみ砕いた即興の翻訳と共に。

 薄々と感じ取ってはいた深月の静かな優しさに"虚飾"はなかった。

 深月が蛍へ向ける感情を少しだけ悟った瞬間、蛍の胸に初めて安堵が灯った。


 「すごいね……お兄ちゃん。どうしたら、こんな難しいお本、読めるの?」


 不安と緊張から他者と一定の距離を保っていたはずの蛍は、気付けば素直な想いを自ら言葉に紡いでいた。


 「そんなことないさ。たまたま僕、この本を気に入って、読めるようになりたいから勉強したんだ」

 「そっか……あの……よかったら……その……続き、読んで、くれますか?」


 静かな秋陽のぬくもりと愛に満ちたこの家に来ても、心を氷に閉ざしていた蛍が初めて零した"希望"。

 期待と不安の入り混じるあどけない眼差しと声に、深月は二回ほど瞬きをした後。


 「もちろん。君が望むなら、喜んでずっと読むよ」


 深月は家族を愛おしむ少年らしい微笑みをほころばせた。

 かくして、蛍にとって賢くて優しい義兄に本を朗読してもらうことが一番の楽しみとなった。

 義兄と義妹として初めて心も交わした瞬間から、蛍にとって深月の存在が全てになった。

 不安と恐怖に虚ろいだ蛍の世界は、義兄の語る鮮やかな優しい色へと染まっていった。


 「ありがとう、"お義兄ちゃん"――」


 日頃は蛍も深月も書斎で時間を長く費やしていたが、大きく変わったのは"二人で"本を読むようになった事。

 蛍にとって深月と一緒に"世界を読み渡る"穏やかな日々は、何にも得がたい大切なものとなった。



 ***



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