Interval④
実母による虐待から保護され、斎賀一家の養女になった蛍。
しかし、温かな家庭へ迎えられても尚、傷ついた心に"安寧"は容易く降りてはこなかった。
自分は誰かに受け入れられるほどの価値ある存在ではない。
そう心を凍り閉ざしていた蛍の日々は、深月義兄との出逢いによって一変した。
「お義兄ちゃん。今日はどんなお話を聞かせてくれる?」
「そうだね……今日は『ギルガメッシュ叙事詩』でも読んでみようか」
『ヴォルスンガ・サーガ』を初めて朗読してもらって以来、幼い蛍は深月へすっかり懐いていた。
以前の緊張と不安に凍り固まっていた態度は、まるで嘘のように。
今日も蛍は深月と共に書斎で本の世界へ入り浸る。
まさに
「これは、世界で最初に綴られた、世界最古の物語」
「ギル、ガメッシュ……。何だか不思議な名前。世界で最も古い話。面白いかな?」
物語は甘い夢に満ちた優しいものだけではなく、耽美な恐ろしさに彩られたものまで多彩だ。
蛍が未だ幼いのもあってか、当初の義兄はお
今の蛍にとって何にも代え難い至福のひと時となっている。
「それは、最後まで読んでみれば分かるよ。さあ、僕の所へおいで。蛍」
深月は可憐な蛍を手招きすると、彼女も待ち侘びた笑顔で応える。
「うん!」
今では、蛍自ら深月の膝上へ無邪気に座り、本の朗読をねだる始末だ。
蛍を膝上に乗せた深月は、彼女を後ろから包み込む。両脇から伸びた両手は本の両端を丁寧に掴む。
今日も深月が蛍のために選んでくれた、甘く、時に切なくなる、温かな「物語」から始まる。
今思えば、深月も最初は彼なりにさり気なく蛍を気遣って一定距離を利口に保っていたのだろう。
しかし、今の蛍は自分へ深い安堵と敬慕、関心を灯している事を理解してか。
深月自身も以前に増して義妹の蛍を優しく呼びかけ、温かな手で蛍の頭を撫でるようになった。
幼い蛍が、深月の愛読書にも興味を寄せ、時折素朴な疑問を投げかける積極性にも彼は純粋に好感を抱いたのだろう。
互いに様々な本を共に熟読し、共に語り合う作業の虜となって。
「[ギルガメッシュ]は、彼の顔を向[け]、エンキドゥに向かって[言った]。[なぜ]お前の眼は、涙で満ちているのか。お前の[心は苦しみを感じるのか。]……」
普段は、麗らかな"春"を謳うような甘い物語と陽気な喜劇を。
時に"冬"のように凍りつくほどおぞましく、けれど幼き心を胸打つ
物語の抑揚に合わせて、季節のように色を絶妙に移す清雅な声。
一句一節は音楽さながら美しき調べとなって蛍の胸を熱く震わせる。
蛍は優しくて知的な義兄の深月が、本当に"大好き"になった。
最近は書斎に限らない別の時も、蛍から深月の傍に寄り添う。
秋の陽光を彷彿させる声で、蛍の名前を慈しむように呼ぶ声も。
小さな蛍の頭を撫でる、大きくて温かい手も。
蛍の長い黒髪を「夜の帳を絹にしたように綺麗だ」、と褒めながら
冬の静謐と秋の日向のような穏やかさで蛍を抱擁する微笑みも。
「ねえ、お兄ちゃん。今度は、このお本を読んでほしいの」
「これは……『ニーチェ』の本だな。蛍には、未だ難しいと思うが」
幸せなことに、当の深月自身も蛍を鬱陶しがる気配は一切ない。
深月が常に静穏な態度を変えることなく蛍を歓迎してくれるからか、彼女には"無垢な欲"も湧いていた。
"大好きな義兄の見つめる世界を自分も共有したい"――今思えば、我ながらマセた子どもだったのだろう。
深月の愛読書の大半は、神話やお伽噺の比にならないほど抽象的で難解に映った。
所詮、自分の幼い脳味噌では自力で理解しきれない。
世界の歴史から哲学、古典と現代文学、神話、心理学まで、義兄は多種多様な本を読破していた。
義兄に分からない世界の事柄は存在しないのでは――そう錯覚させるほどに、深月は非常に博識で機知に富んでいた。
決して幼い蛍の義兄贔屓に基づくものではなく。
「むぅ。確かに、難しかったよ。でもお義兄ちゃんなら、もっと分かりやすく教えてくれるでしょ? お義母さんも、お義父さんも、お義兄ちゃんはすごいって褒めてた」
事実、深月はたった十歳の若さで、「卒業認定試験」を合格した功績を持つ。
小学校から大学相当レベルの学習課程を飛び級の、しかも一発合格で在宅教育を修了。
日昇国には、在宅教育の修了を経て国の特別試験を合格すると、義務教育修了証明書を受領できる「
在宅教育の担い手は、教育者課程を修了した公務職の人間、それに準ずる能力を持つと国に認可された者(生徒の身内を含む)である。
蛍の心を豊かな本の世界へ誘い、海のように高大な知識を教えてくれる深月を鑑みれば、幼い蛍も腑に落ちた。
叡智の結晶が詰まった義兄の頭脳にも、蛍は心から憧れと尊敬を抱かずにはいられない。
「そこまで持ち上げられると困るな。でも蛍の願いなら」
「ありがとう! お義兄ちゃん」
在宅教育修了後も、深月は頭脳明晰な優等生として近所ではやや有名な存在になっているのも知っている。
冬にひらめく雪のように白い髪と肌。
色素の薄い冬空色の瞳。
周囲を惹きつける儚げな美貌は、"アルビノ"だった祖父譲りらしい。
深月の祖父は、日昇人兵士としての戦時功績と共に、国から勲章を賜った偉い人物らしい。
ちなみに、現在十一歳の義兄は「公設学校」には通っていない。
普段は家で読書をして過ごしながら、多忙な両親に代わって家事と蛍の世話を見ている。
雇用契約を結べる「十五歳」に達するまでの間はまだ働けない。
だから深月は両親の手伝いをしながら、季節過ぎの長い"卒業後休み"を満喫中だ。
おかげで斎賀夫妻が勤務で不在時も、家族揃って食卓を囲む時も、蛍と深月はいつも双子のように寄り添い合った。
二人はどこで何をするも、大抵一緒であった。
あの時も――あの夜までは――。
***
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