雨と人魚

睦月ふみか

第1話

 とある湖に人魚の伝説があった。人魚の姿を見たものは悟られてはいけない。もし悟られてしまえば湖の中に引きずり込まれてしまうという。その理由は定かではない。


 空気が熱を帯び始める7月、人魚の伝説を聞いた高校生たちが噂の湖にやってきた。時刻は6時を過ぎていたが、日が延びているこの時期は辺りが薄暗い程度だった。湖の近くにテントを張り、キャンプという名目で用意した道具や食料を準備して、食事を済ませた。和気藹々と年相応に騒ぐ高校生たちは、伝説を探りに来たというより遊びに来たという感覚に近いのだろう。夕食後、彼らは大きな荷物を一纏めにし、傘の付いている椅子を湖の前に設置した。皆で30分置きに交代し、湖を見張ることになった。


 ひとりの高校生が外に出ると、雨が降り出した。彼は手持ちのライトを点け、傘付きの椅子に腰掛け、本を読み始める。雨のジメジメとした空気の影響で本が湿っているように感じた。実際は雨風が彼を濡らしているため、本も僅かに濡れていた。椅子に付いている傘は、本来日傘として用いられるためあまり雨を凌ぐ効果はないが、何も無いよりはマシだろうと思い、彼はそのまま使っていた。雨傘自体は持っていたが、テントの中に取りに行くのは面倒だったのだ。


 何度も吹き付ける雨風にうっとうしさを感じていた頃、湖の方からぴちゃんと水が跳ねる音が聴こえた。雨音にしては少し大きく、彼は音の原因を探ろうと視線を湖へ向け、小さく息を呑んだ。髪は長く、身体の所々に魚の鱗のようなものを持つ女が、彼をひっそりと見つめていたのだ。それが人魚なのだと彼は直感した。危うく声が出そうになるが、手で口元を押さえ、何とか耐えた。彼は人魚の伝説を思い出し、咄嗟に視線を本へと戻した。何事も無かったかのように本のページを捲る。しかしながら、彼に本を読んでいる余裕は無く、一定のリズムでページを捲っているものの、心中はそれどころでは無い。


 雨は先程よりも強く地面を打ち付けていた。自身の動機が早くなるのを感じ、彼の背中にジットリとした嫌な汗が伝う。今すぐテントに入るべきか、気付かぬ振りをしてこのままやり過ごすか。妙な緊張感が彼を襲ってくる。もし、伝説が本当なら...と、彼は自分の身を案じることしかできないでいた。そして、水が流れるような音が辺りに響き、目の前の気配が自分に近付いてきている事に身震いをする。その時点で彼は、自身の身体がぐっしょりと濡れていることに気が付いた。そして、女性特有の高い声で人魚と思われる女が話し始めたのだ。


「ねぇ、こんなところで何をしているの? 雨が降っているのに外で読書だなんて、変わっているのね」


 雨は変わらず降り続けているはずなのに、女の声だけがはっきりと聞こえてくる。彼は雨によって濡れているのだ。話しかけられたことへの動揺と焦りから、呼吸が早まっていた。これは夢か、現実か。そのどちらともつかぬこの瞬間、この光景に彼は夢であってくれ願う他ならない。意識は、完全に目の前にいるであろう人魚に向かっていたのだ。


「おーい、雨強くなってきてるから見張りはもういいぞ。早く中に入ろう。この時期に風邪なんか引いたら大変だ」


 いつの間にか後ろに立っていた友人の声に驚いて、彼は肩をビクつかせた。この状況をどうするか、と一生懸命考えていた彼には友人の気配に気付かなかったのだ。見慣れた友人の顔を見て、彼の力んでいた肩の力が自然と抜けていく。友人の言葉にワンテンポ遅れて返事をし、立ち上がった。その一瞬を利用して、彼は人魚に目をやると人魚は地面に肘を突いて、にこにこと彼を見つめていた。


「また、会いましょう。今度はお話しましょうね」


 彼は声に反応を示さぬように、と手を強く握りしめた。友人は7月にも関わらず長袖を着ている。人魚の声に恐怖を抱き、思わず友人の袖を掴んでしまった。雨はほんの少し、弱まっている。


 テントに入ると、彼は全身の緊張が解け座り込んでしまう。手に持っていた本は、完全に水を吸ってびちょびちょになっていた。そんな様子の彼に友人は不思議な念を抱き、何かあったのかと聞いてきた。心配をかけるまいと、彼は咄嗟に雨に濡れて少し寒くなっただけだと答えた。自分を心配する友人をみて、ふとあることに気付く。なぜ、友人は目の前にいたはずの人魚になんの反応も示さなかったのだろう。自分たちが目的としていた人魚がいて、彼に声を掛けていたのだ。驚くなり、興奮するなり、小さな反応なんかがあっても可笑しくはないのに。友人は彼の様に、震えても冷や汗をかいている様子もなかったのだ。彼はその時、悟ってしまった。人魚を認識していたのは自分だけなのだと......。それから、何度も心配をしてくれる友人を安心させるように笑顔を取り繕いながら、自分が殺されてしまうかもしれないという恐怖に体を震わせていた。


 次の日、雨はまだ降り続いている。本来はBBQをする予定だったが、雨が止む様子がないため、昨日と同じように交代をしながら湖を見張ることになった。彼は憂鬱な気持ちのまま、自分の番が来るのをただ待つことしか出来ない。いっそ、昨日のことを全て話してしまおうかと思ったが、自分しか人魚が見えていないのでは信じて貰える気がしなかった。友人は何度も彼を心配する様子を見せていたが、彼はそのたびに大丈夫だと答えてしまった。結局誰に相談することもできず彼の番になり、外に出ることになる。彼は、家に帰りたい気持ちでいっぱいだった。既に昨日の人魚が、彼をにこにこと笑って見つめていたからだ。その笑顔が、彼には不気味でしょうがなかった。ほんの少し、雨が強くなったように感じる。


「やっと来てくれた。また読書をするの? 読書よりもお話する方がずっと楽しいよ」


 昨日と同じ調子で話しかけてくる人魚に、もう見えていることに気付いているのではと思ってしまった。本当にそうなのだとしても、せめてもの悪あがきで椅子を湖より少し遠ざけて座った。人魚は不服だと言うように頬を膨らませる。そして、ほんの一瞬寂しそうに目を伏せて、彼を静かに見据えた。雨はさっきよりも強く降っているが、昨日ほど風は吹いていない。


「人間は良いよね。自由に陸を歩き回れるから、広い世界が見られて。私たち人魚は、水の中でしか生きられないのに......」


 彼は特に返事をする素振りも見せず、静かに話を聞いていた。確かに、この湖では変わり映えしない毎日を過ごすことになるだろうなと、他人事のように考えていた。唯一変わるとしたら、草木くらいだろう。湖もそこまで広くは無い。世界の広さに比べればちっぽけな場所だ。雨はまた、小さく降り始めた


「昔はね、私達も海で暮らしてたんだって。でも、ある男が一人の人魚にほれ込んで連れ去ったんだ。それで、どこにも逃げないようにこの湖に連れてきたらしいの。酷いよね。広い海を泳ぎ回っていた人魚からしたら、ここはただの牢獄でしかないのに」


 人魚は独りで話し続けた。彼は、だからあんな人魚の伝説が出来上がったのかと考える。この人魚は寂しかったのか、それとも自分たちを狭い世界に閉じ込めた人間が憎いのか。答えは分からないが、彼は人魚を哀れに思った。同時に、人魚を恐れていた自分が恥ずかしくなる。彼は立ち上がり、湖に近付いて人魚に言い放った。


「なら、僕が広い世界に連れ出してあげるよ。今すぐは無理だけど、海に行きたいというなら連れて行ってあげる。だから、もう少しだけ待てないかな」


 人魚は目を見開いた。そして、泣いているような、笑っているような顔で彼を見つめた。雨はまた強く降り出していく。


「もう、遅いよ......」


 その刹那、彼の身体は湖に引きずり込まれていった。助けを呼ぶにも、水中からでは声が響かない。


「私は何年も何十年も待ったわ。今度は私が、あなたをそばに置いておくの」


 人魚は彼の頬に手を添えながらそう呟いた。彼は酸素を取り込むことが出来ず、もがくことしかできなかった。その時の人魚の顔は狂っているかのように、顔を歪ませていた。彼は意識が遠のいていく中、必死に上へ上へと手を伸ばし続ける。人魚は逃がすまいと、彼にへばりつき下へ下へと引っ張っていく。その時の人魚の顔は泣いているように見えた。彼はその顔を見ると、一気に力が抜け意識を手放しかけた。しかし、何者かが彼の手を掴み上へと引っ張り上げていく。水中からようやく顔を出せた彼は、酸素を急に取り込むことになりむせてしまう。何度も咳を繰り返し、酸素を取り込めたことに安堵した。自分を引き上げてくれた人に礼を言おうと、顔を上げて相手を見やると彼は驚きの声を上げた。なぜなら、そこにいたのは人魚の姿をした友人

だったからだ。


「もう大丈夫。雨が止んだから上がってこれないよ。足首を掴まれないように、早く上がって」


 そう促され、彼は陸に上がると友人も一緒に上がってきた。すると、さっきまで人魚の尾の形をしていたものが人間の足へと姿を変えた。雨はすっかり止み、日が差している。状況に追いつかない頭を何とか整理しようと、彼は友人に問いかけた。


「何で、助けに来てくれたんだ? さっきの魚の尾は一体なんなんだ?」


「君が水に落ちる音が聞こえて、駆け付けたんだ。驚くかもしれないけど、僕は半人半漁。所謂半魚人ってやつだ。水に浸かると下半身が魚になるんだよ」


 男の子は口をあんぐりと開けた。もう、何が何だか分からなくなり、一人で頭を抱えた。


「じゃあ、さっきの人魚も陸に上がったら人になるのか?」


「残念ながら、ならないよ。彼女は純潔の人魚だからね。僕が人と人魚の姿になれるのは、父が人間で母が人魚だからだ。水に濡れると鱗が出てしまうから、暑くても長袖を着ていたんだけど」


 全く気付かなかったという彼に、まあそうだよねと返す友人。彼は、静かに湖へと目を向ける。もしかして友人は最初からここに人魚が住んでいることを知っていたのだろうか。なら、何でここに来ようとしたのか。彼の考えを知ってか知らずか、友人は話始める。


「ここにいる人魚はね、海から連れてこられたんだ。伝説になっている人魚は彼女だよ。愛する人をただ待っているだけの健気な人魚だったんだけどね。何十年も前の人が生きている訳がないことを悟って、無差別に自分に気付いた人を待ち人だと思って水の中に引きずり込んでいたんだ」


「......何で助けなかったんだ? 知っていたんだろう?」


「勿論、助けようとしたさ。だけど、それを彼女が拒んだんだ」


 友人は家族と何度も人魚の元を訪れて、ここから連れ出すと伝えていたそうだ。だが、それを拒み続ける人魚に友人たちはお手上げだったそうだ。


「でも、ここから連れ出さないとまた同じことを繰り返すだろう」


「......たぶん、もうできないと思うよ。湖の中をよく見て」


 彼は友人に言われるがまま、湖に視線を向けた。そこには、何かに苦しむ人魚の姿が。身体の一部が少しずつ泡となっているのが確認できた。


「人魚の寿命は300年ほどなんだ。彼女は300年以上も生きた老魚だよ。可哀想ではあるけど、来るはずもない人を待ち続けるよりかはマシだろうから」


 そういう友人の顔は、人魚を憐れんでいた。結局何も出来なかった自分に、彼は不甲斐なさを感じた。友人は彼に優しい目で訴えた。君のせいではないのだから気にする必要はないのだ、と。だが、彼はいてもたっても居られなかった。人魚は半分ほど消えかかっていたが、日差しに照らされて幾分乾いた服のまま彼は湖に飛び込んだ。友人は驚き、手を伸ばしたが届くことはなかった。


 人魚の身体からは泡が溢れ出ている様子は、まるで水の中で雨が降っているかのようだった。彼はその人魚に向かって手を伸ばし、そっと肩に手を乗せて無視してしまったこと、無責任なことを言ってしまったことを謝罪した。人魚はもう良いと、最初から分かっていたと、顔を覆いながら言った。もう、あの人は居ないしあの人の代わりなんているはずがないのは、分かっていたけれど諦めきれなかった自分がいて、貴方に迷惑をかけてしまった。人魚は自分の方こそすまなかったと、謝罪した。そして、自分の腕にある鱗を一枚剥ぎ取り彼の手に握らせた。せめてものお詫びに、お守りとして持っておけと言った。そして......






人魚は泡となって消えていった。






 彼が再び陸に上がると、友人はホッとした様子で話しかけてきた。


「急に飛び込むからびっくりしたよ......」


「......ごめん。あと、これ貰ったんだけど」


「人魚の鱗だね。厄除けとか、縁結びとか色々な効能があるから、持っていて損はないよ」


 友人のいつもの調子に、先程までの出来事が全て噓のように感じられた。そして、また優しい雨が降り始めるのだった。


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雨と人魚 睦月ふみか @mtkfmk

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