衝突

 将也が里奈と一緒に住むようになってから4日後。将也は里奈を迎えに指定された駅に向かっていた。将也の最寄り駅からは乗り換え1回を挟み、45分のところだ。

 時刻は21時30分。主要駅ということもあり、この時間になっても少なくとも10以上はある自動改札機を出入りする人が途切れることはない。

 将也は改札を出ると歩きながら里奈の姿を探すと、ちょうど将也から見て左側の通路から里奈が向かって来るのが見えた。隣には、将也にも見覚えのある男が肩を並べて歩いている。

 相手の男も将也に気づいたのか、一瞬だけ目を見開いたかと思うと、その表情は将也を見下しているような笑みに変わった。

「なんだ、将也じゃないか。久しぶりだな」

 里奈の横を歩いていた男、岸健史はどう見ても将也との再会を喜んでいるようには見えないどころか、敵意を抱いているように見える。

「……ああ、久しぶりだな」

 将也は健史の態度に戸惑わずにはいられなかった。確かに今将也は健史に対して劣等感や嫉妬を抱いてはいるものの、それは養成所をやめ、健史がデビューした事を知ったときからだ。その頃には健史と顔を合わせることも無くなっていたし、養成所時代には健史とはどちらかと言えば仲が良かったくらいだ。

「偶然再会したってわけじゃないだろうし、コイツが里奈が言ってた『待たせてる男』なんだろ?」

 健史は横で決まり悪そうにしている里奈に尋ね、それに対して里奈は「そうだよ」と短く答える。

 将也は2人の間に何かあったのか何となく察した。きっと健史が里奈を食事か何かに誘い、里奈は人を待たせていると断ったはいいものの、健史がここまでついてきてしまったのだろう。それならば、健史が自分を敵視しているのも納得が行く。

「そうか。で、お前今何やってるの?」

 健史は明らかに将也が今ろくな仕事に就いていないことを期待しているような表情を浮かべながら、将也を見た。

「それは……」

 将也は即答できず、視線を落とした。馬鹿正直に今は無職だなんて言えるはずがない。そんなこと言ったら最後、間違いなく健史は馬鹿にしてくるだろう。

「あれ、もしかしてすぐに答えられないってことは……もしかして無職か?」

 健史は目を細め、口元を歪めた。

「……いや、働いてるよ」

「じゃあ何で即答できなかったんだ? 嘘をついてるか、どうせろくな仕事じゃないんだろ? その暗い顔見れば嫌でも分かる」

 将也が目を合わせずに言うと、健史はそう答えるのが最初から分かっていたかのように畳み掛けてきた。

 悔しかった。事実、養成所をやめてからもダラダラとフリーターを続け、挙句の果てにクビになってしまった。言い返すこともできず、殴りかかろうかとも思ったがそれも負けを認めたようなものだ。将也はうつむいたまま拳を握りしめ、怒りをこらえることしかできなかった。

「健史、どうしてそんな事言うの? 昔は将也と一緒に練習したり、仲良かったのに」

 見ていられなくなったのか、里奈が2人の会話に割り込む。

「何言ってるんだ」

 健史は里奈を一瞥すると、

「俺は昔からコイツのことが嫌いだったよ」

 将也に一段と低い声とともに、冷たい視線を向けた。

「そうか。まあ、俺も昔からお前のことは嫌いだったよ。デブでいちいちハァハァうるさかったしな」

 将也は声を震わせながらも言い返す。

 かつて将也は養成所時代、里奈と健史を入れた数人で良く一緒に練習をしていた。そしてその合間に健史と雑談をすることもあり、年が近いこともあって健史には親しみを抱いていた。

 だが、「昔から嫌いだった」と言われたことにショックを受けていたのと、やられっぱなしではいられなかったことから、つい事実とは違う憎まれ口で返してしまったのだ。

「チッ……昔の話だろ」

 今の健史は標準体型だが、昔は太っていた。本人としてもあまり触れられたくない過去なのだろう。優位に立ち、余裕の笑みを見せていた健史の表情が苦々しいものに変わっていく。

「は? 何言ってんだ。痩せて見てくれだけは良くなったみたいだけど、中身は醜いブタのままじゃねえか。そんなだから、里奈を誘っても断られるんだよ」

「くっ……」

 みるみるうちに健史の顔が赤くなっていく。

「なんだ、適当に言ったのに当たっちまったか?」

 今度は将也が馬鹿にしたような笑みを浮かべながら言うと、

「この野郎! 無職のくせに調子に乗ってんじゃねえぞ!」

 健史は将也に掴みかかろうとしたが、2人の間に里奈が割って入った。

「将也も健史もやめて! そんな子供みたいな理由で喧嘩だなんて格好悪いよ」

 里奈が割り込んでもしばらく2人は睨み合っていたものの、結局はお互い距離を取った。しかし睨み合いは続き、先に口を開いたのは健史だった。

 健史は苛立ちをこらえているのか、感情を押し殺した口調で、

「どうやって復縁したのか知らないけどな、お前みたいな無職野郎に里奈は相応しくない。どうせまたそのうち別れるに決まってる」

 下がったメガネを左人差し指で上げ、右口端を引きつらせる。

「なんだと……! ああ、そうだよ! 俺は無職だよ。だけどな、すぐにお前みたいな半分フリーターみたいな売れない声優じゃ、どんなに頑張っても稼げないくらいの収入になってやるよ」

 将也も負けじと、近くを歩いていた通行人が将也の方を振り向くほどの大声で言い返す。

「……フン。そういうことはまず仕事を見つけてから言うんだな」

 健史は里奈と将也に背を向けて歩き出したかと思いきやすぐに振り返ると、

「里奈、俺は諦めたわけじゃないからな」

 そう一言言うと、2人の前から去っていった。


 翌日から将也は名前と住所だけ入れて放置していた求人サイトのプロフィールを更新すると、いいと思った求人にひたすら応募し続けていた。将也の家は固定回線の契約が無いので、机の上に置かれたノートPCの前にいるものの、スマートフォンを使っている。

 当然特にスキルがあるわけでもなく、フリーターの期間が長かった将也の職歴では、ほとんどがお祈りになってしまう。

 求人を見ている間にも題名で書類選考落ちだと分かるメールが届き、思わず将也は舌打ちをしてしまった。

 こんな不毛なこと放り出して酒が飲みたくなってきたものの、健史に大見得を切った手前、やめるわけにも行かない。しかし今の所書類選考通過率は0%。結局心が折れてしまった将也はスマートフォンを放り投げ、右手の拳を握った状態で頬杖をつくと、大きなため息をついた。

「将也、そんな風に焦ってたって上手く行かないよ?」

 ベッドに座って台本を読んでいた里奈が将也の元に歩み寄り、声をかけた。

「そんな悠長な事言ってられるわけ無いだろ。いつまでもこんなヒモみたいな生活続けてられるか!」

 将也は放り投げたスマートフォンを再び手に取ると、今度は別の求人サイトで検索をし始めた。

「将也、私は別に大丈夫だよ。前にも言ったけど、結構稼いでるし」

「そんなかっこ悪いことできるか……あ」

 いくら里奈が結構稼いでいて、大丈夫と言っていようが、里奈が努力して稼いだお金がこんなクズみたいな無職に使われるなんて耐えられない。ストーカーもなんとかしなければならないが、仕事を見つけて里奈の負担を減らさなければ。

 将也がそんなことを考えていると手にしていたスマートフォンが震え、視線をディスプレイに移動させると、通知には、『面接日程について』と表示されていた。

「よしっ!」

 将也は思わずガッツポーズをした。メールを開き、その場で返事のメッセージを打ち始める。

「何の仕事なの?」

 里奈は将也が手にしているスマートフォンの画面を覗き込んだ。

「事務」

 将也は指を止め短く答えると、再び文字を打ち始める。

「事務? 将也事務やったことあるの?」

「ないけど」

「どうして事務なの?」

 里奈の質問攻めにうんざりした将也は顔を上げた。

「うるさいな。無職なんだから仕事を選んでる場合じゃないだろ」

 将也はつい荒い口調になってしまったものの、

「だけど、自分が何をやりたいかとかもっと考えたほうがいいんじゃない? そんなに適当じゃ入ったはいいけど、すぐに辞めたくなっちゃうかも」

 里奈はそれに物怖じすることなく自分の意見をぶつけてくる。

「やりたい仕事をできたからって辞めたくならないのか? そんなわけ無いだろ?」

「確かにそうだけど……」

 痛いところを突かれたのか、里奈の声が小さくなる。思い当たりがあるのだろう。人気声優といえども、上手く行かずに辞めたくなったことも一度や二度では無いはずだ。

「そもそも、やりたいことなんてやらない方がいいんだよ。大体理想と違っていたり、そもそもそこにたどり着けないんだからさ」

「そんなことないと思うけどな。努力を続けていれば、きっと理想に近づけると思う」

 その一言に、将也の指が止まった。

「……それ、途中で諦めてしまった俺への当てつけか?」

「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけど」

 里奈はすかさず謝罪をしたものの、将也は無視して指を動かし続けた。


 2日後。将也は久しぶりにスーツに身を包み、書類選考通過のお知らせを受け取った会社の社長室に設置された応接スペースにいた。

 将也がやってきたのは、社員30人ほどの建築会社だ。小さなビルだが、ビル名に会社名がついていることから、どうやら自社ビルのようだ。

 部屋内を見渡すのも気が引け、将也は椅子に座った状態で背中を丸め、机に視線を落として待っているとドアを開く音が聞こえた。反射的に立ち上がると、将也をここまで案内した女性と、将也を値踏みするような表情をした60代くらいと思われる男が立っていた。

 男と女性は将也の反対側に回り込むと、男は名刺入れから名刺を取り出し、

「社長の芦屋です」

 名刺を手のひらで押さえつけるように机に置くとそのままスライドさせ、将也の前に置いた。

「はい、ありがとうございます……」

 将也は困惑しながらも机に置かれた名刺を拾い上げた。名刺はこのようにではなく、直接手渡しするものだと将也も知っていた。将也の顔を無遠慮に見てくるあたり、見下されているのがすぐに分かる。

 しかし、自分は立場が下だから仕方がないと将也は不快感をこらえ、

「朝倉です。本日はよろしくお願いします」

 深々と頭を下げた。

 そんな態度の社長の芦屋に対して、隣に立っている女性は笑みを浮かべ、

「すみません、自己紹介がまだでしたね。副社長の芦屋真理子です。どうぞ、お座りください」

 手で将也に座るように示した。

 将也は座ると2人に履歴書と職務経歴書を渡し、面接が始まった。

 2人はしばらく履歴書と職務経歴書に目を通した後、社長の芦屋が手に持っていた履歴書を机の上に雑に放り投げると、口を開いた。

「で、なんでうちを受けようと思ったの?」

 見下したような態度とタメ口に、将也はかつてのバイト先で中高年を接客したときの事を思い出してしまっていた。

 こちらが下手に出ているのをいいことに高圧的に接してくる、思い通りに行かないとすぐ怒鳴る。お釣りとレシートを一緒に渡そうとしたら口で言えばいいのに、手の位置を高くしてお釣りだけ受け取ろうとしてくる……。まれに丁寧に接してくれる人がいると逆に怖くなってしまうほどだった。

 嫌なことを思い出してしまい胃に不快感を覚えたものの、作り笑いを浮かべ、考えてきた志望動機を話し始めた。

 しかし社長の芦屋は途中でスマートフォンを取り出したりと、まるで最初から落とすつもりかのように、まともに聞く気がない態度でそれを聞いていた。

「で、君は事務をやったことあるの?」

 将也が話し終えると、社長の芦屋は背もたれに背中を預け、右手小指で耳穴をかきながら尋ねてきた。

「いえ、やったことないですが、一日でも早く仕事を覚えていければと思っています」

 書類を見ればすぐに分かるだろ、と将也は思ったものの、意識して声を張って答えた。

「ほんとにできんのかね。君ずっとフリーターだったんだろ?」

「確かにフリーターでしたが、今では将来の事を考えてなかったと反省しています。これまでの遅れを取り戻す勢いで頑張っていきたいと思います」

「そもそもさ、大した頭使わなくても誰でもできるような仕事ずっとやってた奴が仕事覚えられるのか?」

「はい、なんだかんだで覚えることが多かったので、記憶力は自信があります」

 第三者の目から見れば、こんな失礼なことを言ってくるような男が社長の会社なんて働かないほうがいいと思うものだが、不思議なもので面接中はそんな状況でも相手に気に入られようとおべっかを使ってしまうものだ。

「そういうことじゃないんだよ。フリーターなんて責任がないだろ。何で事務をやろうと思ったんだ? どうせ事務なんて誰にでもできる簡単な仕事だって思ってるんじゃないのか?」

「いえ、そんなことはないです」

 将也は「そういうことじゃない」ってどういうことだよと思いつつも即座に言い返すと、

「だいたい最近の若い奴はすぐ楽をしたがって責任から逃げだす。俺が若い頃なんて進んで責任のある仕事を選んだものだけどな」

 芦屋は将也の話を聞こうとせず、頭ごなしの決めつけと、昔の自分語りをし始めた。

「どうせ採用してもすぐやめちまうに決まってる。お前じゃこの仕事無理だよ」

「……」

 わざわざ書類を書き、志望動機を一生懸命考えて面接を受けに来たはずなのに、なぜ自分は説教を受けているのだろう。しかし言い返すわけにも行かず、将也耐えることしかできなかった。

「……なにか質問はありますか?」

 流石にまずいと思ったのか、ずっと黙っていた副社長の芦屋が、苦笑を浮かべながら尋ねた。

 将也が内心「あるわけねえだろ」と毒づきながらも、「ありません」と短く答えると、社長の芦屋が立ち上がり、

「まあお前みたいな責任感のない奴は、どこ行っても雇ってくれないぞ。いいとこパートじゃないか?」

 そう言い捨て、部屋を出て行った。

 悔しかった。確かに自分の経歴は褒められたものではないが、だからといってそんな馬鹿にした態度を取っていい理由にはならないし、会って数分しか経っていないのになぜここまで決めつけられなければならないのだろうか。

 本当なら追いかけて一発殴ってやりたかった。あと一言があれば、本当にやってしまっていたかもしれない。だが、将也は背中を丸めて膝を強く握りしめ、屈辱を必死にこらえた。


 今日は収録がないため、家にいた里奈はドアが開く気配を感じ、玄関へ向かった。

 里奈が目にしたのは、将也が冷蔵庫から高アルコール度の缶チューハイを取り出し一気に飲んでいるところだった。まだ16時、酒盛りを始めるにはまだ早い時間だ。

「将也おかえり……っていきなり飲んでる」

 いきなり酒を飲み始めていたことに驚き、里奈は目を丸くしつつも、

「面接、どうだったの?」

 帰宅するなり酒を飲み始めるくらいだから、きっと結果は芳しくないのだろうと想像はついたが、尋ねずにはいられなかった。

「……お前には無理だよと説教された」

 将也は正直に答えるか迷っているのか、間を開けた後、今日あったことを話し始めた。

 社長の態度が酷すぎたこと。

 頭ごなしにお前にはムリだと言われたこと。

 文句を言ってやりたかったが、負けた気がして結局言えなかったこと。

 大まかな話を聞いただけの里奈も、自然と表情が暗くなる。どこかに就職することなく声優になった里奈が経験した面接といえばバイトの面接くらいだが、それでもあまりにも酷すぎることは分かる。

「そっか……それは大変だったね。だけど、面接で言われたことも全部が間違いではないと思うよ。将也は特別事務をやりたいってわけでもないし、やっぱりやる気がある人を取りたいって思うのは別に変じゃないと思うけどな」

 ひどい会社があるものだと憤りを覚えたが、これをきっかけに少しだけでもいいからやりたいことを考えるようになって欲しい。里奈がそう思ったのもつかの間、

「……なんだ、里奈もあの社長の肩を持つのか?」

 将也は缶を握る手の力を強め、缶がひしゃげる音が鳴る。

「違うよ。私もひどい社長だなって思うけど、やっぱり働ければ何でもいいっていうのは良くないってだけ」

 確かに誤解を与える発言だったかもしれない。しかし、今の将也に必要なのはとりあえず何でもいいから働き始めることではなく、何かしたいことを見つけて再び前に進み始めることだ。

「そりゃ、お前はやりたいことをやれてるからいいよな」

「それは今関係ないでしょ」

 里奈は意識的に落ち着いた声で将也に言い返した。

 将也の顔は早くも赤くなり始めている。酔っぱらいに説教しても仕方がないかもしれない。しかし、このままではただ面接回数をいたずらに増やすだけで上手くいくはずがない。そして間違いなく将也は自信を無くしてしまうだろう。

「いやあるね。お前みたいな勝ち組に、俺みたいな落ちこぼれのことなんて理解できるはずがない」

 将也は冷笑を浮かべながら言うとまた一口缶チューハイを飲み、だるそうにため息をついた。

「将也、もう少しだけ素直になろう? このままじゃ、ずっと仕事決まらないよ?」

「お前何様のつもりだ? もう恋人でもなんでもないんだぞ?」

「……そういう言い方ないんじゃない?」

 自分だけは怒っては駄目だ。そう思っていたはずなのに、気がつけば里奈は言い返してしまっていた。

「は? 実際そうだろ」

 将也は一瞬面食らったように固まっていたものの、里奈に向かって一歩踏み出した。

「私は将也の事を心配してるんだよ?」

 しかし里奈も文字通り一歩も引くことなく、言い返す。

「誰も頼んでないだろ? 大体、お前がいなきゃそもそもこうなることもなかったんだぞ?」

「私がいなきゃ路頭に迷ってたのに?」

「だから誰も頼んでないって言ってるだろ。ちょっと売れたからって調子に乗りやがって」

 その一言に、里奈の怒りは爆発した。さっきまで自分だけは怒っては駄目だと思っていたはずなのに、もう我慢ができなかった。

「最低」

 里奈はすれ違いざまに将也に体をぶつけ、外へ飛び出していった。

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